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「ミント」
いつもより数段低い、逃げ道を塞ぐような声で呼び止められた。
この人がここまで露骨に感情を出してくるなんて珍しい。そう思った直後、なるほどと思い出した。もうそんな時期だったか、と日々のはやさに柄にもなく感慨深くなる。
不機嫌な声の主の方を振り返れば、ダイゴの綺麗な青い目が、じっとこちらを射抜いていた。
わざわざ石を探しに洞窟へ潜らなくても、鏡さえ見ていれば、サファイアよりも数段鮮やかに輝く水色を拝めるのではないか。もっとも、彼はただ綺麗な宝石が欲しくて山に籠っているわけではないことくらい、付き合いの長い私は重々承知しているけれど。
「行きませんよ」
「そう言ってきみ、もう二年逃げ続けているだろう。そろそろ、本来の仕事をしてくれないか」
タイミングよく、手元のポケナビから通知音が鳴る。再戦希望のトレーナーだろうか。チラリと視線を落とせば、やはりエントリーコールだった。
「ほかの仕事は十二分にこなしているでしょう?」
「それは確かには否定しないけれど。事務処理能力も、現場での対応も、きみは優秀すぎるくらいだ」
「あなたが不在の時だって、チャレンジャーの相手をしてあげているじゃないですか」
「そこはむしろ苦情が来ているよ。チャンピオンでもない一介のリーグ職員に、手も足も出せず負かされて悔しい、とね」
「そんなの苦情でも何でもないでしょう。実力不足です、無視してください。……それじゃ、ぐえ」
「今日こそは逃さないよ、ミント。無駄話をして意識を逸らそうなんてきみの魂胆は、もう通用しないからね」
目は口ほどに物を言う。ダイゴの細められた目は、これ以上の問答は無用だと告げていた。
有無を言わさず握らされたパルデア行きの航空券を見て、私は今日何度目かわからない、深い溜息を吐き出す。
どうやらエントリーコールの返信には、しばらく手を付けられそうにない。
...
「……以上で、今回の視察の説明を終わります。明日からの共同業務、一週間よろしくお願いいたします」
パルデアリーグの会議室は、二年前とさほど変わっていなかった。
半日近くかけて行われた視察の説明が、ようやく終わる。
各地方のポケモンリーグは、四半期に一度、現状の共有や問題点の解決を兼ねて視察を行っている。開催地は持ち回りで、受け入れ側のリーグ職員が、他地方から来たメンバーをアテンドすることになっていた。
現在、私はホウエンリーグの職員としてここにいるけれど、前職はここ、パルデアリーグの職員だ。本来なら、これ以上ないほど適任な経歴と言えるだろう。実際、パルデアにいた頃に視察のアテンドを担当したこともある。
けれど、前職を職場内の痴情のもつれという、およそ大人とは思えない理由で退職している私としては、できる限りパルデアリーグとの関わりは断っておきたかった。だから、それとなく理由をつけては他の人に視察を押し付けてきたのだ。
とは言え、転職時の面接で「前職の経験を最大限に活かす」と豪語してしまったのが運の尽き。あの綺麗な親戚――ダイゴに「そろそろ仕事しろ」と釘を刺されてしまえば、もう逃げ場はなかった。
全く、安請け合いはするものではない。よりによって、このタイミングでパルデア開催の視察に当たってしまうなんて、運がないとしか言いようがなかった。
会議が終わった安堵からか、いつの間にか閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
見れば、大半の視察メンバーは早々に会議室を後にしていた。この後の懇親会は十八時半から。今から約三十分後だ。
本来、事前に断りを入れておけば欠席もできるのだけれど、ダイゴが勝手に出席で返信していたために、私は泣く泣く参加させられることになっている。
ここまでは、まだいい。自分の職務怠慢のツケを払わされているだけだと言い聞かせられる。
けれど、まさか四天王がわざわざアテンド役を務めるなんて、想定外にも程がある。こればかりは、少しくらい心の中で文句を垂れても許されるのではないか。
普通、こういうアテンド業務はリーグの事務職員が担うものだ。業務分掌でもそう決まっていたはずだし、実際、私がパルデアにいた時も、ホウエンで視察が行われた時も、四天王以上のランクのトレーナーがアテンドを務めるなんて例は一度もなかった。
なのに、なぜ。
資料をまとめていたのだろうか。説明が終わってからかなりの時間が経った今、ようやく席を立つ素振りを見せた長身の女性に視線を向ける。
彼女を知ってからは、たまに聞く標準語にこそ違和感を持っていたけれど、何も知らない人間が見れば、あの洗練された風貌からあんなにコテコテのジョウト弁が繰り出されるなんて信じられないだろう。
そんな、今さらどうでもいいことを考えていたら、こちらをチラリと見た彼女と目が合った。
けれど、視線はすぐに逸らされ、彼女はそのまま一度も振り返ることなく会議室を出ていく。その背中を見送っていると、くらりと眩暈がした。
「……一番怒ってる時の、だんまりじゃん」
漏れそうになる溜息を寸前で飲み込む。
あと十数分に迫った懇親会が、せめて何事もなく、無事に終わることだけを願うしかなかった。
...
