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ぐずり、と鼻を啜る。およそ人間の鼻から出るとは思えない粘着質な音が静かなオフィスに響くと、隣に座る後輩が「うわぁ……」と言わんばかりの呆れ顔をこちらに向けた。
「先輩、まだ帰ってないんですか。というか、その顔、放送禁止ですよ」
「……わかってる。市販の薬、全然効かないんだよね」
目の痒みもいよいよ限界だ。視界は常に涙で潤み、眼球を丸ごと取り出して洗いたい衝動に駆られる。いっそ花粉対策用のメガネでも買って物理的にガードすべきか悩み始めてもう三日。後輩はキーボードを叩く手を止め、憐れむような視線を投げかけてくる。
「長くないですか? もう一週間くらいその状態ですよね。仕事の効率、絶対落ちてますって」
「そうだね……。味覚も死んでるから、最近は無味無臭の食事にも慣れちゃったよ」
「それ、全然笑えないんで。早く帰ってください」
「薬、家にあるんでしょ?」と、出社早々PCを起動させた後輩が画面から目を離さずに追撃してくる。そうなのだ。いつからか発症したこの忌々しい花粉症の特効薬――処方箋でもらった強力なやつ――は、家にある。
だから、帰ればいいのだ。帰れば解決する。けれど。
「……今は、実家に帰らせていただきます状態なんだよ」
「は? 実家って、先輩のご両親、他地方ですよね」
「比喩だよ。実際は、そこのシャワー室と仮眠室をフル活用してる」
「社畜の鑑を通り越してただの不審者ですよ、それ。……先輩、同居人の方のこと、あんなに大好きだったじゃないですか。なんでいきなり?」
「…………花粉症かなあ」
「はあ? 質問に答えてください。あと、先輩のは『かなあ』じゃなくて、紛れもなく花粉症です」
真面目に取り合わない私にいよいよ興味を失ったようで、後輩は「勝手にすればいいですけど」と鼻を鳴らし、カタカタと乾いた打鍵音を響かせ始めた。
きっかけも、理由も、突き詰めれば大したことではなかった。
洗濯機の中で放置されたままの生温かい衣類とか。使ったあとの調味料が、出しっぱなしで蓋も緩いこととか。家族であれば笑って流せるような、日常のささいな、取り留めもないひとかけら。けれど、私にとって彼女の存在は、とても大きく映っていた。
自分に自信がないわけではない。今日まで精一杯生きてきた自負はあるし、今就いている仕事も、積み上げてきた人間関係も、すべてに満足している。
けれど、いざ彼女を目の前にすると、どうしても自分が小さく見えてしまうのだ。
四天王としてパルデアの重責を背負い、リーグ勤めで多忙を極める彼女。そんな彼女の苦労に比べれば、私の抱える洗濯物の不満なんて、口に出すのも憚られるゴミ屑のようなものに思えた。
『チリは私よりずっと大変だよね。これくらい、私がやっとけばいいか』
いつの間にか、そうやって自分を納得させることが癖になっていた。不満を飲み込むたびに、私の言葉は居場所を失い、喉の奥に澱のように溜まっていく。チリに対する不満はもちろん、今日何があったかという些細な報告すら、言い出しにくくなってしまっていた。
...
あの日、私は運が悪かった。
数ヶ月準備してきたプロジェクトが、先方の都合で延期になった。正直災害のようなもので、先方もこちらも落ち度はなかった。けれど、チーム長としてメンバーの士気を支え、頭を下げ、深夜まで事後処理に追われた体は、鉛のように重かった。
ようやく退勤の打刻をしたのは、日付が変わる直前。ため息を吐き出す元気もなかったけれど、空っぽの冷蔵庫を思い出して、重い足取りで24時間営業のスーパーに寄った。
運の悪さは、そこでも続く。
狙っていた最後の一つの半額惣菜が目の前で見知らぬ誰かに奪われ、買い忘れに気づいて店内を二往復し、ようやく重いレジ袋を提げて玄関の前に立った瞬間――最悪なタイミングで、課長から追い打ちの電話がかかってきた。
「はい、お疲れ様です……。ええ、その件は明日……はい……」
深夜の静寂に自分の卑屈な敬語が響く。
ようやく通話を終え、鍵を開ける。もしこれが実家なら、母に「聞いてよ、今日最悪でさ」と甘えられただろうか。けれど、ドアを開けた先にいるのは――。
「遅い。何してたん? チリちゃんの電話にも出んと」
玄関の灯りが、パッと眩しく私を射抜いた。
そこには、明らかに「拗ねています」という不機嫌さを隠そうともしない、端正な顔立ちの彼女がいた。
その姿を見た瞬間、胸の奥でせき止めていたものが、冷たく固まるのを感じた。
(ああ、やっぱり言えない)
プロジェクトの失敗も、半額惣菜を買い逃した情けなさも、課長からの電話にへこんでいることも。
彼女にとっては「そんなこと」でしかないのだと、勝手に決めつけてしまう。そう思ってしまう自分が一番惨めで、吐き気がした。
「ごめん。ちょっといろいろ……トラブルで」
「トラブル? ほんまに? 浮気とかしてへんよな?」
いつもの、彼女なりの独占欲。冗談混じりの、可愛い嫉妬。
普段なら「そんなわけないでしょ」と笑って抱きつけるはずのその言葉が、この時ばかりは、ひどく、ひどく煩わしかった。
「……はは、そんなわけないよ。チリ、ご飯まだならお惣菜買ってきたから」
目を合わせないように俯くと、鼻の奥がツンと痛んだ。
これは花粉症のせいだ。絶対、そう。
私の特効薬はすぐそこの棚にあるはずなのに、今の私には、それすら手に取る権利がないように思えた。
チリをいなしてリビングに一歩踏み入れると、視界に飛び込んできたのはソファに無造作に放り出された彼女のジャケットと、床に散乱した衣類だった。
いつもなら「もう、脱ぎっぱなしにして」と苦笑いしながら拾い上げるところだが、今はその「いつも通り」を演じるエネルギーすら残っていない。吐き出しそうになった大きなため息を、無理やり喉の奥へ押し戻す。
チリは、仕事相手と軽く済ませてきたのか、すでにリラックスモードのようだ。
「自分ご飯なら、チリちゃん酒飲もかな」
気味いい音と共に、ビールのプルタブが開けられる。
私は、散らかった服を機械的に畳んで端に寄せ、ようやく自分の夕飯――あの災難続きのスーパーで勝ち取ったはずの惣菜袋――を手に取った。
ビニールのカサカサという音が、静かな部屋に虚しく響く。……けれど、袋を覗き込んだ瞬間、私は固まった。
「あ、すまん。それ、めっちゃ美味そうやったから、ちょっと食べてもうたわ」
悪びれもしない、いつもの飄々とした笑顔。テーブルの上を見れば、私が自分へのご褒美に選んだ白和えのパックが無惨に開けられ、中身はすでに半分以下に減っていた。
