滴る春に体温を溶かす
あっ、これだめだ。と思ってしまえば、何かがぷつりと切れるのなんて簡単であっという間だ。
キーボードをカタカタ鳴らしながら打っていた手をピタリと止める。
ついさっきまで必死になって作っていたプレゼン用の資料も、パソコンの周りにたくさん着いている付箋のメモも、すべてすべて彼らが大勢の人に愛されるためだ。
それをバックアップするのが私の仕事だということも十分にわかっている。
どんなに残業しようが、理不尽なことを言われようが、それにやりがいを感じないことなんてちっともなかった。
でもふと、本当に何となしに倦怠感や疲労感を感じて あぁ、ダメだな。って思ってしまえば、ひたむきにやっていたことが色を失くし無に還る。
一体何時だろうと思い、時計を見ると9時にさしかかろうとしていた頃だった。
珍しく早く切りあげることができたのか、はたまた誰かの送迎をしてるのか、私以外の気配を感じない。
そんな中なぜ私はまだ残っているのか、といつもなら感じない漠然とした絶望感が身を襲う。
もう今日は帰ろう。明日はちょうど休みだし、今から適当に車を走らせて遠くに行くのもいいかもしれない。
思い立ったら吉日、片付ける余裕もなく出したままにしていたファイルで散らかしたデスクをある程度整え、中途半端な作りかけの資料を保存した。
鞄と上着を持って、事務所の戸締りをして、さぁどこに行こうかと出入り口のドアを捻ると、そこにはドアが開くと思っていなかったのか目を瞠った一織くんがいた。
こぼれ落ちそうなフォグブルーが相変わらず綺麗だなと瞬きをする間に考えた。
「……もう帰るところでしたか?」
私がドアを開けて固まってるからか、それとも中に用事があるのに退かない私に困ってるのか、いつもより少し高い声色で声をかけられた。
正直、どうしようもなく底無しに疲弊している状態で会うと考えてなかったので、思わず彼から少し目を逸らす。
こんなボロボロなところは見られたくない。
それは彼より年上だということから来るちっぽけなプライドだった。
「そう、だね。うん、帰るとこだよ。一織くんはなにか忘れ物でもあった?」
少し逡巡した後に呟いた言葉は少し不自然で、明から様になにかあると含んだものになってしまった。
誤魔化そうとヘラりとした笑みを顔に貼り付けると、柳眉を歪めて訝しげな顔をするものだから、やっぱり無理があったなときまりが悪い。
「帰宅するにしては言葉がかなり曖昧ですね…」
「……出たところで会うと思わなかったから」
「嘘ですね」
絞り出した言い訳を間髪入れずに嘘だと見抜いてしまうから、それなりの長さを過ごしてるんだなぁと変なタイミングで今更な実感を持つ。
そりゃ出会ってなんだかんだもう一年。
それだ共に過ごしていれば、癖とか好みとか見えてくるものもあるだろう。
先程より分かりやすいように目を逸らすと、じっと本当のことを言えと無言の圧力をかけられ居た堪れない。
「うっ、わかった………正直に言うよ……ちょっと気分転換にどこか行こうかなと考えてただけだよ」
根負けしてしぶしぶ本当のことを言うと、さらに眉をしかめ本当に貴方って人は……と仏頂面をされたので、これはまた心配かけたなと思わず苦笑を零す。
私のドジとか、仕事のこととか、私は大人の癖して彼を頼ってしまうのは本当に申し訳ない。
「ならついて行きます」
「…………え?」
「だから、私も明日休みなのでついて行くと言ってるんです」
聞き間違いかと思い聞き返すと間違いではなくて、予想外の返答に困惑していると、嫌なら別にいいですけど。とモゴモゴと付け加えてそっぽを向いてしまった。
経験上、こういう態度の一織くんは本音を隠していて、そんなとこは大人びている彼の年相応で愛らしいなと思う。
彼に言うときっと拗ねてしまうから言わないが。
ともかく、明日彼が休みだというのは知っていたが、私について行くと言い出すとは露ほどにも思わなかった。
「明日、学校じゃないの?」
そういや明日は平日だったなと思い聞いてみると、明日は振替休日で祝日ですよ。とジトりとこちらを見て言われた。
この業界にいるとカレンダーなんてただのお飾りであるので日付感覚が狂ってるのが常だが、改めて指摘されると恥ずかしいものがある。
確かに、日付というより曜日で把握してるところはあるので言い返す事はできない。
「それに、貴方一人だと帰ってこなさそうなんですよ」
「えぇ……心外だなぁ…………」