「――で! ミントさん! そろそろ教えてくださいよぉ、彼氏はいるんですか?!」
勘弁してください。
喉元まで出かかった言葉を、残ったビールと一緒に胃の奥へ流し込む。隣に座り、遠慮のない大声で話しかけてくる他地方の職員に、私は引き攣った笑みを浮かべるのが精一杯だった。
この男には見えていないのだろうか。向かいに座る彼女のご尊顔が、これ以上ないほど不機嫌に曇っているのを。
だいたい、口説くならあんなに綺麗な彼女を口説けばいい。こんな可愛げのひとつもない女のことなんて、さっさと興味を失ってくれればいいのに。
逃げるようにジョッキを煽っても、アルコールは一向に脳を麻痺させてはくれない。こんな時だけは、自分の底なしの酒豪ぶりを恨めしく思ってしまう。
「さっきも言いましたけど、いません」
「じゃあ最後にいたのはいつですか?!」
「……さあいつでしょう、覚えてないです」
「なら、今好きな人とかは?!」
「いません」
「じゃあ、最後に本気で好きになったのは誰ですか?!」
「おっと急に直球ですね」
もう帰って寝た方がいいですよ。そう進言しても、酔っ払いは聞く耳を持たない。この男が働いている地方のリーグは本当に大丈夫なのだろうか。……いや、人のことは言えないか。
なんて言ったって、私は痴情のもつれで職場を追われた身なのだ。同僚の好きな人に手を出し、関係を持った。それも、一度や二度の間違いではない。大人として、人として、最低最悪な醜態を晒したのは私の方だ。ひとしきり爆弾を投げ散らかした挙句、机に突っ伏して寝始めた男はもう放っておくことにした。
さて、ここからどうやってこの場を切り抜ければいいか、私は静かに考えを巡らせる。
状況は最悪だ。座らされたのは個室の一番奥。向かいの席は空席で、その斜め隣に彼女がいる。そして私の隣は冷たい壁と、先ほど寝こけた視察メンバー。つまり、私がこの沈黙を破るために話しかけられる相手は、もう彼女――チリしか残されていない。
とはいえ、彼女は見目麗しい四天王だ。反対側に座る参加者たちから次々と話を振られていて、私からわざわざ声をかける必要もなさそうだった。それだけが、唯一の救いと言える。
手持ち無沙汰に、一人で冷めたビールを飲んでいると、ポケナビが鳴った。表示された名は、ダイゴ。珍しいなと思いながらも画面を開けば、『今度はきみがいないことで苦情が来たよ。鍛えてもらおうと思っていたのにどうしてくれるんだ、とね』。
……知らんがな。
先ほどまで胃をキリキリと焼いていた居心地の悪さも、ダイゴのいつもの軽口に触れると少しだけ和らぐ気がした。彼からのメッセージは、今の私にとって毒にも薬にもなる特効薬だ。『無視してください』そう打ち込もうとした、その時。
肌を刺すような、あまりに強烈な視線を感じて、私は咄嗟に顔を上げた。
――上げて、しまった。
「……久しぶり、チリ」
とりあえず、目を合わせたら挨拶だろう。そう自分に言い聞かせて口にしてみたものの、彼女の眉間に刻まれた皺がさらに深くなるのを見て、私は即座に間違えたと悟った。
流石にそれはそうだ。先ほどからずっと同じテーブルを囲んでおきながら、今さら久しぶりなんて、我ながら白々しすぎてどうしようもない。
「……ずいぶん元気そうやなあ、ミント」
「…おかげさまで」
