思うまま
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「バレンタインボックスをひとつお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
この一週間の激務が、ようやく幕を閉じる――。
最後のお客様を笑顔で見送り、ショーケースに『sold out』の札を置く。この瞬間、こみ上げてくるのは涙が出るほどの達成感だ。
「カエデさん、無事に終わりました……!」
「ミントさん、お疲れさまでしたぁ。今年も、素晴らしい大盛況でしたねぇ」
「本当に。カエデさんのケーキ、今年もあっという間でした」
「あらあら、うれしいわぁ。ミントさんの手がけたチョコレートも、飛ぶように売れていきましたものねぇ」
ムクロジの門を叩いて数年。店長のカエデさんは学生時代からの憧れであり、私の師だ。宝探し期間はほとんどカエデさんのもとで勉強させてもらっていた気がする。卒業してすぐムクロジの販売スタッフとして働き始めて、今では、ムクロジのチョコレート部門はほとんど私に任せてくれている。
「今日に限った話でもないですけど、我が子が旅立っていくような……嬉しさと、ちょっぴり寂しい気持ちになりますね」
「ふふ、わかるわぁ。でもミントさん。貴女のかわいい子どもたちは、きっとすぐに、最高の感想を連れて戻ってきてくれますよぉ?」
いたずらっぽく笑うカエデさんにドキリとする。そうなのだ。私にとって、今日――バレンタインデーは、バレンタインの営業が終わるのはゴールじゃない。むしろ、ここからが一番緊張する本番が待っている。
平常時より売り切れが早い分、私の仕事もいつもより早く終わるというのに、約束の時間は夜だから少しも気が抜けない。私だって、お店に来てくれた女の子たちのように、もっと純粋に甘い気分でドキドキしたい。けれども今年のバレンタインも、胃を痛めながらドギマギする時間を過ごす他なかった。
「さてさて、ミントさんのお楽しみも待っていることだし、さっさと片付けちゃいましょうかぁ」
「カエデさん、絶対おもしろがってますよね?」
「なんのことかしらぁ」
片付けをしていても、頭の中にはあの緑色の髪がチラついている。落ち着かないけれど、願うことはいつもひとつだけ。今年もチリが、おいしいって笑ってくれますように。
...
――ピンポーン
あいかわらず、見るからに家賃が高そうなマンションだなぁ。そんな下世話なことを考えながら、チリの部屋の番号を押す。小気味良い音と一緒にオートロックが解除されて、慣れた足取りでエントランスを抜けた。
「お疲れさん、ミント。カードキー持ってるんやし、勝手に入ってくればええのに。ほんま律儀やなあ」
ドアを開けたチリが、ちょっと呆れたような、でも嬉しそうな顔で笑って招き入れてくれる。この部屋にはもう何度も来ているけれど、一歩中に入った瞬間にふわっと香る、あの爽やかなフレグランスにはいつまで経っても慣れない。というより、この香りを嗅ぐとチリの部屋だなあと実感してしまって、変に心臓が鳴って落ち着かない。
彼女と私は学生の頃からの付き合いだ。同じクラスだったとか、一緒に宝探しをしたとか、そういう劇的なきっかけがあったわけじゃない。ただ、入学前の説明会でたまたま席が隣同士だった。それだけの縁だったのに、気づけば自然と仲良くなって、在学中の宝探し以外の時間は、大抵チリと一緒に過ごしていたと思う。卒業してそれぞれ一人暮らしを始めるとき、学生特有の軽いノリで「なんかあった時のために」なんて合鍵を交換し合った。だからチリの言う通り、インターホンなんて鳴らさずに部屋に入る権利は、一応私も持っている。
「不法侵入してるみたいで落ち着かないじゃん」
「不法侵入て。チリちゃんがお願いしてるんやし合法やん」
「そういう問題じゃなくない?」
「どういう問題でも無い言うてんねん」
そんな言い合いをしながらも、チリは自然な動きで私のコートを受け取ってくれた。ありがとうを伝えれば、ニカッと景気の良い笑顔が返ってくる。いつもの和やかな空気。それだけで、仕事の疲れが少し溶ける気がした……のだけれど、ダイニングテーブルに置かれたそれが目に入った瞬間、私は思わず顔を引き攣らせた。そこには、見慣れた紙袋が山のように積まれている。白地に光沢のある金色で書かれた『パティスリー・ムクロジ』の文字。そう、ついさっきまで私が愛情込めて売っていた、あのかわいいお菓子たちの半分くらいは、間違いなくこの袋の山の中に詰まっている。
「見事なもんやろ?」
「本当にね。言葉が出ないよ」
5年前、チリが四天王に就任した。私も同じ時期、正式にムクロジのパティシエになって、チョコレート部門を任されるようになった。
チリが就任してすぐの頃、雑誌のインタビューで「好きな食べ物は?」と聞かれて、彼女は「ムクロジのチョコレート」と答えたのだ。きっとチリは、私のパティシエ就任祝いも兼ねて、お店の売り上げに協力するためにそう言ってくれたんだと思う。そしてその効果は、てきめんどころではなかった。この5年間、ムクロジのバレンタインの売り上げはまさにシビルドン登りで、この時期の雑誌の特集は、どこを開いてもムクロジの名前が載っているほどの人気店になってしまった。
チリ宛に届く大量のチョコレート。でも、てっきりリーグに届いた分は、職員の皆さんで分けて食べているものだと思っていた。だから5年前、チリに「チョコ食べへん?」と誘われて、この部屋でムクロジの袋の山を見たときは、本当に目が点になった。まさか、自分に届いた分を全部、自分ひとりで持ち帰ってくるとは思わなかったのだ。律儀に全部受け取るなんて誠実なのか、それとも、ただの食い意地が張っているだけなのか。チリの場合、どっちの理由も大いにありえるから、少しだけ笑えるのだけど。
...