「すぐフラフラしなくなってから言ってください……」
顔を曇らせてそう言われてしまえば、何も言えず口を閉じる。
別にフラフラしてるつもりないんだけどなぁ。
彼はどこを私のどこを見てそんなこと言うのか不思議で堪らなかった。
でもなんとなく、今聞くことではないんだろうなと思い、腑に落ちないまま呑み込んだ。
クシュンと随分可愛らしいくしゃみが聞こえて、ハッとする。
そういや一織くんは外にいるのだった。
このままやんわり断り続けても最終的に言いくるめられるのは目に見えている上に、アイドルに風邪をひかれても重大なので、わかった、いいよ。と私が折れた。
なんだかんだ一織くんは頑固なとこがある。
「じゃあデートだね、どこ行こっか」
「なっ!?!?」
なんだか押されっぱなしも癪で、あえて彼が恥ずかしがるであろうことを意地悪で言ったのは、私がまだ大人になりきれてないからかもしれない。
案の定、顔を真っ赤にしてハクハクさせている一織くんを見て、本当に純粋だなぁとケラケラ笑った。
陸くんや三月くん、紡ちゃんのことを見て可愛いと言う彼の方が私から見たら可愛いと思うもんだから、これは病気なのかもしれない。
外に出ようとして中途半端になっていた体を出してしまって、事務所の鍵を閉めた。
秋にさしかかった夜はやはり少しひんやりとして、これは彼の身体を随分冷やしたなと猛省した。
だけど、その温度が私は心地よかった。
「じゃあ、準備しておいで」
そう声をかけると、勝手に行かないでくださいよ!と、まだ1人で行く気でいると思ったのか釘をさし、まだ朱が残る顔で寮に戻る彼をヒラヒラ手を振って見送る。
一人で気ままに放浪しようと思ってたのに、結局一織くんと出かけるのだからその矛盾に少しおかしくなる。
一緒に行くのは7歳年下のかわいいかわいい弊社のアイドルの1人。
そんな彼と行くなんて、誰かに見つかれば週刊誌に載るどころの話じゃないんだろう。随分危険な道を往く。
でも存外、彼と過ごす時間が嫌いじゃないから困ったものだ。
気高くて、ちょっと可愛いところのある一織くん。
彼と話してから、あの投げやりさがなくなっていることに気づいて私はまたおかしくて笑った。
きっと今夜は楽しい夜になることだろう。
キーボードをカタカタ鳴らしながら打っていた手をピタリと止める。
ついさっきまで必死になって作っていたプレゼン用の資料も、パソコンの周りにたくさん着いている付箋のメモも、すべてすべて彼らが大勢の人に愛されるためだ。
それをバックアップするのが私の仕事だということも十分にわかっている。
どんなに残業しようが、理不尽なことを言われようが、それにやりがいを感じないことなんてちっともなかった。
でもふと、本当に何となしに倦怠感や疲労感を感じて あぁ、ダメだな。って思ってしまえば、ひたむきにやっていたことが色を失くし無に還る。
一体何時だろうと思い、時計を見ると9時にさしかかろうとしていた頃だった。
珍しく早く切りあげることができたのか、はたまた誰かの送迎をしてるのか、私以外の気配を感じない。
そんな中なぜ私はまだ残っているのか、といつもなら感じない漠然とした絶望感が身を襲う。
もう今日は帰ろう。明日はちょうど休みだし、今から適当に車を走らせて遠くに行くのもいいかもしれない。
思い立ったら吉日、片付ける余裕もなく出したままにしていたファイルで散らかしたデスクをある程度整え、中途半端な作りかけの資料を保存した。
鞄と上着を持って、事務所の戸締りをして、さぁどこに行こうかと出入り口のドアを捻ると、そこにはドアが開くと思っていなかったのか目を瞠った一織くんがいた。
こぼれ落ちそうなフォグブルーが相変わらず綺麗だなと瞬きをする間に考えた。
「……もう帰るところでしたか?」
私がドアを開けて固まってるからか、それとも中に用事があるのに退かない私に困ってるのか、いつもより少し高い声色で声をかけられた。
正直、どうしようもなく底無しに疲弊している状態で会うと考えてなかったので、思わず彼から少し目を逸らす。
こんなボロボロなところは見られたくない。
それは彼より年上だということから来るちっぽけなプライドだった。
「そう、だね。うん、帰るとこだよ。一織くんはなにか忘れ物でもあった?」
少し逡巡した後に呟いた言葉は少し不自然で、明から様になにかあると含んだものになってしまった。
誤魔化そうとヘラりとした笑みを顔に貼り付けると、柳眉を歪めて訝しげな顔をするものだから、やっぱり無理があったなときまりが悪い。