「おかげさま? …どの口が言うてんねん、笑えるわ」
なるほど、分かった。そもそも私がここに存在していること自体が、今のチリにとっては不正解でしかないのだ。挨拶がどうこうという次元の話ではなかったらしい。
(そんなに嫌なら、別の席にしてくれればよかったのに)
心の中でそっと毒づく。会場に着いた際、有無を言わさずこの席に私を誘導したのは他でもないチリなのだ。
「自分は一番奥へ行き」なんて、有無を言わせぬオーラで押し込んでおいてこの仕打ちはあんまりだ。
「……久しぶりに会ったのに、いきなり喧嘩腰だと参るよ」
「誰のせいで、チリちゃんがこんな態度になっとる思てんねん」
「……私だよね」
「なんや、自覚あるんかい。余計に腹立つわあ」
そう吐き捨てながらも、チリはふと、私のジョッキが空なことに気づいたようだった。
「……飲むん?」
「…いや、もういいかな」
「せやな。自分急に酔い回って顔白くさせるタイプやさかい、さっきまで結構飲んどったしもうやめとき」
なんでもないようにチリが言う。ほんの一瞬だけ、あたりまえに私を気遣う彼女に胸の奥がチクりと痛む。
「なぁ、ミント」
そう言いながら、彼女が手元のジョッキをテーブルに置いた。
ちょうど、周囲の会話がふっと途切れたタイミングだったのだろう。しんと静まり返った部屋に、やけに大きく響いたその音に引き寄せられるようにして、周囲の参加者たちが一斉にチリの方を向いた。隣で幸せそうに寝こけていた男も、その音と威圧感に当てられたのか、肩を揺らして目を覚ました。
「……なっはっは!大きい音立ててえらいすんません。…さて皆さん、本日はありがとうございました。宴もたけなわではありますが、そろそろお時間ですので、本日はこれにてお開きにしたいと思います」
自分に視線が集まった瞬間を、待っていましたとばかりに利用する。チリは驚くほど鮮やかに、そして強引に懇親会を締めくくった。その迷いのない仕切りに、わあすごいなんて感心したけれど、そんな場合ではない。
だって今になって、ようやく理解したのだ。チリがどうして私をこの 一番奥の席に座らせたのか。この席は、他の参加者が全員外に出た後でないと、物理的に脱出できない。私がどれほど早く逃げ出そうとしてもできないのだ。
観念したように向かいのチリを見ると、彼女は相変わらず底冷えした瞳を私に向けていた。はて…と考える。怒らせて申し訳ないという気持ちはもちろんある。けれど、彼女がここまで怒り続けている理由が、私にはどうしても分からなくてモヤモヤする。
発端は、私が彼女に何の断りも入れずパルデアリーグを退職したことだろう。そこそこ仲良くしていた同僚が無言で姿を消せば、誰だってカチンとくる。礼儀をわきまえているチリなら、なおさら許せないはずだ。けれど、それはもう二年も前の話だ。当事者が言うことではないけれど、そんな過去の話を二年越しに、これほどまでの温度感で根に持っている。
私の知るチリなら、もっとスマートに「あの時は驚いたわあ」と笑って流すはずなのに。
「……自分、ここ出たら付き合うてや」
「嫌って言っても、連れていくんでしょ?」
「なはは! ……せやね、よお分かっとるやん」
屈託のない、けれど一切の拒絶を許さない笑顔。背筋を嫌な汗が伝い、私の願った「無事に終わる懇親会」は、最悪な形で幕を閉じた。
...
