挨拶から始めよう
name chenge
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【君のことが好きだから】
5月。怒涛の春コンサートとGWが終わり、劇場もいつもの様子に戻ってきた。
あの日から数ヶ月。私のルーティンに、ささやかな、けれど確実な変化が起きていた。
公演メンバーが発表されるたび、まず探すのは丸山ひなたの名前だった。
いつの間にか、丸山が出演する日は自分が鍵開け当番をすることが当たり前になっていた。
本来なら、若手スタッフが嫌がる早朝の鍵開け当番。
私だってやりたくてやっているわけではない。
ただ、せっかく自主練にきたのに、鍵が開いてないのは申し訳ないと思ってしまうからだ。
誰もいない事務所で、自分に言い訳を零す。
けれど、エレベーターが8階に到着する「チーン」という音を聞くと、わずかに背筋が伸びるのを自覚していた。
「おはようございますッ、秋元さん!」
今日も今日とて、鼓膜を揺らす快活な挨拶。
扉の隙間から現れた丸山は、私を見つけるなりパッと表情を輝かせた。
「丸山さん。今日も早いね」
「ありがとうございます! あの、秋元さん。最近、私が出る日の朝はいつも秋元さんがいてくれるので、すごく嬉しいです!
なんだか、今日も頑張れるぞってパワーが湧いてくるんですよ!」
真っ直ぐすぎる言葉に、私は言葉を詰まらせた。
「……偶然だよ。そんなことより、早く着替えてきなよ」
「えへへ、はーい! 行ってきます!」
嵐のように去っていく彼女の背中を見送っていると、背後からクスクスと忍び笑いが聞こえた。
「秋元、相変わらず人気者だな」
「……先輩。いつからいたんですか」
いつの間にか出勤していたベテランの先輩スタッフが、面白そうに私を眺めていた。
「いやぁ、お前が自分から早番を引き受けるようになるなんてな。
丸山ちゃんが来てから、お前、なんだかんだでやる気出してるだろ?
現場の空気が明るくなって助かるよ」
「別に、やる気なんて……。ただの効率化です」
私はそっけなく返して、逃げるようにロビーの点検へと向かった。
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その日の昼公演と夜公演の間。
私は忘れ物チェックと座席の不備を確認するため、誰もいない客席へと向かった。
メインの照明は落とされ、薄暗いフットライトだけが、赤いシートの列をぼんやりと浮き上がらせている。
この静寂が、私は嫌いではなかった。華やかな喧騒が去った後の、祈りのような静けさ。
最後列から順に視線を走らせ、中央のブロックまで差し掛かった時。
いるはずのない人影に、心臓が跳ねた。
「……っ、誰?」
「ひゃっ!? ……あ、秋元さん!」
座席の隙間にうずくまるようにして座っていたのは、20期研究生の最年少、近藤沙樹だった。
座面を机の代わりにして、問題集とノートを広げ、手元を小さなライトで照らしている。
「近藤さん……何してるの、こんなところで。心臓に悪いよ」
「ごめんなさい! 驚かせるつもりじゃなかったんです。えへへ……」
近藤は申し訳なさそうに、でもどこか人懐っこい笑みを浮かべている。
開かれたノートを見ると、そこには数学の方程式が、丸っこい字でびっしりと書き込まれている。
「テスト勉強? 楽屋でやればいいじゃない」
「楽屋だと、先輩たちが寝てたり、TikTok撮ってたりするから……。
私が机にノート広げて勉強してたら邪魔かなって。」
彼女なりに、グループの中での立ち振る舞いを気にしているのだろう。
天真爛漫に見えて、この子は驚くほど周りの空気を読んでいる。
「そんな暗いところでやってたら目が悪くなるよ。……まあ、ほどほどにね」
「あっ、秋元さん、ちょっと待ってください……」
「何?」
「勉強、教えてほしいんですけど……」
私は溜息をつきながら、彼女の隣の席に腰を下ろした。
私は問題集を覗き込んだ。26歳の頭をフル回転させ、中学生の数学を紐解いていく。
連立方程式なんて何年ぶりだ…