「帰宅するにしては言葉がかなり曖昧ですね…」
「……出たところで会うと思わなかったから」
「嘘ですね」
絞り出した言い訳を間髪入れずに嘘だと見抜いてしまうから、それなりの長さを過ごしてるんだなぁと変なタイミングで今更な実感を持つ。
そりゃ出会ってなんだかんだもう一年。
それだ共に過ごしていれば、癖とか好みとか見えてくるものもあるだろう。
先程より分かりやすいように目を逸らすと、じっと本当のことを言えと無言の圧力をかけられ居た堪れない。
「うっ、わかった………正直に言うよ……ちょっと気分転換にどこか行こうかなと考えてただけだよ」
根負けしてしぶしぶ本当のことを言うと、さらに眉をしかめ本当に貴方って人は……と仏頂面をされたので、これはまた心配かけたなと思わず苦笑を零す。
私のドジとか、仕事のこととか、私は大人の癖して彼を頼ってしまうのは本当に申し訳ない。
「ならついて行きます」
「…………え?」
「だから、私も明日休みなのでついて行くと言ってるんです」
聞き間違いかと思い聞き返すと間違いではなくて、予想外の返答に困惑していると、嫌なら別にいいですけど。とモゴモゴと付け加えてそっぽを向いてしまった。
経験上、こういう態度の一織くんは本音を隠していて、そんなとこは大人びている彼の年相応で愛らしいなと思う。
彼に言うときっと拗ねてしまうから言わないが。
ともかく、明日彼が休みだというのは知っていたが、私について行くと言い出すとは露ほどにも思わなかった。
「明日、学校じゃないの?」
そういや明日は平日だったなと思い聞いてみると、明日は振替休日で祝日ですよ。とジトりとこちらを見て言われた。
この業界にいるとカレンダーなんてただのお飾りであるので日付感覚が狂ってるのが常だが、改めて指摘されると恥ずかしいものがある。
確かに、日付というより曜日で把握してるところはあるので言い返す事はできない。
「それに、貴方一人だと帰ってこなさそうなんですよ」
「えぇ……心外だなぁ…………」
「すぐフラフラしなくなってから言ってください……」
顔を曇らせてそう言われてしまえば、何も言えず口を閉じる。
別にフラフラしてるつもりないんだけどなぁ。
彼はどこを私のどこを見てそんなこと言うのか不思議で堪らなかった。
でもなんとなく、今聞くことではないんだろうなと思い、腑に落ちないまま呑み込んだ。
クシュンと随分可愛らしいくしゃみが聞こえて、ハッとする。
そういや一織くんは外にいるのだった。
このままやんわり断り続けても最終的に言いくるめられるのは目に見えている上に、アイドルに風邪をひかれても重大なので、わかった、いいよ。と私が折れた。
なんだかんだ一織くんは頑固なとこがある。
「じゃあデートだね、どこ行こっか」
「なっ!?!?」
なんだか押されっぱなしも癪で、あえて彼が恥ずかしがるであろうことを意地悪で言ったのは、私がまだ大人になりきれてないからかもしれない。
案の定、顔を真っ赤にしてハクハクさせている一織くんを見て、本当に純粋だなぁとケラケラ笑った。
陸くんや三月くん、紡ちゃんのことを見て可愛いと言う彼の方が私から見たら可愛いと思うもんだから、これは病気なのかもしれない。
外に出ようとして中途半端になっていた体を出してしまって、事務所の鍵を閉めた。
秋にさしかかった夜はやはり少しひんやりとして、これは彼の身体を随分冷やしたなと猛省した。
だけど、その温度が私は心地よかった。
「じゃあ、準備しておいで」
そう声をかけると、勝手に行かないでくださいよ!と、まだ1人で行く気でいると思ったのか釘をさし、まだ朱が残る顔で寮に戻る彼をヒラヒラ手を振って見送る。
一人で気ままに放浪しようと思ってたのに、結局一織くんと出かけるのだからその矛盾に少しおかしくなる。
一緒に行くのは7歳年下のかわいいかわいい弊社のアイドルの1人。
そんな彼と行くなんて、誰かに見つかれば週刊誌に載るどころの話じゃないんだろう。随分危険な道を往く。
でも存外、彼と過ごす時間が嫌いじゃないから困ったものだ。
気高くて、ちょっと可愛いところのある一織くん。
彼と話してから、あの投げやりさがなくなっていることに気づいて私はまたおかしくて笑った。
きっと今夜は楽しい夜になることだろう。
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