……マジか。
たかが白和え。されど白和えだ。今日、私がどれだけの思いをしてこのパックを手に取ったか、彼女は知る由もない。
「……そっか。いいよ、別に」
潤み始めた視界を隠すように、私は必死で瞬きを繰り返す。
(耐えてくれ、私の涙腺。今ここで泣いたら、理由が白和えを食べられたからになってしまう。そんなの、惨めすぎて死にたくなる)
いざとなれば「花粉症で目が痒いだけ」と言い張ればいい。花粉症も、こういう時の言い訳には丁度いいな……なんて、精一杯の現実逃避をしてみても、胸に沈殿した惨めさは一向に拭えなかった。
もう一つの惣菜パックと箸を持ち、チリの向かいに腰を下ろす。
「お疲れさん」
そう言って笑う彼女は、アルコールのせいか上機嫌に見えた。
(よかった、玄関であんなに不機嫌だったから、まだ怒ってるかと思った……)
これ以上彼女の機嫌を損ねて、問い詰められるようなことになったら、今日ばかりは本当に心が折れてしまいそうだったから。
けれど、彼女の鋭い観察眼を侮るべきではなかった。
「今日、なんかあったん?」
「え……?」
「雰囲気、いつもとちゃうし。何があったんか、チリちゃんに言うてみ?」
めざといな、本当に。さすが面接官。
そんなところまで四天王としての洞察力を発揮しなくていいのに。知らんぷりして、笑っていてくれればいいのに。
彼女の優しさが、今は何よりも痛い。懲りもせずまた、鼻の奥がツンと熱くなる。
「あ、えっと……花粉症のせいで、あんまり体調良くないのかも。頭もぼーっとするし」
「嘘つけ。ほんまは?」
「……ほんとに。嘘じゃないよ」
半分は、嘘ではない。薬を飲んでも止まらない鼻水のせいで顔面は重痛いし、目のゴロゴロとした不快感のせいで、自分でもわかるくらい目つきが悪くなっている。
チリはいつも私に優しい。何も言わなくても、私の指先の震えや、声のトーンの僅かな変化に気づいて、こうして言葉にして向き合おうとしてくれる。
けれどもその真っ直ぐさが、今の私にはあまりに眩しすぎて、噛み合わなかった。「聞いてくれている」のはわかっている。なのに、言えない。
言いたくないわけじゃない。けれど、口を開けば、溜め込んできたドロドロとした卑屈な感情が、せきを切って溢れ出してしまうのが怖かった。私のちっぽけな思いは、チリに全く釣り合わないだろうから。
いつか後輩が言っていた。
『花粉症って、体内に一定量の花粉が溜まって、コップの水が溢れるみたいに、ある日突然発症することもあるらしいですよ』
今の私は、まさにそれだ。
チリへの遠慮、自分への失望、日々の小さな不満。
それらが心という名のバケツに、なみなみと溜まっている。あと一滴。あと一言、彼女に真っ直ぐな瞳で優しくされただけで、私はもう、私を保っていられなくなる。
溢れ出しそうな「何か」を堰き止めるために、私は逃げる道を選んだ。
「……ごめん。やっぱり食欲ないや。シャワー浴びて、もう寝るね」
「はっ?ちょ、待ちぃや、ミント。一口も食べてへんやんか。自分、ほんまに――」
背後から伸びてきた彼女の手が、私の肩を掠める。
その温もりに触れてしまったら、きっと私はその場に蹲って、子供のように声を上げて泣き出してしまうだろう。それだけは、絶対に嫌だった。
「おやすみ、チリ」
振り返らず、それだけを絞り出す。
彼女が次に何を言おうとしたのか、どんな顔をして私を見送ったのか。それを確認する余裕なんて、一ミリも残っていなかった。
廊下へ逃げ出し、洗面所のドアを閉めて鍵をかける。
カチャリ、という小さな金属音が、今の私と彼女を隔てる唯一の境界線だった。
鏡に映った自分の顔は、ひどいものだった。鼻は赤く、目は花粉症と涙のせいで真っ赤に充血し、絶望的に不細工で。
「……っ、ふ……っ」
蛇口を捻り、水の音で自分の声をかき消す。
洗面台に突っ伏した途端、堪えていた涙がどろりと溢れ出した。止まらなかった。
鼻水なのか涙なのか、もう自分でも分からない。呼吸をするたびに、喉の奥がヒリヒリと焼けるように痛む。
(寝室、分けといて正解だったな……)
同じベッドで背中を合わせることすら、今の私には耐えられそうにない。流れる水の音を聞きながら、明日から、少しの間だけ距離を置こうと決意した。
私たちは長く、近くにいすぎたのかもしれない。
...
仕事を終えて立ち寄ったお手洗いで、鏡の中に映る冴えない自分と向き合う。さて、今日はどうしようか。
時計の針は20:30を回ろうとしていた。今から出れば、十分に帰宅できる時間だ。けれど、この数日間、仕事という正当な理由に縋ってプライベートから目を逸らし続けてきた私の心は、まだチリと向き合う準備ができていない。
こんなボロボロの状態で帰ったところで、また彼女の顔色を伺い、勝手に卑屈になって、殻に閉じこもるだけだ。そんなループを繰り返しても、進展なんてあるはずもなかった。
「……っ、ずびっ……」
情けない音が個室に響く。心の整理もさることながら、いい加減この花粉症をどうにかしなければ、物理的に限界だった。後輩が指摘した通り、仕事の効率は目に見えて落ちている。何の作用なのかお腹の調子もずっと悪いし、夕方になると微熱すら出てくる。
(あの薬さえあれば……家にある、あの強力なやつさえあれば、もう少し人間らしい思考ができるのに……)
そんな、叶わない願望を抱えながら執務室に戻った時だった。数分前まで、無機質なノートPCと冷めたコーヒーカップしかなかったはずの私のデスクに、見慣れた白い包みが置かれていた。
「え……?」
吸い寄せられるように駆け寄る。丁寧に折り畳まれた包みの表側、内服薬という文字のすぐ下に、私の名前が敬称付きで記されていた。
中を確認するまでもない。
これは、家にある薬だ。私とチリが暮らす、あの部屋の救急箱に眠っていたはずの、私のための特効薬。
私が持ち出したのではない。ならば、これを今ここへ届けられる人間なんて、世界に一人しかいない。
「……っ!!」
心臓が、跳ねるような音を立てて、気づいた時には、鞄を掴んで執務室を飛び出していた。私が離席していたのは、お手洗いに行っていた数分間だけだ。まだ近くにいるはずだ。
(……もう、本当手がかかるっ)
何も言わずに去ろうとする彼女の、その不器用な優しさが。話し合う勇気も持てずに逃げ出した私に、最も必要なものを届けてくれる彼女の真っ直ぐさが。
鼻の奥が、今日一番の熱さでツンと痛む。これはもう、花粉のせいにはできない。
(間に合え……! お願い、まだそこにいて……!)