生理的に流れる涙のせいで、チリの綺麗な髪が歪んで見える。こうなるから、嫌だったのだ。押しに弱くて流されて、自分がハッキリしないせいで他の誰かを傷つける。2年前と、何も変わらない。変われていない、最悪なわたしを思い出すから。
「……っ、チリ、もう、…ン、」
「もう、なんや?まさか、嫌なわけないよなあ。ここ、こんなにしてんのに」
「や、……っ」
グチュ、耳を塞ぎたくなる水音が暗い部屋に響く。結局、解散してからすぐにチリの家に連れてこられてこのザマだ。ベッドに押し倒されたと思えば性急に服を脱がされて、冷たい手の感触がわたしの体を這う。
ーーチリの顔は、暗くて見えない。
「チリ、まっ、て、ほんとに」
「黙り」
「んぅ、んっ……は、ぁっ…ふ、っ……」
苛立ったように目を細めたチリに、強引に口を塞がれた。久しぶりのキスに戸惑っている私の舌を強引に絡め取って、深く、深く、チリが入ってくる。
2年も会っていなかったというのに、わたしの弱いところばかりを責めてくる彼女に疑問ばかりが浮かぶ。どうして覚えているのだろう、人として最低なことをして、挙句連絡もせずに姿を消した女なんかを。どうしてこんな抱き方をするのだろう、これまでチリを怒らせた情事に至ることだってあったけれど、こんなに一方的で配慮のない行為を受けたことはない。いろんなどうしてが頭をよぎるけれど、ナカに入れられた指に合わせて胸の突起もいじるものだから、頭がどんどん溶けていって、思考がばらばらと暗闇に散っていく。
「は、先っぽ固くなってんで。こんな酷いことされて感じてん」
「あんっ、ふ、ぁっ、……あ、あっ、やあ、やだチリ、また、わたしっ」
「またイくん?だらしない子やなあ」
「あっあっ、ン……っ」
チリの指がぐ、とナカに押し込まれて、脳が弾けた。チカチカと視界が点滅して落ち着かない、チリ、ちり、ちり。
「…なはは、自分、気付いてないやろ」
「……え?」
「腰動いてんで、チリちゃんの足にこない股擦り付けて…気持ちええ?」
ハッとしてそこを見れば、だらしなく蜜をこぼしながらチリの足に腰を振る自分がいる。どうしようもなく恥ずかしい、はずなのにーー
「チリ、ちり……もっと、」
2年前と、何も変わらない、変われていない、あなたを好きな私を思い出した。ダメだとわかっているのに、あなたの熱を求めてしまう。チリに触れられると、どうしても、もっと、もっと触ってとおもってしまう。
私は震える指先で彼女の頬に手を伸ばし、こちらを向かせた。月明かりに照らされたその顔が、ようやく私の瞳に映る。
瞬間、熱を孕んでとろけていた脳が、冷水を浴びせられたように一気に覚醒した。
……うそ。どうして、あなたがそんな顔をするの。
「チリ、泣いてるの……?」
頬に触れた私の指先に、冷たい滴が伝う。
心臓がぎゅっと、嫌な音を立てて軋んだ。ああ、やっぱり。結局私は、いつも誰かを傷付けてしまう。
...
「……なんで?」
掠れた、震える声。四天王として、あるいは一人の大人として毅然としていた彼女の、こんなに弱々しい声は初めて聞いた。
「なあ、なんで……なんでなん? 本気出せば、自分なら逃げられたやろ。なのに、なんでのこのこ着いてきて……挙句、こんな蕩けた顔見して、チリちゃん求めるそぶりして…。そんなんされたら、自分のこと……諦めきれへんやんか」
「チリ、」
「2年前、なんでチリちゃんとこから逃げたん? チリちゃん、何か嫌なこと言った? ……なあ、教えてや、ミント」
「………」
「直す。悪いとこあったら、全部直すから。チリちゃんもう、ミントに嫌な想いさせへんから……」
すり、と私の頬に自分の顔を寄せ、縋るように擦り寄ってくる。ふわりと香る、チリ特有の爽やかなフレグランスと、混ざり合う熱。その匂いに、私の胸は落ち着かなくなる。
どうして、チリはこんなことを聞くのだろう。2年前、私たちの間にあったのは体の関係だけで、付き合っていたとかそういう事実はなかったはずだ。好きだと言われたことも、告げたこともなかったから。なのにこれではまるで、チリが……私のことを、
「チリちゃん、ずっとミントのことが好きやねん。ミントがリーグに来て、一緒に仕事したり、下らんことで笑いながらご飯食べたり……。気づいたら、もうどうしようもないくらい、自分のこと大好きになってもうてん」
「……っ」
「なあ、チリちゃんのこと嫌いでええ。喋りとうないなら、一生黙っとってくれてもええ。せやけど、頼むから……勝手に、いなくならんとって」
チリの細長い指先が、私の頬を包み込む。そして、壊れ物を慈しむような、あまりに優しいキス。先ほどまでの強引で冷たい愛撫が嘘のように、彼女の切実な温度が肌を通じて流れ込んでくる。
「ミントが、どないな目的でチリちゃんに近寄ってきたって構わへん。ただ、隣にいてくれればそれで、」