「チリ、どう?美味しい?」
「んーっ、うまあい」
もぐもぐと、ほっぺをホシガリスみたいに膨らませてチョコを頬張るチリを見て、私はようやくホッと胸を撫で下ろした。それこそ、チリにこのチョコレートを贈った女の子たちはなかなか拝めないだろうなと思うような、甘さに緩みきった表情が何ともかわいらしい。いつものキリッと釣り上がった眉毛なんて、今にも落っこちそうなほど垂れ下がっている。一方の私はといえば、お菓子を作る工程で散々味見をしているうえに、幸せそうに食べているチリの姿を見ているだけで胸がいっぱいになってしまうのが常だ。だから、お供はチョコではなく彼女の家に置いてある高そうなウイスキー。琥珀色の液体を口に含み、氷の音を愉しみながら、無防備なチリの様子を眺めるのが私の特等席だった。昼間はあんなに緊張していたのに、こんな彼女の姿ひとつで一瞬にして安らいでしまうなんて、私も単純だなと思う。けれど、こんな顔を見せられたら無理もない。だいたいチリは、私の作ったものにバツをつけるなんてことはしないのだから、昼間の私の心配が杞憂なのだ。
――パティシエとして多くの人に自分が作ったお菓子が届くのは何より嬉しいことだ。けれどもやはり、チリは特別だ。私にとって、一番なのだ。そんな人に、自分が作ったものを一番美味しい状態で、一番たくさん食べてもらえるこの喜びは、何物にも代えがたい。
「…あ、そうだ。忘れるところだった」
「ん? なあに」
このチョコは、さっき食べたのは――なんて、一つひとつ丁寧に褒めてくれるチリを見ていて、危うく満足して本来の目的を忘れるところだった。ムクロジではチョコレート部門を担当しているけれど、最近はカエデさん一人では回らなくなっていることもあって、洋菓子の方も少しずつ手伝うようになっている。その中でも、特に私が得意としているのが――。
「はい、チリ。これ、あげる」
「……何や、自分からチリちゃんにプレゼントなんて、もしかして初めてやない?」
「あれ、そうだった?まあでも確かに、そもそも少し前までこの時期にチョコを贈るっていうイメージがあまり無かったからなあ」
「ん? ああ、せやね。これはジョウトの文化やもんな」
「うん。……あのね、これ、お店には置いてないの。チリにあげたくて、作ったんだよ」
「………マジか」
少しずつ酔いが回ってきたのかもしれない。ゆらゆらと揺れる視界のなかで、チリの整った顔がいつもよりずっと赤く、熱を帯びているように見える。
「少し調べてみたんだけど、バレンタインにあげるお菓子の種類で、意味が変わるんだって」
「……へえ、そうなんや」
「そうなの」
チリが、壊れ物を扱うような手つきで丁寧に箱を開けていく。茶色の箱の中には、綺麗に並んだマカロンが3つ。照明に照らされてツヤりと光るマカロンに、我ながら良い出来だと自惚れてしまう。ニマニマと、なぜか動きが鈍くなったチリを観察していると、戸惑ったようにこちらを見てきた。チリの上目遣いなんて、本当に珍しい。いつも見下ろされてばかりなのに。
「マカロンの」
「そう、マカロン。ガナッシュの中にね、隠し味を忍ばせて――」
「マカロンの、意味は何なん。ミント、知ってて贈ったんやろ?」
赤い目に、ドキリと心臓が跳ねた。いよいよ酔ってきたのかも。どうしてか、どうしようもなく、私を射抜くチリの目に惹かれてたまらない。
「特別」
「あなたが特別なの、チリ」
...
