1年生
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ミントの朝は、爆発したように四方八方へ散らばった真っ赤な髪の毛との格闘から始まる。母親譲りの赤い癖毛は、ミントの自慢であると同時に、悩みの種でもあった。
「アカデミー入学に合わせて切ったのはいいけど。これじゃモンジャラも逃げ出すレベルだよ……」
無香料の整髪剤を気休めに塗ってみても、鏡の中の赤毛は自由奔放にハネたままだ。ミントは何度目かのため息をつき、ふと鏡の端に目をやった。そこには、起きたばかりの色違いイーブイが、寝ぼけ眼でとてとてと歩く姿が映っている。
「おはようイーブイ。ってちょっと待ってイーブイ!それ、大事なページ!踏まないで!」
鏡の前でブラシを振り回すサオリを横目に、覚醒しきったイーブイが、白い毛並みをなびかせてぴょんと本を飛び越えていく。床に散らかっているのは、ミントが読んでいるポケモンの技やバトルに関する参考書だった。付箋でパンパンに膨れ上がったそれらの本は、何度も読み返されたせいで角が丸まり、ミントの努力が物理的な重みとなって、部屋に転がっている。入学して二週間、本たちがすっかり床を定位置と認めてしまっているのは、彼女の余裕のなさを物語っていた。本棚に仕舞おうだなんて努力は、早々に諦めたのである。
「しかしもう、本当にこの髪はっ、どんなに努力してケアしてもいうこと聞かないんだか、らっ! ……痛ぁ!」
絡まった毛先を強引に引っ張ると、髪の毛が数本抜ける音がした。イーブイは賑やかな主人を眺めつつ、朝食をねだるためにその足元にすり寄ってくる。はいはい、今お出ししますよー。朝はきのみを好むイーブイのために、手際良く皮を剥いていく。
(――昨日の負け)
1日たった今でも、ウパーの動きがはっきり浮かぶ。隙も無駄もない、チリの戦い方。
「はい、お待たせ〜」
「ブィーっ!」
「今日も元気いっぱいだね」
自分の朝ごはんはどうしようか。食堂に行ってもいいけれど、どうにもそう言う気分にならない。ミントはキッチンの戸棚からシリアルを取り出し、サラサラとボウルに盛り付けた。イーブイに出したきのみの残りを綺麗に盛り付ければ、それなりに彩りのある朝食になった。
(……強かったな。でも、昨日のバトルでよくわかった。私とイーブイの魅力を出すためには、まず、ちゃんとバトルで強くならないといけないんだ。基礎ができてないうちから色々考えても、本末転倒だった)
唇をぎゅっと噛む。自分を否定されたような悔しさが胸を焼く。けれどもこんなとでへこたれるミントではなかった。昨日の悔しさも新しいやる気に変えて、ミントは元気よく登校の準備を再開した。
...