普段からもう少し運動しておけばよかったと、焼けるような肺を恨みながら階段を駆け下りる。彼女の長い足と比べて、自分の足は忍耐力が無さすぎる。
ビルのエントランスを抜け、週末の夜特有の浮ついた熱気に包まれた繁華街へと飛び出した。ネオンの光、行き交う人々の喧騒、車のヘッドライト。彩度の高い街の景色の中で、私は必死に、たった一つの色を探した。
人混みを掻き分け、心の中で彼女の名を呼ぶ。
私の世界を鮮やかに彩り、時に眩しすぎて私を臆病にさせる、あの、美しい翡翠色の後ろ姿を。
「……っ、チリ!!」
喉の奥に溜まった澱をすべて振り絞るように叫んだ。けれど、花粉症のせいでひどく掠れた私の声は、金曜の夜の喧騒に呆気なく飲み込まれていく。
届かない——そう絶望しかけた瞬間、人混みの中でその背中がぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返り、紅の瞳が驚きに大きく見開かれる。私を見つけた瞬間、彼女は弾かれたように雑踏を掻き分け、こちらへと駆け寄ってきた。
「ミント! 自分、なしてここに!? まだ仕事中やないん!」
「だ、だっ……だって、チリこそ、なんで、薬……っ!」
息が切れて、言葉がうまく繋がらない。
「あーもう、いったん落ち着きい。ほら、ゆっくり深呼吸し?」
チリの温かな手のひらが、私の背中を優しく、大きな円を描くようにさすってくれる。
数日ぶりに触れる、彼女の体温。
鼻の奥を突く不快なムズムズも、肺の苦しさも、彼女の香りに包まれた瞬間にすべて溶けて消えていくような——そんな都合のいい錯覚に陥ってしまうほど、私はこの温度に飢えていた。
「チリ、なんで会社に……」
「あー……。自分とこと、ウチのリーグでやってるポケモンフーズの共同研究あるやろ?それ、ウチら四天王も実食検査の協力しとってな。ほんまはアオキさんが行くはずやったんやけど、『今日は定時で帰る日です』言うて譲り受けたんや」
どきり、と心臓が跳ねた。
まさに今、私が心血を注いでいるプロジェクトだ。四天王の協力が必要だという話は、確かに後輩から聞いていた気がする。けれど、多忙な彼女にまで話が回っているなんて思いもしなかった。
「……そんなん、今はどうでもええ。自分、薬は? ちゃんと飲んだんか? この時期いつも、無理して熱まで出しとるやろ」
「飲んでない。……すぐ追いかけなきゃと思って」
「なんやねん、それ。自分が顔合わたないやろと思って、せっかくコソコソ置いてたっちゅうのに。意味ないやんか」
「ごめん、なさい……」
「ったく。……ほんまに自分は、世話が焼けるなぁ」
「どっちが」と、言い返そうとして開いた私の唇は、そのまま彼女の熱に塞がれた。
不意打ちだった。
深夜の冷たい空気の中で、そこだけが劇的な熱を帯びて重なり合う。
チリの指先が、私の赤くなった鼻先を掠め、熱を持った目尻を愛おしそうになぞる。
「……んっ」
塞がれた唇から、熱い吐息がこぼれた。驚きで強張っていた私の体は、彼女に抱き寄せられるままに力を失い、その細い肩に縋り付いた。
逃げ場のないほど深く、そして壊れ物を扱うように繊細なキス。
数日間、一人で耐えていた鼻の痛みや、胸に溜め込んでいた卑屈な感情が、彼女の唾液と一緒に流し込まれる熱にじりじりと溶かされていく。すれ違う人々はすでに華の曜日を楽しんでいるようで、酔っ払いの戯れかと受け流している様子だ。
涙で潤んだままの視界を閉じると、暗闇の中で彼女の存在だけが鮮明になった。
鼻が詰まっているせいで、肺がひどく酸素を求めて喘ぐ。苦しいはずなのに、もっと、と彼女を求めてしまう。
彼女の舌が、私の迷いや不安をすべて塗りつぶすように、丁寧に、深く、口内を蹂躙していく。
「……ん、……ち、り……っ」
唇が離れる。銀の糸が夜の街灯に一瞬だけ光り、私たちはどちらからともなく、額を預け合った。
彼女の吐息もまた、少しだけ乱れている。チリの瞳が、至近距離で潤んだ私の目を見つめていた。
「……少し、場所移そか。自分、鼻真っ赤やで」
茶化すような彼女の低い声が、今は心地よく鼓膜を揺らす。
特効薬は、まだ鞄の中だ。
...
繁華街の喧騒が遠ざかり、街灯が等間隔に並ぶ静かな住宅街。その一角にある小さな公園のベンチに、私たちは並んで腰を下ろした。
道中でチリが「これでも握っとき」と買ってくれたホットココアの缶が、冷え切った指先には痛いほど熱い。手のひらがひりひりと痺れる感覚が、ようやく自分を現実へと繋ぎ止めてくれる。
「……すまんなぁ、ミント」
隣から聞こえてきたのは、夜風に溶けてしまいそうなほど静かな、けれど重みのある声だった。
私が謝るべきことは山ほどある。身勝手に家を飛び出したことも、連絡を絶ったことも。それなのに、チリに謝られる筋合いなんて何ひとつとして思い当たらない。
戸惑って、まばたきを繰り返す私の頭に、チリの大きな手がそっと置かれた。子供をあやすような、どこまでも優しい手つきで、彼女は私の髪を撫でる。
「チリちゃん、ここんとこ……自分に迷惑ばっかりかけてたやろ」
「え? いや、そんな……私が勝手に、やってたことだから」
「気ぃ使わんでええよ。洗濯物のこと、出しっぱなしのもんも、いろいろ。……この間だって、自分が楽しみにしてたもん勝手に食べて、自分、ほんまは腹立っとったやろ」
彼女は凛々しい眉を八の字に下げて、困ったように笑った。その表情に、胸がざわりと波打った。
「……もしかして、わざとだったの?」
「当たり前やんか。チリちゃん、素はそんなにだらしなくないで?」
「あ、いや……まあ、そうだよね」
確かにそうだ。同棲する前、何度も通った彼女の部屋は、いつだって機能的で、塵一つ落ちていないほどに整頓されていた。プロフェッショナルな彼女が、私生活でそこまで綻びを見せるはずがないのだ。
思い返せば、最近の彼女の振る舞いは、あまりに不自然に乱暴だった。
「……言い訳やないんやけどな。自分、ここんとこチリちゃんに気持ち言えんようになっとったやろ? 何でそうなったんか、チリちゃんも……薄々、感づいとったんよ」
夜の静寂に、彼女の声が低く響く。
「四天王やから大変やろうとか、自分よりすごいからとか……。そうやって自分を勝手に下に置いて、我慢しとる自分を見るんが、一番辛かった。チリちゃんは、自分と対等でおるつもりやったのに」
彼女の言葉が、私の心臓を正確に射抜く。
見透かされていたのだ。私が勝手に溜め込んで、挙句溢れさせてしまったあの泥のような劣等感を。
