挨拶から始めよう
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【清純タイアド】
11月。劇場のバックヤードには、いつにも増して張り詰めた空気が漂っていた。
通常の劇場公演に加え、目前に迫った日本武道館でのコンサートのリハーサル。
壁にはびっしりと書き込まれたスケジュール表が貼られ、メンバーたちは劇場公演の合間にリハーサルに励んでいる。
スタッフの私にとっても、この時期は正念場だ。
劇場公演の運営の他にも、リハーサルの準備や諸々の手配、疲れを残して怪我をしたり体調を崩したりしないように、スケジュールの調整。
そして何より、疲労がピークに達するメンバーたちのケア。
そんな中でも変わらずに元気なのはやっぱりあの二人だった。
「秋元さーん! 今日の前髪、どっちがいいと思います? こっち? それともこっち?」
「秋元さん、数学の小テスト満点でした! 褒めて褒めて!」
バックヤードで備品の整理をしていると、丸山さんが左腕に、近藤さんが右腕にしがみついてくる。
大型犬と子猫に同時に襲われているような感覚だ。
「……丸山さん、どっちも素敵だと思うよ。近藤さん、今は仕事中だから後でね……。二人とも、少しは離れて……」
困惑する私を余所に、二人は「えー!」と声を揃えてさらに密着してくる。
スタッフとしての威厳など、彼女たちの前ではとうに霧散していた。
その時、救いの手が差し伸べられた。
「こら、二人とも。秋元さんの仕事の邪魔をしないの」
現れたのは、大賀彩姫だった。彼女は手際よく二人の襟首を掴むようにして引き離すと、申し訳なさそうな顔で私に会釈した。
「さーちゃん! だって秋元さん、冷たくするから構いたくなっちゃうんだもん」
「そうだよ、秋元さんは照れてるだけだもんねー」
「……はいはい。ほら、もうすぐリハーサル始まるよ。行くよ!」
嵐が去った後のような静寂の中、私は大きく息を吐き出した。
「……助かったよ、大賀さん。ありがとう」
「いえ。……いつもすみません、うちの二人が」
大賀さんは短く頭を下げると、二人を追ってステージへと向かった。
その後ろ姿が、いつもより少しだけ小さく見えたのは、気のせいだっただろうか。
リハーサルが終わり、公演が始まるまでの束の間の休息。
自動販売機の前で私が飲み物を買っていると、足音が近づいてきた。
「……秋元さん。少し、お時間良いですか?」
大賀さんだった。彼女の瞳には、いつもの冷静な光とは違う、翳りのようなものが混じっていた。
他のメンバーはすでに楽屋へ戻り、廊下には私たち二人しかいない。
「大賀さん? どうしたの」
「あの……なんだか、今日はうまく笑えなくて」
大賀さんは自販機の冷たい金属に寄りかかり、視線を落とした。
「秋元さん。私……いい子じゃないのに、いい子のふりをしてるのが、最近すごく疲れちゃったんです」
「……いい子のふり?」
「20期の中では年上だから、しっかりしなきゃって。
まるちゃんやこさきが自由に振る舞えるように、私が常識人でいなきゃって……ずっとそう思ってきました。
でも、武道館の準備で自分のことで一杯いっぱいになってくると、二人の無邪気さが、時々羨ましくて、苦しくなるんです」
大賀の言葉は、乾いた砂が零れ落ちるような切実さを帯びていた。
「本当は私も甘えたいし、逃げ出したい。
でも年下の二人に相談するのも、なんだか荷を負わせるみたいで気が引けますし。
気づいたら、『保護者役』が私の一番の個性みたいになっちゃって。
……私らしさって、何なんでしょうね」
それは、優等生という役割を背負い続けた彼女の、悲鳴に近い本音だった。
一年前の私なら、きっと何も言えなかった。
私も同じように、自分の役割を全うすることだけが生きる術だと信じていたから。
けれど、丸山に熱を与えられ、近藤に慈愛を教わった今の私には、彼女の震える肩を無視することはできなかった。
「……私の目には、今の君も十分に『大賀彩姫』に見えるけどね」
「え……?」
「周りを優先できる優しさも、自分の役割に悩む真面目さも、全部君自身のものだよ。
でも、劇場には君を守る大人もたくさんいる。
……スタッフにくらい、もう少し甘えてもいいんじゃないかな」
大賀が、弾かれたように顔を上げた。
私は、自販機で買った温かいお茶を彼女に差し出した。
「大賀さんはいつも誰かを優先するけど、たまには自分を一番にしてあげなよ。
……大賀さん、君が一番『お疲れ様』を言わなきゃいけない相手は、君自身だよ」
大賀は呆然とした顔で、私とお茶を交互に見た。
やがて、彼女の瞳にじわりと熱が宿り、小さな雫が睫毛に溜まった。
「……秋元さんは、ずるいです。いつも見てないふりして、一番欲しい言葉をくれる」
「スタッフだからね。よく見てるよ、君たちのことは」
大賀は、震える手でお茶を抱きしめた。
「……甘えても、いいんですか?」
「仕事の邪魔にならない程度ならね。
……でもこれからも今日みたいに二人のことを止めてくれると助かる」
私の冗談に、大賀は今日初めて、年相応の少女のような、力みのない笑顔を見せた。
「ふふ、分かりました。……ありがとうございます、秋元さん」
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夜公演が終わり、全ての業務が終了した頃には、時計の針は午後十時を回っていた。
ロビーの消灯を済ませ、締め作業を終えて劇場の扉を閉めようとした時、通用口の影に人影があるのに気づいた。
「……大賀さん? まだいたの?」
「……秋元さんが帰るのを、待ってました。
もう少し、お話がしたくて」
「……しょうがないな。駅まで送るよ」
「本当ですか!? ありがとうございます」
夜の秋葉原を、私たちは並んで歩いた。
ステージの話、これからの不安、そしてさっき話した「いい子」じゃない大賀さんの本音。
彼女はぽつりぽつりと、けれど止まることなく話し続けた。
「秋元さん。私、明日からも頑張れそうです。
……秋元さんにだけは、わがまま言ってもいいって分かったから」
「ほどほどにね。私のキャパも無限じゃないんだから」
駅の改札前。大賀は足を止め、私の方を真っ直ぐに見つめた。
「ありがとうございました。……また明日、劇場で」
彼女の「また明日」という言葉が、夜の空気に心地よく溶けていった。
私は彼女の背中が改札の向こうへ消えるまで見送り、自分もまた、夜の街へと踏み出した。
明日もまた、彼女たちの「おはよう」に応えるために。