「……待って、チリ。もしかして、知ってるの?」
私の問いに、彼女の動きが止まった。
「……知っとるよ。トップから聞いてん。チリちゃんと、自分の同僚をくっつけるために……仕事として、チリちゃんと仲良くしてくれてたんやろ?」
自嘲気味に、チリが笑う。その笑顔が、あまりに痛々しくて見ていられない。
「なのに、よりによってチリちゃんに好かれて。こんなことまでされて……。ほんまに、ミントは可哀想な子やなあ」
「……違う、違うよチリ」
自虐的に笑う彼女の細い肩を、私は壊さないように優しく抱き寄せる。チリが戸惑っている様子に少しだけ笑えた。
「確かに、きっかけはトップが言った通りかもしれない。当時の同僚から、あなたと仲良くなりたいって相談を受けたのは事実。最初はただの橋渡しのつもりで、私はチリに近づいた」
けれど、と私は言葉を繋ぐ。
近づけば近づくほど、チリの眩しさに私は目を焼かれていった。それと同時に、相談を持ちかけてきた男の芳しくない評判が耳に入るようになる。モヤモヤとした不安が胸に居座り始めた頃、どうしてかあなたからアプローチを受けた。私はそれを断りきれなかった。ううん、本当は、断りたくなかった。
結局、彼への義理を欠いたまま、あなたと肌を重ねる日々が始まった。最低だと自覚しながらも、あなたとの時間はあまりにも心地よくて、私はズルズルと嘘を重ねてしまった。
「そんな時にね、聞いたんだ。あいつが同期と話しているのを」
あの日、廊下の角で耳にした、吐き気のするような会話。
彼は、チリを好きだったのではない。若くして四天王に上り詰め、誰よりも強くて格好いいチリの存在が、ただ気に食わなかっただけだった。
『あんな女、自分を好きにさせた挙句、ボロ雑巾みたいに振ってプライドをへし折ってやるんだ』
自分より優れた女性を、ただ「女」という枠にハメて見下し、踏みにじろうとする醜い欲望。
「……許せなかった。私の大好きな人を、そんなくだらない理由で傷つけようとするなんて。気づいたら、私はその男に口出ししちゃっててさ」
ミントが?とチリが驚いた顔をする。
あの後、必死にチリを侮辱する言葉を封じ込めようとして、私は彼と激しい口論になった。結局、逆上した彼に殴られて、わたしも応戦してしまった。取っ組み合いの喧嘩なんて、大人になって初めてだったな。たまたま通りかかったアオキさんに仲裁されて、私たちはそのまま、トップの元へ引きずられていった。
「彼はその場で辞職が決まったよ。でも、私もただの被害者じゃなかった。同僚と揉め事を起こして、リーグの品位を汚した責任は取らなきゃいけないし……何より、あなたに近づいた最初の動機が不純だったことに、私自身が耐えられなかったの」
トップは、私にだけは「残ってもいい」と言ってくれた。けれど、私は逃げる道を選んだ。自分の浅はかさであなたを汚してしまったような気がして。
だから、痴情のもつれ、なんて一言で片付けて、私はあなたの前から姿を消す選択をした。
「チリ……。かわいそうなのは、あなただよ。こんな私に好かれて」
未だ私の頬に触れているチリの指先に、自分の手を重ねた。
「嫌いになんてなれるわけない。2年前も、今も、これからも、ずっと……」
月明かりの下、チリの瞳に溜まった涙が、今度は私の手の甲へと静かにこぼれ落ちた。その温かさが、嘘偽りのないチリの心そのもののように感じられて、私はもう、自分の感情を止めることができなかった。
「好き、好きだよチリ。……勝手にいなくなって、ごめん。連絡も取れないようにして、ごめん……っ」
溢れ出す謝罪の言葉と一緒に、私の視界も滲んでいく。
2年間、心の奥底に封じ込めていた想いが、決壊したダムのようにチリへ注がれていく。
「たくさん謝る、何回だって謝るから……。だから、また、一緒に……っんぅ、んん……ッ、チリ……っ」
言葉の続きを紡ごうとした唇を、熱い吐息が塞いだ。
それは、先ほどまでの冷たい拒絶とは正反対の、縋るような、深く、震えるキス。
鼻先をかすめる彼女の匂いと、唇から伝わってくる切実な鼓動に、私の思考はまた白く塗りつぶされていく。
「ん……は、ん、……ミント、すき。すきや……」
唇が離れるわずかな隙間に、チリの掠れた声が漏れる。
「は、……んっ……チリ……」
「すきやで、ミント……っ。もう……もう、どこにもいかんといて。な……?」
チリは、壊れ物を抱きしめるように私の体に腕を回し、首筋に顔を埋めた。その腕の強さは、二度と私を離さないという誓いのようで。伝わってくるチリの体温と、涙の跡。私はそのすべてを受け入れるように、彼女の背中にそっと手を回した。
「……うん、どこにも行かない、隣にいる。絶対に」
夜の静寂の中に、私たちの重なり合う呼吸の音だけが、いつまでも溶け合っていた。
...