「さっきも少し話したけどな、リーグとミントんとこで進めてる共同プロジェクト。……実は企画の段階から、部下からの報告書でミントがリーダーやってること知ってたんよ。名前見たとき、ほんまに驚いた。……と同時に、めちゃくちゃ誇らしかったんやで」
チリは一度言葉を切ると、少しだけ寂しそうに視線を落とした。
「すごいな、頑張っとるんやな。……そうやって、伝えたいこと、お祝いしたいこと、山ほどあったよ。やけど、自分……ぜーんぜん、チリちゃんに言うてこんやん。あんなでっかいプロジェクトの責任者なんて、祝うても祝うても足りひんくらい、名誉なことやろ?」
「それ、知ってたの……!? それに、あんなの、全然……大したこと、なくて……」
「大したことある! あるったらあんねん!!」
チリが勢いよく私の方を向き、紅の瞳を強く光らせた。
「チリちゃんがすごいって言うてるのに、自分自身がそれを否定するん? チリちゃんの見る目がないって言うんか!?」
「し、しません……っ。ありがとう……」
「……なはは、やっと、素直に聞いたな」
チリはふっと力を抜くと、少しだけ甘えるように声を潜めた。
「……嬉しいことも、辛いことも、何でも真っ先に言うて欲しかったよ。だから、チリちゃんも、隣におるのにずっと寂しかったんやで」
「……チリ……」
「何で言うてくれへんのーって、問い詰めたり、無理やり大丈夫やーって言い聞かせることもできた。けどな、それやと結局、チリちゃんが強い側で自分が守られる側になってまうやろ? 自分がもっと気に病むんやないかと思たら、どう動くのが正解か分からんくなって……」
必死に脳を回転させる。彼女は、どうしようもない私の悩みも見越した上で、一人の人間として私と同じ目線でぶつかり合おうとしてくれていたのだ。
「とりあえず、何かきっかけがあったら変わるんかと思って。……思いついたんが、あんなガキみたいな嫌がらせしかなくてな。すぐに文句の一つでもぶつけてくれると思っとった。そん時に、溜まっとるもん全部吐き出させて、喧嘩でもええから話そうと思っとったんやけど……」
春先といえど、夜の公園はまだ底冷えがする。チリは、ふぅと長く白い息を吐き出し、遠い夜空を見上げた。
「自分……ほんまに、思ってた以上に強かったなぁ。全然文句言わんから、チリちゃんも途中で後に引けんくなってしもた。……ほんま、堪忍な、ミント。変なことして、傷つけたな」
彼女の不器用な、あまりに不器用な愛情の形。
私を思いやって足掻いてくれた彼女が、愛おしくて、切なくて。
「ごめん……ごめんなさい、チリ……っ。私、自分が自分に自信を持てないことを、全部チリのせいにしてた。チリと比べるから苦しいんだとか……そんなの、私がちゃんと自分を認めてあげられていれば、何も関係なかったのにっ……! 勝手に卑屈になって、チリのこと……一番近くにいてくれるチリのことを、たくさん傷つけたよね。ごめんね、本当に、ごめんね……っ」
「謝らんでええ。……ミントは何も、悪いことなんてしてへんよ」
震える手で、チリの大きな右手を両手で包み込む。そのまま祈るように自分の頬に押し当てると、彼女は拒むことなく、指先で私の涙を優しく拭ってくれた。
ごつごつとした指の節、手のひらの熱。ああ、やっぱり私は、この温度がないと駄目なのだ。
「チリのせいなんてこと、ひとつもなかった。私がただ、要領よく振る舞えないもどかしさを、チリの輝きに転嫁してただけ。……ごめんなさい。もう、二度とこんなことにならないようにする。もっともっと頑張って、チリの隣にいても恥ずかしくないように、完璧にこなすから。だから……」
「ミント。……そうやない。そうやないやろ?」
私の言葉を遮るように、チリの低い声が響いた。
ハッとして顔を上げると、翡翠色の瞳の奥に宿る、燃えるような赤い光が真っ直ぐに私を捉えていた。
……そっか、そうだ。もっと頑張るなんて、またそうやって自分を追い込んで、独りで抱え込んでしまったら、同じことを繰り返してしまう。
「……これからは、嬉しいことも、嫌なことも。本当に、本当に小さなことでも。……チリに、言ってもいい……?」
背伸びをして、無理をして、綺麗に笑うのはもうやめよう。喉の奥にずっと溜まっていた、最後の一滴を絞り出すように、私は彼女の目を見つめる。
「……っ」
「チリ……チリ、大好き」
「……うん、チリちゃんもミントのこと、だーいすきやで」
首筋に触れる彼女の髪の香りと、トク、トクと刻まれる心臓の音。
そのまま顔を上げ、潤んだ視線が重なり合った。
いつも通りなら、ここで吸い寄せられるように唇を重ねるはずだった。……けれど、その寸前。
「ずっと、ずっと隣に……っぶえっっっくしょん!!」
豪快なくしゃみが、夜の公園に響き渡った。
よりにもよって、この最高にロマンチックな場面で。進行形で泣いていたものだから、涙も鼻水も、あろうことかチリの綺麗なシャツにまで飛び散ってしまった。
「あ…………」
数秒の沈黙のあと、私は絶望に顔を覆った。
「最悪……最悪すぎる、私……ごめ、チリ、今のは、その……」
「……なっはっは!! あーあ、ええ雰囲気やったんに、自分、見事にぶち壊したなあ!」
お腹を抱えて笑い出す彼女の声に、私は半べそをかきながら「ううう、ごめん〜……」と項垂れる。
「ああもう、泣くな、拭いたるから。……もう、ほんま、最高やでミント。自分には一生敵わんわ!」
私の鼻をティッシュで乱暴に、けれど慈しむように拭ってくれる彼女。そのくしゃくしゃに笑った目尻が、少しだけ涙で濡れていたのを、私は見逃さなかった。
花粉症も、人と人とのすれ違いも、一度発症してしまえば完治させるのは難しい。
けれど、日々のちょっとした努力と、適切な薬があれば、きっといかようにも付き合っていけるのだ。
私も、チリも。お互いを思いやるがゆえに言葉が足りず、飲み込みすぎていた。これからは、もっと格好悪くてもいいから、きちんと思いを口にしよう。
一滴ずつ溜まるのを待つのではなく、その都度、空っぽにして笑い合えるように。
「さてと! さっさと帰って、ミントは薬飲み! そんで風呂! チリちゃんがお祝いに、とびきり美味ーい夜ご飯作ったるからな!」
「……お祝い? 仲直りの?」
「ガキか! ちゃうわい、そんなん。……自分の、プロジェクトリーダー就任祝いや!」
「ほんまに、これだけは、ちゃんと自分から言ってほしかったんやで」と、彼女は少しだけ照れくさそうに笑って、私の手を強く握った。
繋いだ手のひらは、さっき買ったココアよりもずっと熱い。