寮を出ると、春先のぬるい風が並木道を吹き抜けていく。オレンジ色の制服を着た生徒たちが相棒のポケモンと笑い合う様子に、ミントは頬を緩めていた。
「あ、ミント! おはよー!」
少し歩いたところで、クラスメイトのネネが、パピモッチと一緒に走ってくる。ミントの前の席に座る、2つのお団子がチャームポイントの女の子。入学式から何かとミントを気にかけており、いつも色々と話しかけてくれるのだ。
「おはようネネ、パピモッチ!…あれ? パピモッチ、昨日より歩き方がシャキッとしてる!何か変えた?」
「えっ、わかるの!?実はさ、持たせる道具の重さを、ほんのちょっとだけ変えてみたんだ。……ミントって、そういう細かいところまでよく見てるんだね」
「えへへ、昨日道具にまつわる本読んだからかな〜?」
いつも通り話しながらアカデミーの踊り場に着くと、大きな掲示板の前に人だかりができていた。先日行われたテストの成績発表。入学して少ししか経ってないのにテストだなんてびっくりだよね。そんなことを話しながら2人は人混みの隙間を見つけ、そこから一番上の名前を見上げた。
【 1位:チリ 】
飾り気のない文字の横に並ぶ、満点だらけの数字。もはや妬みすらも生まれないような圧倒的な数値は、周りの生徒たちとの間に、見えない高い壁を作っているみたいだった。
「わ〜すごいね!昨日ミントと戦ってた子だよね?」
「うん…」
「勉強もバトルも、完璧なんだね〜」
「ほんとだね……知らなかった。私たちも頑張らないとね?」
「私座学ほんと苦手だからさあ〜、ミント、後で教えて〜」
「わたしも、科目にはよるんだけど…頑張ろ!」
何だかすごい子に啖呵を切ってしまったのでは。内心ひやりとしたミントは、動揺を誤魔化すようにネネに意識を集中させる。自分でも、どうしてあんな態度を取ったのかわからなかったのだ。
「ありがとーっ!にしてもあのチリって子、ご飯の時も放課後も、一人でいるところしか見たことないな。誰とも話せてなさそうだし…なんか、壁がある感じがするよね〜?」
ネネの言葉を、ミントは掲示板の名前を見つめたまま聞いていた。
昨日、あんなに近くで目が合った、あの紅い瞳。
どうしてあんなに、何かに焦っているみたいに見えたんだろう。あんなに強いのに、バトルが「楽しくない」なんてことがあるのだろうか。
(どうしたらあの不安そうな顔、マシになるのかな)
ネネに集中させた思考は、あっという間にチリへと戻ってしまう。お節介、それはミント自身も自覚している家族譲りの自分の癖。けれど、チリの瞳の奥に見えたあの微かな震えが、頭の隅を占拠していた。
...
昼休みの図書室は、窓から差し込む光の中で、小さな埃ががキラキラ踊るくらい静かだ。
古い紙の匂い。高い天井が音を吸い込んで、ページをめくる音さえ大きく響く。そんな空間の一番奥、窓際の特等席に、チリはいた。
分厚いポケモン図鑑を、頬杖をついてじっと見つめている。
(……ジョウトには、絶対戻らへん)
図鑑の文字を目で追いながら、チリの心は遠い故郷の空を思い出していた。
窮屈なジョウトを飛び出してたどり着いた、パルデア。しかしそこでもなお、チリの脳裏に過ぎる両親の声。
『常に一番でいなさい。そうでなければ、どこに行こうとも価値なんて生まれへんよ』
そう言って、チリの両親は、トップの成績であり続け、3年生でのチャンピオンランク到達を条件にアレンジアカデミーに入学させた。一度でも成績が落ちればその時点で退学、ジョウトに戻ることとなる。
そうなればチリは、かつてそうであったように、決められた通りに生きる毎日に押し込まれる。レールの上を歩かされるだけの日々を過ごすうちに、生きる意味さえ見失ってしまうーー。
……そうならないためにここに来た、自由を得た。今、自分が持っているこの時間は、努力し続けなければ一瞬で消えてしまう壊れやすい宝物だった。だから、バトルも勉強もいつだって完璧でなければならない。楽しむなんて不確かな感情は、成果の邪魔にすらなり得るのだ。余裕がない、まさにチリは、その言葉に尽きる状況にいた。
それなのに。
ーー『あんた、何か不安なことがあるんだよね?』
ふっ、とチリの唇から、冷めたため息がこぼれる。
楽しむことを大切にしているらしい、あの赤い髪の同級生。自分とは相容れないはずのあの子が、自分の心の焦りを直感的に言い当てた。その事実が、余計にチリを苛立たせ、そして――不安にさせる。
開いている参考書の文字が、全然頭に入ってこない。頭の中にこびりついているのは、あの挑戦的な緑色の吊り目だ。
(…楽しさなんて、そんな気持ち、うちには関係ない。強くなって、一番になれればそれでええんや)
本のページをめくる指に、思わず力がこもる。
一人でやる。誰にも頼らず、弱みも見せず、目標への近道を突き進んで、頂点に立つ。それだけが、自分の選んだ道。それしか選べない、自分だけの道。
(……せやのに、なんやの。あいつの顔、全然消えへんやんか)
紅い瞳が、苛立ちと戸惑いで揺れる。
ただの負け惜しみだって無視すればいい。あんな、夢みたいな、半端なことを言う子の言葉なんて。なのに、ミントの言った言葉は、トゲみたいに心の奥に刺さって抜けない。そのトゲの周りから、じわじわと嫌じゃない熱が広がっていくのを感じる。
何度目かもわからないため息をついて、チリは本の影に隠れるように顔を伏せた。窓から差し込む日差しが、彼女の影を床に長く落としている。その影の端っこに、いつのまにかあの少女が混ざり込んでいるような、逃げ場のない予感。
チリは一人、冷えた指先で机の端っこを、誰にも見られないようにぎゅっと握り締めた。
...