数分前、とんでもない殺し文句を言い放った当の本人は、ダイニングテーブルに突っ伏してフゴフゴと寝息を立てている。パティシエなのにお酒好き、けれども大して強くもない。色々と、刺さる要素が多すぎる想い人に、チリは思わず長い溜息を漏らした。
『あなたが特別なの、チリ』
その言葉が本心か、酔った勢いか。そんな真偽はどうでも良いとさえ思えるほど、先の言葉は心臓に悪い。手に持ったままだったマカロンの箱を置き、椅子を引いて彼女の隣に座り直す。無防備に晒された白い項、仕事のしすぎで少し荒れた指先、そして、微かに漂うムクロジの甘いチョコレートの香りと、お酒の匂い。
「こーんな無防備に寝て、知らん男ならすぐに食べられてもうてんで? チリちゃんだってギリギリやさかい」
ミントを好きになった理由なんて、もう覚えていない。オレンジアカデミーの入学説明会で隣り合ったあの日からか。それとも、慣れない寮生活で心細そうにしていた彼女に、声をかけた時からか。気づいた時にはもう、きっかけなんてどうでも良くなってしまうくらい、彼女は自分の日常の一部で、人生の真ん中に当たり前のように座っていた。
学生の頃、宝探しの旅路で離れる期間もあったけれど、スマホロトム越しにミントの近況を聞くだけで、過酷なジムチャレンジの疲労なんてすっかり吹き飛んでしまった。卒業して、四天王になって。パルデア中から注目される立場になっても、ミントが鳴らすインターホンの音だけで、自分の幸せは最高潮に達するのだ。
きっと、ミントは知らない。どうして好物に「ムクロジのチョコレート」と答えたか。ミントが作るものを誰にも食べさせたくない、自分だけで独り占めしたいなんて――。そんな子供のような、ドロドロと甘く溶けきったこの想いは、大人という仮面の下にずっと隠し続けてきた。
「なはは、重いなあ。自分への気持ち、毎年積もる一方やわ」
チリは自嘲気味に苦笑いしながら、ミントの背中に手を回した。眠っている彼女を驚かせないよう、ゆっくりとその身体を抱き上げる。
「……ん、ぁ……ちり……?」
「おっと。……起きんでええよ。そのまま寝とき」
腕の中で小さく身じろぎしたミントが、無意識にチリのシャツをぎゅっと掴んだ。その拍子に、彼女からさらに甘い香りが立ち上る。パティシエとして、世界中に幸せを届けている彼女。けれど、その彼女に「特別」と言わせ、独占できるのは自分だけなのだ。その事実が、四天王としてどんな難敵に勝つよりも、チリの自尊心を甘く満たしていく。
寝室へと続く短い廊下を、足音を忍ばせて歩く。ベッドにそっと彼女を横たえ、柔らかな毛布を肩までかけた。窓から差し込む月の光が、彼女の赤く色づいた頬を穏やかに照らしている。
「おやすみ、ミント」
チリはベッドの縁に腰掛け、彼女の額にそっと唇を寄せた。ミントがくれた「特別」という言葉に、自分ならどんな言葉を返せるだろうか。リビングには、まだムクロジの紙袋が山のように積まれている。世界中が彼女のお菓子を欲しがっても、この熱量だけは誰にも渡さない。
チリは、眠るミントの頬を愛おしそうに指先でなぞった。
明日の朝、彼女が起きたら、いつもみたいに慌てて謝るのだろう。こんなこと、もう何回も、それこそ数えきれないほどあった。けれどもいつも、ミントは申し訳なさそうに謝る。
もし、ミントとの関係が「友人」ではなかったら、その時間は変わるのだろうか。もし、彼女の言う「特別」が自分と同じ熱を持つなら。申し訳なさそうに紡ぐ「ごめん」ではなく、綻んだ口元から漏れる「おはよう」に変わるのだろうか。
そんなことを考えながら、チリは一番星が静かに見守る夜の闇の中で、幸せな余韻を噛み締める。
ーー今日はバレンタインデー。愛を告白する日。
ミントはきちんと、その意義を示して見せてくれた。
「……明日は、チリちゃんがミントに贈る番やな」
チリの低い声が、静かな寝室に溶けて消えた。
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