鼻の奥はまだ少しムズムズするけれど、夜風が運んでくる春の気配は、不思議ともう、恐ろしいものではなくなっていた。
「……うん、帰ろう。お腹、空いちゃった」
「よっしゃ、言ったな? 腕によりをかけたるから覚悟しときや!」
並んで歩き出す、いつもの帰り道。
特効薬はもう、鞄の中ではなく、この繋いだ手の中にある。
「先輩、まだ帰ってないんですか。というか、その顔、放送禁止ですよ」
「……わかってる。市販の薬、全然効かないんだよね」
目の痒みもいよいよ限界だ。視界は常に涙で潤み、眼球を丸ごと取り出して洗いたい衝動に駆られる。いっそ花粉対策用のメガネでも買って物理的にガードすべきか悩み始めてもう三日。後輩はキーボードを叩く手を止め、憐れむような視線を投げかけてくる。
「長くないですか? もう一週間くらいその状態ですよね。仕事の効率、絶対落ちてますって」
「そうだね……。味覚も死んでるから、最近は無味無臭の食事にも慣れちゃったよ」
「それ、全然笑えないんで。早く帰ってください」
「薬、家にあるんでしょ?」と、出社早々PCを起動させた後輩が画面から目を離さずに追撃してくる。そうなのだ。いつからか発症したこの忌々しい花粉症の特効薬――処方箋でもらった強力なやつ――は、家にある。
だから、帰ればいいのだ。帰れば解決する。けれど。
「……今は、実家に帰らせていただきます状態なんだよ」
「は? 実家って、先輩のご両親、他地方ですよね」
「比喩だよ。実際は、そこのシャワー室と仮眠室をフル活用してる」
「社畜の鑑を通り越してただの不審者ですよ、それ。……先輩、同居人の方のこと、あんなに大好きだったじゃないですか。なんでいきなり?」
「…………花粉症かなあ」
「はあ? 質問に答えてください。あと、先輩のは『かなあ』じゃなくて、紛れもなく花粉症です」
真面目に取り合わない私にいよいよ興味を失ったようで、後輩は「勝手にすればいいですけど」と鼻を鳴らし、カタカタと乾いた打鍵音を響かせ始めた。
きっかけも、理由も、突き詰めれば大したことではなかった。
洗濯機の中で放置されたままの生温かい衣類とか。使ったあとの調味料が、出しっぱなしで蓋も緩いこととか。家族であれば笑って流せるような、日常のささいな、取り留めもないひとかけら。けれど、私にとって彼女の存在は、とても大きく映っていた。
自分に自信がないわけではない。今日まで精一杯生きてきた自負はあるし、今就いている仕事も、積み上げてきた人間関係も、すべてに満足している。
けれど、いざ彼女を目の前にすると、どうしても自分が小さく見えてしまうのだ。
四天王としてパルデアの重責を背負い、リーグ勤めで多忙を極める彼女。そんな彼女の苦労に比べれば、私の抱える洗濯物の不満なんて、口に出すのも憚られるゴミ屑のようなものに思えた。
『チリは私よりずっと大変だよね。これくらい、私がやっとけばいいか』
いつの間にか、そうやって自分を納得させることが癖になっていた。不満を飲み込むたびに、私の言葉は居場所を失い、喉の奥に澱のように溜まっていく。チリに対する不満はもちろん、今日何があったかという些細な報告すら、言い出しにくくなってしまっていた。
...
あの日、私は運が悪かった。
数ヶ月準備してきたプロジェクトが、先方の都合で延期になった。正直災害のようなもので、先方もこちらも落ち度はなかった。けれど、チーム長としてメンバーの士気を支え、頭を下げ、深夜まで事後処理に追われた体は、鉛のように重かった。
ようやく退勤の打刻をしたのは、日付が変わる直前。ため息を吐き出す元気もなかったけれど、空っぽの冷蔵庫を思い出して、重い足取りで24時間営業のスーパーに寄った。
運の悪さは、そこでも続く。
狙っていた最後の一つの半額惣菜が目の前で見知らぬ誰かに奪われ、買い忘れに気づいて店内を二往復し、ようやく重いレジ袋を提げて玄関の前に立った瞬間――最悪なタイミングで、課長から追い打ちの電話がかかってきた。
「はい、お疲れ様です……。ええ、その件は明日……はい……」
深夜の静寂に自分の卑屈な敬語が響く。
ようやく通話を終え、鍵を開ける。もしこれが実家なら、母に「聞いてよ、今日最悪でさ」と甘えられただろうか。けれど、ドアを開けた先にいるのは――。
「遅い。何してたん? チリちゃんの電話にも出んと」
玄関の灯りが、パッと眩しく私を射抜いた。
そこには、明らかに「拗ねています」という不機嫌さを隠そうともしない、端正な顔立ちの彼女がいた。
その姿を見た瞬間、胸の奥でせき止めていたものが、冷たく固まるのを感じた。
(ああ、やっぱり言えない)
プロジェクトの失敗も、半額惣菜を買い逃した情けなさも、課長からの電話にへこんでいることも。
彼女にとっては「そんなこと」でしかないのだと、勝手に決めつけてしまう。そう思ってしまう自分が一番惨めで、吐き気がした。
「ごめん。ちょっといろいろ……トラブルで」
「トラブル? ほんまに? 浮気とかしてへんよな?」
いつもの、彼女なりの独占欲。冗談混じりの、可愛い嫉妬。
普段なら「そんなわけないでしょ」と笑って抱きつけるはずのその言葉が、この時ばかりは、ひどく、ひどく煩わしかった。
「……はは、そんなわけないよ。チリ、ご飯まだならお惣菜買ってきたから」
目を合わせないように俯くと、鼻の奥がツンと痛んだ。
これは花粉症のせいだ。絶対、そう。
私の特効薬はすぐそこの棚にあるはずなのに、今の私には、それすら手に取る権利がないように思えた。
チリをいなしてリビングに一歩踏み入れると、視界に飛び込んできたのはソファに無造作に放り出された彼女のジャケットと、床に散乱した衣類だった。
いつもなら「もう、脱ぎっぱなしにして」と苦笑いしながら拾い上げるところだが、今はその「いつも通り」を演じるエネルギーすら残っていない。吐き出しそうになった大きなため息を、無理やり喉の奥へ押し戻す。
チリは、仕事相手と軽く済ませてきたのか、すでにリラックスモードのようだ。
「自分ご飯なら、チリちゃん酒飲もかな」
気味いい音と共に、ビールのプルタブが開けられる。
私は、散らかった服を機械的に畳んで端に寄せ、ようやく自分の夕飯――あの災難続きのスーパーで勝ち取ったはずの惣菜袋――を手に取った。
ビニールのカサカサという音が、静かな部屋に虚しく響く。……けれど、袋を覗き込んだ瞬間、私は固まった。
「あ、すまん。それ、めっちゃ美味そうやったから、ちょっと食べてもうたわ」
悪びれもしない、いつもの飄々とした笑顔。テーブルの上を見れば、私が自分へのご褒美に選んだ白和えのパックが無惨に開けられ、中身はすでに半分以下に減っていた。