当時の記憶を呼び起こしながら説明するが、どうも近藤は数学が苦手らしい。
説明を聞いても、分からないときは頭に「?」が浮かんでいる。分かりやすい子だ。
それに説明していると、秋元さん頭いい! とか、わかりやすい! とか、近藤はいちいち大袈裟に反応する。
その真っ直ぐな称賛が、少しだけ面痒かった。
「……これでいい? はい、ここからは自力で解くこと」
「はーい! ありがとうございます、秋元さん!」
近藤は満面の笑みで私を見た。その瞳は、暗い客席の中でもキラキラと輝いている。
ふと、近藤がペンを置いて、私の顔をじっと覗き込んできた。
「……何?」
「……秋元さん、さっきからずっと『スタッフさんの顔』してます」
「スタッフなんだから当たり前でしょ」
「そうじゃなくて! なんて言うか、秋元さんとっても優しいのに、表情が硬くてもったいないです。
もっとこう、ふにゃってすればいいのに」
近藤はそう言うと立ち上がり、私の頬を指先でぐりぐりと押し広げてきた。
「ちょっ、やめなさい。
……優しさとかじゃないよ。仕事の一環。
メンバーが赤点取って活動休止にでもなったら、シフト調整が大変になるから」
私は彼女の手を振り払い、わざと事務的な口調で否定した。
けれど、近藤はそんな私の言葉をまるで見透かしているような、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「えー? でもそれって、やっぱり私たちのことが好きだからですよね?」
「は?」
突飛な言葉に、思わず声が裏返った。
「違うって。私はただのスタッフで……」
「私は、秋元さんのこと大好きですよ」
近藤は、なんの迷いもない、透き通った無垢な笑顔で言い切った。
私は言葉を失い、喉の奥が熱くなるのを感じた。
大人の私が、中学生の少女の真っ直ぐな好意に、完全に気圧されていた。
「……君は、子供だからそんなことが簡単に言えるんだ。大人の世界にはね、もっと打算とか……」
「秋元さん。愛って、返事を求めない声なんですよ」
近藤が、少しだけ大人びた表情で私を見つめた。
「好きだから、何かをしてあげたくなる。それだけで十分じゃないですか?
秋元さんがこうして勉強を教えてくれるのも、私たちが笑ってステージに立つのを支えてくれるのも、きっと全部『好き』だからですよ」
返事を求めない声。
私は彼女たちに何かを見返りとして求めていたわけではない。
ただ、その懸命に走る姿が、いつの間にか私の暗鬱な日常を照らす光になっていた。
それが、近藤の言う「好き」の正体なのだとしたら。
「……参ったな。中学生に説教されるなんて」
「ふふん。じゃあ、反省文として私の好きなところ言ってください!」
「……なんでそんな流れになるの」
「いいから! ほら、早く!」
隣りに座った近藤がぐいぐいと顔を近づけてくる。
私は逃げ場を失い、小さく溜息をついて視線を天井に向けた
……こびりついた皮肉を剥ぎ取り、本音だけを絞り出す。
「……近藤さんの、アイドルも、学生もどっちも手を抜かずに頑張ってるところが好きだよ。
……そういうところ、一人の人間として尊敬してる」
自分で口にしながら、耳まで赤くなるのが分かった。
すると近藤は、パッと顔を輝かせ、椅子の上で小さく飛び跳ねた。
「わあ! 秋元さんに褒められた! 今の、録っておけばよかったです!」
「……言わせておいて、何それ」
「えへへ、嬉しいなぁ。秋元さんに好きって言われちゃった」
ご満悦そうにノートを抱える彼女の姿を見て、私の毒気は完全に抜けてしまった。
打算も、境界線も、もうどうでもよくなっていた。
ただ、目の前で無邪気に喜ぶこの少女を、この場所を、ずっと守っていたい。
それは紛れもなく、見返りを求めない慈愛という名の感情だった。
「……早く終わらせなよ。冷たいジュース、奢ってあげるから」
「やった! 秋元さん大好き!」
メンバーとスタッフ。巡り会えたのは偶然じゃなくて人生で一回の奇跡かもしれない。
再びノートに向かう彼女の横顔を見つめながら、私の胸の奥は、かつてないほど穏やかな熱に包まれていた。