翌朝、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光で目を覚ました。キッチンから漂ってくる香ばしいコーヒーの匂いに、あぁ、本当に夢じゃなかったんだと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「チリ、何時に出る?」
「集合8時やし、7時半には出よかな」
「そっか、なら私7時くらいに出るよ」
「んなわざわざズラさんでも、一緒に行けばええやん」
「………そうだね。そうする」
チリが淹れてくれたコーヒーを一口啜りながら、私はぼんやりと、これからのことを考えていた。
いつまでホウエンにいようか。あるいは、いつパルデアに戻ってこようか。
二年前、何も言わずに実家へ逃げ帰ってきた私を、ダイゴは深く詮索することなく受け入れてくれた。「そんなに暇を持て余しているなら、うちのリーグに来ないかい?」なんて、軽い調子で誘ってくれた彼の優しさが、当時の私にはどれほど救いになったか。
もちろん、採用面接自体は真面目に受けてくれたのだろうけれど、実質的にはほぼコネのようなものだ。その恩返しをしようと、視察以外の実務はきちんとこなしてきたつもりだけれど……。あと数年は彼の下で働かないと、到底返しきれるような恩ではないのも分かっている。
「そういえば」
ソファーでテレビを眺めていたチリが、ふと思い出したようにこちらを振り返った。
「昨日のポケナビ、あれ、誰からやったん?」
「昨日の? ……あぁ、懇親会でメッセージを見たときのかな。よく気づいたね」
「そりゃ自分、チリちゃんずっとミントのこと見てたもん。一挙手一投足、見逃すわけないやろ」
さらりと恐ろしいことを言う彼女に、私は苦笑する。
「…………」
「なはは、昨日の夜にあんだけ恥ずかしいことしといて、今さらそんなことで照れてたら世話ないで」
「……おっしゃる通りです…」
降参、とばかりに両手を上げると、チリはむすっと可愛らしく頬を膨らませた。隠す気のない妬いてますオーラが全身から溢れ出している。
「そんで、誰なん? アレ。えらいかわいーい顔して画面見とったよ。あんなん心臓に悪いわあ」
かわいい顔なんて自覚は微塵もなかったけれど、あの時、ダイゴのメッセージで心が軽くなったことは確かだ。私は正直に、送り主がダイゴであることを告げた。途端、チリの目が鋭く光り、一体どういう関係なのかと問い詰めてくる。
「親戚だよ、いとこなの」
「……えっ。そうなん?! ……あの、ホウエンの?」
「うん。全然似ていないから、私もたまに本当か疑っているんだけどね」
その言葉を聞いた瞬間、チリにとってテレビの内容はどうでもよくなったらしい。彼女はのっそりと立ち上がると、ダイニングテーブルに座る私のすぐ隣までやってきて、私の首筋にそっと手を添えた。
何を確認しているのか、聞くまでもない。昨日、彼女が私に付けた痕が、まだそこに残っているかを見ているのだ。
「なんや……。ミントがそいつのこと気になってるんかと思って、めっちゃ不機嫌になっとったんやで」
「私が好きなのは、チリだよ」
私の手からコーヒーカップを取り上げてテーブルに置いた彼女を、まっすぐに見つめ返す。
「チリが、好きなの」
チリは案外、こういう直球でぶつけられる想いに弱い。
さっきまで余裕たっぷりな態度だった彼女が、途端に視線を彷徨わせ、耳たぶを赤く染めていく。
私も大概うぶだけれど、チリだって似たようなものだ。
「……自分、ほんま……ずるいわあ」
そう言って私の肩に額を預けてくる彼女の温もりが、あまりに愛おしい。
ホウエンの恩返しも大切だけれど。
この真っ赤な顔をして甘えてくる恋人を、もう一度置き去りにして帰るなんて、今の私には到底できそうになかった。