……マジか。
たかが白和え。されど白和えだ。今日、私がどれだけの思いをしてこのパックを手に取ったか、彼女は知る由もない。
「……そっか。いいよ、別に」
潤み始めた視界を隠すように、私は必死で瞬きを繰り返す。
(耐えてくれ、私の涙腺。今ここで泣いたら、理由が白和えを食べられたからになってしまう。そんなの、惨めすぎて死にたくなる)
いざとなれば「花粉症で目が痒いだけ」と言い張ればいい。花粉症も、こういう時の言い訳には丁度いいな……なんて、精一杯の現実逃避をしてみても、胸に沈殿した惨めさは一向に拭えなかった。
もう一つの惣菜パックと箸を持ち、チリの向かいに腰を下ろす。
「お疲れさん」
そう言って笑う彼女は、アルコールのせいか上機嫌に見えた。
(よかった、玄関であんなに不機嫌だったから、まだ怒ってるかと思った……)
これ以上彼女の機嫌を損ねて、問い詰められるようなことになったら、今日ばかりは本当に心が折れてしまいそうだったから。
けれど、彼女の鋭い観察眼を侮るべきではなかった。
「今日、なんかあったん?」
「え……?」
「雰囲気、いつもとちゃうし。何があったんか、チリちゃんに言うてみ?」
めざといな、本当に。さすが面接官。
そんなところまで四天王としての洞察力を発揮しなくていいのに。知らんぷりして、笑っていてくれればいいのに。
彼女の優しさが、今は何よりも痛い。懲りもせずまた、鼻の奥がツンと熱くなる。
「あ、えっと……花粉症のせいで、あんまり体調良くないのかも。頭もぼーっとするし」
「嘘つけ。ほんまは?」
「……ほんとに。嘘じゃないよ」
半分は、嘘ではない。薬を飲んでも止まらない鼻水のせいで顔面は重痛いし、目のゴロゴロとした不快感のせいで、自分でもわかるくらい目つきが悪くなっている。
チリはいつも私に優しい。何も言わなくても、私の指先の震えや、声のトーンの僅かな変化に気づいて、こうして言葉にして向き合おうとしてくれる。
けれどもその真っ直ぐさが、今の私にはあまりに眩しすぎて、噛み合わなかった。「聞いてくれている」のはわかっている。なのに、言えない。
言いたくないわけじゃない。けれど、口を開けば、溜め込んできたドロドロとした卑屈な感情が、せきを切って溢れ出してしまうのが怖かった。私のちっぽけな思いは、チリに全く釣り合わないだろうから。
いつか後輩が言っていた。
『花粉症って、体内に一定量の花粉が溜まって、コップの水が溢れるみたいに、ある日突然発症することもあるらしいですよ』
今の私は、まさにそれだ。
チリへの遠慮、自分への失望、日々の小さな不満。
それらが心という名のバケツに、なみなみと溜まっている。あと一滴。あと一言、彼女に真っ直ぐな瞳で優しくされただけで、私はもう、私を保っていられなくなる。
溢れ出しそうな「何か」を堰き止めるために、私は逃げる道を選んだ。
「……ごめん。やっぱり食欲ないや。シャワー浴びて、もう寝るね」
「はっ?ちょ、待ちぃや、ミント。一口も食べてへんやんか。自分、ほんまに――」
背後から伸びてきた彼女の手が、私の肩を掠める。
その温もりに触れてしまったら、きっと私はその場に蹲って、子供のように声を上げて泣き出してしまうだろう。それだけは、絶対に嫌だった。
「おやすみ、チリ」
振り返らず、それだけを絞り出す。
彼女が次に何を言おうとしたのか、どんな顔をして私を見送ったのか。それを確認する余裕なんて、一ミリも残っていなかった。
廊下へ逃げ出し、洗面所のドアを閉めて鍵をかける。
カチャリ、という小さな金属音が、今の私と彼女を隔てる唯一の境界線だった。
鏡に映った自分の顔は、ひどいものだった。鼻は赤く、目は花粉症と涙のせいで真っ赤に充血し、絶望的に不細工で。
「……っ、ふ……っ」
蛇口を捻り、水の音で自分の声をかき消す。
洗面台に突っ伏した途端、堪えていた涙がどろりと溢れ出した。止まらなかった。
鼻水なのか涙なのか、もう自分でも分からない。呼吸をするたびに、喉の奥がヒリヒリと焼けるように痛む。
(寝室、分けといて正解だったな……)
同じベッドで背中を合わせることすら、今の私には耐えられそうにない。流れる水の音を聞きながら、明日から、少しの間だけ距離を置こうと決意した。
私たちは長く、近くにいすぎたのかもしれない。
...
仕事を終えて立ち寄ったお手洗いで、鏡の中に映る冴えない自分と向き合う。さて、今日はどうしようか。
時計の針は20:30を回ろうとしていた。今から出れば、十分に帰宅できる時間だ。けれど、この数日間、仕事という正当な理由に縋ってプライベートから目を逸らし続けてきた私の心は、まだチリと向き合う準備ができていない。
こんなボロボロの状態で帰ったところで、また彼女の顔色を伺い、勝手に卑屈になって、殻に閉じこもるだけだ。そんなループを繰り返しても、進展なんてあるはずもなかった。
「……っ、ずびっ……」
情けない音が個室に響く。心の整理もさることながら、いい加減この花粉症をどうにかしなければ、物理的に限界だった。後輩が指摘した通り、仕事の効率は目に見えて落ちている。何の作用なのかお腹の調子もずっと悪いし、夕方になると微熱すら出てくる。
(あの薬さえあれば……家にある、あの強力なやつさえあれば、もう少し人間らしい思考ができるのに……)
そんな、叶わない願望を抱えながら執務室に戻った時だった。数分前まで、無機質なノートPCと冷めたコーヒーカップしかなかったはずの私のデスクに、見慣れた白い包みが置かれていた。
「え……?」
吸い寄せられるように駆け寄る。丁寧に折り畳まれた包みの表側、内服薬という文字のすぐ下に、私の名前が敬称付きで記されていた。
中を確認するまでもない。
これは、家にある薬だ。私とチリが暮らす、あの部屋の救急箱に眠っていたはずの、私のための特効薬。
私が持ち出したのではない。ならば、これを今ここへ届けられる人間なんて、世界に一人しかいない。
「……っ!!」
心臓が、跳ねるような音を立てて、気づいた時には、鞄を掴んで執務室を飛び出していた。私が離席していたのは、お手洗いに行っていた数分間だけだ。まだ近くにいるはずだ。
(……もう、本当手がかかるっ)
何も言わずに去ろうとする彼女の、その不器用な優しさが。話し合う勇気も持てずに逃げ出した私に、最も必要なものを届けてくれる彼女の真っ直ぐさが。
鼻の奥が、今日一番の熱さでツンと痛む。これはもう、花粉のせいにはできない。
(間に合え……! お願い、まだそこにいて……!)