「どうしたもんかな」
「ブイ?」
放課後の廊下。ミントは、自分の不器用さに少し凹んでいた。
実技の授業で、チリとのバトルで気がついた技の隙。それを埋めようと練習したものの、なかなか思うようにいかない。
(悔しいけど、チリが言うように相性とか、もっとちゃんと理解して動かないと……)
そんなことを考えながら、忘れ物を取りに教室に向かった時のこと。
廊下の突き当たり、夕闇が降りてきた窓際で、チリが一人で立っているのを見かけた。いつもは背筋が伸びていて、誰をも寄せ付けない雰囲気を纏っているチリ。けれども今の彼女は、窓枠に肘をついて、ぐったりと頭を抱えていた。
「…………まだ、足りひん……」
小さく、掠れた声。チリの手元には、使い古された参考書。この時間まで残って勉強していたのだろうか。成績1位という栄光は、こんな風に、自分を削り取るような努力の上に成り立っているのだと、ミントは肌で感じた。
ふと、チリが溜め息をつき、自分の右手をじっと見つめる。その指先が、わずかに震えていた。寒さのせいじゃない。何かに追い詰められ、プレッシャーに押し潰されそうな、限界のサイン。
(あ……)
ミントの胸が、ギュッと締め付けられた。成績に縛られて、震える指を隠しながら一人で戦っているチリ。その姿が、どうしてか自分と重なった。体が弱いせいで自由に動けず、窓の外を眺めるしかなかった幼い頃の、自分と。
「……チリ、」
「あれ、ミント?何してるの?」
背後からネネに声をかけられ、ミントはハッと我に返った。大袈裟に肩を揺らしたミントに、ごめん、呆気に取られたネネが呟いた。チリは人がいることに気づいたのか、ミントが振り返ったときにはその場を立ち去っていた。
「ううん、なんでもない……」
「そう?忘れ物あった?」
「あ、これから見にいく!」
「そっか、一緒に行こうか?」
「大丈夫だよ、ありがと!」
ネネと別れて教室に向かう。頭を占めるのは、やはりチリのこと。ミントは腕に抱いたイーブイの頭を撫でながら、自分の心に問いかけていた。
どうして、悔しい思いをさせられた相手なのに、拒絶とすら思える言葉を投げられたのに、追いかけたいと思ってしまうのか。
それは単なるリベンジじゃない。
(私、周りの人みんなに楽しんで欲しい。チリも、そのみんなの中に入っていてほしい)
チリが楽しさを要らないと言ったのは、きっと本心じゃない。楽しむ余裕がないほど、彼女は一人で重い荷物を背負っている。なら、その荷物をひっくり返してでも、彼女の隣に並んで、「楽しいね!」って、笑い飛ばしてやりたい。
ミントの中で、あやふやだった決意が、硬い石のような確信に変わった。
「……仲良く、なりたい」
主人の決意を感じ取ったのか、イーブイは満面の笑みで返事をするのだった。