普段からもう少し運動しておけばよかったと、焼けるような肺を恨みながら階段を駆け下りる。彼女の長い足と比べて、自分の足は忍耐力が無さすぎる。
ビルのエントランスを抜け、週末の夜特有の浮ついた熱気に包まれた繁華街へと飛び出した。ネオンの光、行き交う人々の喧騒、車のヘッドライト。彩度の高い街の景色の中で、私は必死に、たった一つの色を探した。
人混みを掻き分け、心の中で彼女の名を呼ぶ。
私の世界を鮮やかに彩り、時に眩しすぎて私を臆病にさせる、あの、美しい翡翠色の後ろ姿を。
「……っ、チリ!!」
喉の奥に溜まった澱をすべて振り絞るように叫んだ。けれど、花粉症のせいでひどく掠れた私の声は、金曜の夜の喧騒に呆気なく飲み込まれていく。
届かない——そう絶望しかけた瞬間、人混みの中でその背中がぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返り、紅の瞳が驚きに大きく見開かれる。私を見つけた瞬間、彼女は弾かれたように雑踏を掻き分け、こちらへと駆け寄ってきた。
「ミント! 自分、なしてここに!? まだ仕事中やないん!」
「だ、だっ……だって、チリこそ、なんで、薬……っ!」
息が切れて、言葉がうまく繋がらない。
「あーもう、いったん落ち着きい。ほら、ゆっくり深呼吸し?」
チリの温かな手のひらが、私の背中を優しく、大きな円を描くようにさすってくれる。
数日ぶりに触れる、彼女の体温。
鼻の奥を突く不快なムズムズも、肺の苦しさも、彼女の香りに包まれた瞬間にすべて溶けて消えていくような——そんな都合のいい錯覚に陥ってしまうほど、私はこの温度に飢えていた。
「チリ、なんで会社に……」
「あー……。自分とこと、ウチのリーグでやってるポケモンフーズの共同研究あるやろ?それ、ウチら四天王も実食検査の協力しとってな。ほんまはアオキさんが行くはずやったんやけど、『今日は定時で帰る日です』言うて譲り受けたんや」
どきり、と心臓が跳ねた。
まさに今、私が心血を注いでいるプロジェクトだ。四天王の協力が必要だという話は、確かに後輩から聞いていた気がする。けれど、多忙な彼女にまで話が回っているなんて思いもしなかった。
「……そんなん、今はどうでもええ。自分、薬は? ちゃんと飲んだんか? この時期いつも、無理して熱まで出しとるやろ」
「飲んでない。……すぐ追いかけなきゃと思って」
「なんやねん、それ。自分が顔合わたないやろと思って、せっかくコソコソ置いてたっちゅうのに。意味ないやんか」
「ごめん、なさい……」
「ったく。……ほんまに自分は、世話が焼けるなぁ」
「どっちが」と、言い返そうとして開いた私の唇は、そのまま彼女の熱に塞がれた。
不意打ちだった。
深夜の冷たい空気の中で、そこだけが劇的な熱を帯びて重なり合う。
チリの指先が、私の赤くなった鼻先を掠め、熱を持った目尻を愛おしそうになぞる。
「……んっ」
塞がれた唇から、熱い吐息がこぼれた。驚きで強張っていた私の体は、彼女に抱き寄せられるままに力を失い、その細い肩に縋り付いた。
逃げ場のないほど深く、そして壊れ物を扱うように繊細なキス。
数日間、一人で耐えていた鼻の痛みや、胸に溜め込んでいた卑屈な感情が、彼女の唾液と一緒に流し込まれる熱にじりじりと溶かされていく。すれ違う人々はすでに華の曜日を楽しんでいるようで、酔っ払いの戯れかと受け流している様子だ。
涙で潤んだままの視界を閉じると、暗闇の中で彼女の存在だけが鮮明になった。
鼻が詰まっているせいで、肺がひどく酸素を求めて喘ぐ。苦しいはずなのに、もっと、と彼女を求めてしまう。
彼女の舌が、私の迷いや不安をすべて塗りつぶすように、丁寧に、深く、口内を蹂躙していく。
「……ん、……ち、り……っ」
唇が離れる。銀の糸が夜の街灯に一瞬だけ光り、私たちはどちらからともなく、額を預け合った。
彼女の吐息もまた、少しだけ乱れている。チリの瞳が、至近距離で潤んだ私の目を見つめていた。
「……少し、場所移そか。自分、鼻真っ赤やで」
茶化すような彼女の低い声が、今は心地よく鼓膜を揺らす。
特効薬は、まだ鞄の中だ。
...
繁華街の喧騒が遠ざかり、街灯が等間隔に並ぶ静かな住宅街。その一角にある小さな公園のベンチに、私たちは並んで腰を下ろした。
道中でチリが「これでも握っとき」と買ってくれたホットココアの缶が、冷え切った指先には痛いほど熱い。手のひらがひりひりと痺れる感覚が、ようやく自分を現実へと繋ぎ止めてくれる。
「……すまんなぁ、ミント」
隣から聞こえてきたのは、夜風に溶けてしまいそうなほど静かな、けれど重みのある声だった。
私が謝るべきことは山ほどある。身勝手に家を飛び出したことも、連絡を絶ったことも。それなのに、チリに謝られる筋合いなんて何ひとつとして思い当たらない。
戸惑って、まばたきを繰り返す私の頭に、チリの大きな手がそっと置かれた。子供をあやすような、どこまでも優しい手つきで、彼女は私の髪を撫でる。
「チリちゃん、ここんとこ……自分に迷惑ばっかりかけてたやろ」
「え? いや、そんな……私が勝手に、やってたことだから」
「気ぃ使わんでええよ。洗濯物のこと、出しっぱなしのもんも、いろいろ。……この間だって、自分が楽しみにしてたもん勝手に食べて、自分、ほんまは腹立っとったやろ」
彼女は凛々しい眉を八の字に下げて、困ったように笑った。その表情に、胸がざわりと波打った。
「……もしかして、わざとだったの?」
「当たり前やんか。チリちゃん、素はそんなにだらしなくないで?」
「あ、いや……まあ、そうだよね」
確かにそうだ。同棲する前、何度も通った彼女の部屋は、いつだって機能的で、塵一つ落ちていないほどに整頓されていた。プロフェッショナルな彼女が、私生活でそこまで綻びを見せるはずがないのだ。
思い返せば、最近の彼女の振る舞いは、あまりに不自然に乱暴だった。
「……言い訳やないんやけどな。自分、ここんとこチリちゃんに気持ち言えんようになっとったやろ? 何でそうなったんか、チリちゃんも……薄々、感づいとったんよ」
夜の静寂に、彼女の声が低く響く。
「四天王やから大変やろうとか、自分よりすごいからとか……。そうやって自分を勝手に下に置いて、我慢しとる自分を見るんが、一番辛かった。チリちゃんは、自分と対等でおるつもりやったのに」
彼女の言葉が、私の心臓を正確に射抜く。
見透かされていたのだ。私が勝手に溜め込んで、挙句溢れさせてしまったあの泥のような劣等感を。
「さっきも少し話したけどな、リーグとミントんとこで進めてる共同プロジェクト。……実は企画の段階から、部下からの報告書でミントがリーダーやってること知ってたんよ。名前見たとき、ほんまに驚いた。……と同時に、めちゃくちゃ誇らしかったんやで」
チリは一度言葉を切ると、少しだけ寂しそうに視線を落とした。
「すごいな、頑張っとるんやな。……そうやって、伝えたいこと、お祝いしたいこと、山ほどあったよ。やけど、自分……ぜーんぜん、チリちゃんに言うてこんやん。あんなでっかいプロジェクトの責任者なんて、祝うても祝うても足りひんくらい、名誉なことやろ?」
「それ、知ってたの……!? それに、あんなの、全然……大したこと、なくて……」
「大したことある! あるったらあんねん!!」
チリが勢いよく私の方を向き、紅の瞳を強く光らせた。
「チリちゃんがすごいって言うてるのに、自分自身がそれを否定するん? チリちゃんの見る目がないって言うんか!?」
「し、しません……っ。ありがとう……」
「……なはは、やっと、素直に聞いたな」
チリはふっと力を抜くと、少しだけ甘えるように声を潜めた。
「……嬉しいことも、辛いことも、何でも真っ先に言うて欲しかったよ。だから、チリちゃんも、隣におるのにずっと寂しかったんやで」
「……チリ……」
「何で言うてくれへんのーって、問い詰めたり、無理やり大丈夫やーって言い聞かせることもできた。けどな、それやと結局、チリちゃんが強い側で自分が守られる側になってまうやろ? 自分がもっと気に病むんやないかと思たら、どう動くのが正解か分からんくなって……」
必死に脳を回転させる。彼女は、どうしようもない私の悩みも見越した上で、一人の人間として私と同じ目線でぶつかり合おうとしてくれていたのだ。
「とりあえず、何かきっかけがあったら変わるんかと思って。……思いついたんが、あんなガキみたいな嫌がらせしかなくてな。すぐに文句の一つでもぶつけてくれると思っとった。そん時に、溜まっとるもん全部吐き出させて、喧嘩でもええから話そうと思っとったんやけど……」
春先といえど、夜の公園はまだ底冷えがする。チリは、ふぅと長く白い息を吐き出し、遠い夜空を見上げた。
「自分……ほんまに、思ってた以上に強かったなぁ。全然文句言わんから、チリちゃんも途中で後に引けんくなってしもた。……ほんま、堪忍な、ミント。変なことして、傷つけたな」
彼女の不器用な、あまりに不器用な愛情の形。
私を思いやって足掻いてくれた彼女が、愛おしくて、切なくて。
「ごめん……ごめんなさい、チリ……っ。私、自分が自分に自信を持てないことを、全部チリのせいにしてた。チリと比べるから苦しいんだとか……そんなの、私がちゃんと自分を認めてあげられていれば、何も関係なかったのにっ……! 勝手に卑屈になって、チリのこと……一番近くにいてくれるチリのことを、たくさん傷つけたよね。ごめんね、本当に、ごめんね……っ」
「謝らんでええ。……ミントは何も、悪いことなんてしてへんよ」
震える手で、チリの大きな右手を両手で包み込む。そのまま祈るように自分の頬に押し当てると、彼女は拒むことなく、指先で私の涙を優しく拭ってくれた。
ごつごつとした指の節、手のひらの熱。ああ、やっぱり私は、この温度がないと駄目なのだ。
「チリのせいなんてこと、ひとつもなかった。私がただ、要領よく振る舞えないもどかしさを、チリの輝きに転嫁してただけ。……ごめんなさい。もう、二度とこんなことにならないようにする。もっともっと頑張って、チリの隣にいても恥ずかしくないように、完璧にこなすから。だから……」
「ミント。……そうやない。そうやないやろ?」
私の言葉を遮るように、チリの低い声が響いた。
ハッとして顔を上げると、翡翠色の瞳の奥に宿る、燃えるような赤い光が真っ直ぐに私を捉えていた。
……そっか、そうだ。もっと頑張るなんて、またそうやって自分を追い込んで、独りで抱え込んでしまったら、同じことを繰り返してしまう。
「……これからは、嬉しいことも、嫌なことも。本当に、本当に小さなことでも。……チリに、言ってもいい……?」
背伸びをして、無理をして、綺麗に笑うのはもうやめよう。喉の奥にずっと溜まっていた、最後の一滴を絞り出すように、私は彼女の目を見つめる。
「……っ」
「チリ……チリ、大好き」
「……うん、チリちゃんもミントのこと、だーいすきやで」
首筋に触れる彼女の髪の香りと、トク、トクと刻まれる心臓の音。
そのまま顔を上げ、潤んだ視線が重なり合った。
いつも通りなら、ここで吸い寄せられるように唇を重ねるはずだった。……けれど、その寸前。
「ずっと、ずっと隣に……っぶえっっっくしょん!!」
豪快なくしゃみが、夜の公園に響き渡った。
よりにもよって、この最高にロマンチックな場面で。進行形で泣いていたものだから、涙も鼻水も、あろうことかチリの綺麗なシャツにまで飛び散ってしまった。
「あ…………」
数秒の沈黙のあと、私は絶望に顔を覆った。
「最悪……最悪すぎる、私……ごめ、チリ、今のは、その……」
「……なっはっは!! あーあ、ええ雰囲気やったんに、自分、見事にぶち壊したなあ!」
お腹を抱えて笑い出す彼女の声に、私は半べそをかきながら「ううう、ごめん〜……」と項垂れる。
「ああもう、泣くな、拭いたるから。……もう、ほんま、最高やでミント。自分には一生敵わんわ!」
私の鼻をティッシュで乱暴に、けれど慈しむように拭ってくれる彼女。そのくしゃくしゃに笑った目尻が、少しだけ涙で濡れていたのを、私は見逃さなかった。
花粉症も、人と人とのすれ違いも、一度発症してしまえば完治させるのは難しい。
けれど、日々のちょっとした努力と、適切な薬があれば、きっといかようにも付き合っていけるのだ。
私も、チリも。お互いを思いやるがゆえに言葉が足りず、飲み込みすぎていた。これからは、もっと格好悪くてもいいから、きちんと思いを口にしよう。
一滴ずつ溜まるのを待つのではなく、その都度、空っぽにして笑い合えるように。
「さてと! さっさと帰って、ミントは薬飲み! そんで風呂! チリちゃんがお祝いに、とびきり美味ーい夜ご飯作ったるからな!」
「……お祝い? 仲直りの?」
「ガキか! ちゃうわい、そんなん。……自分の、プロジェクトリーダー就任祝いや!」
「ほんまに、これだけは、ちゃんと自分から言ってほしかったんやで」と、彼女は少しだけ照れくさそうに笑って、私の手を強く握った。
繋いだ手のひらは、さっき買ったココアよりもずっと熱い。
鼻の奥はまだ少しムズムズするけれど、夜風が運んでくる春の気配は、不思議ともう、恐ろしいものではなくなっていた。
「……うん、帰ろう。お腹、空いちゃった」
「よっしゃ、言ったな? 腕によりをかけたるから覚悟しときや!」
並んで歩き出す、いつもの帰り道。
特効薬はもう、鞄の中ではなく、この繋いだ手の中にある。
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