挨拶から始めよう
name chenge
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【おはようから始まる世界】
午前6時30分。
鍵開け当番という役回りは、この仕事の中で最も忌々しいものの一つだ。
眠い目を擦りながら、まだ静まり返った秋葉原の街を抜け、ビルの通用口を開ける。
秋元康、二十六歳。
劇場のスタッフになって数年、私はすっかり効率という名の無気力を身につけていた。
今日の予定を頭の中で反芻する。
今日は2回公演だからいつもよりやることが多い。
ロビーの解錠と照明、パネルの点灯チェック、備品の在庫確認を済ませてしまえば、他のスタッフが来る8時過ぎまで、バックヤードのベンチでひと眠りできるはずだ。
暗鬱とした日々の唯一の避難所は、この静かなサボり時間だけだった。
「よし、終わり……」
予定通り、最短ルートでルーチンをこなす。あとはバックヤードで仮眠を貪るだけだ。
そう確信して、私がベンチに腰を下ろそうとした、その時だった。
――チーン、という電子音が、静寂を切り裂いた。
エレベーターが、8階に到着した音。
眉を潜める。こんな時間に誰が?
警備員にしてはタイミングが悪い。
他のスタッフもこんなに早く出勤してくる人はいないはずだ。
私は怪訝に思いながら、バックヤードの隙間からエレベーターホールの方を覗き込んだ。
そこに立っていたのは、大きなリュックを背負った20期研究生、丸山ひなただった。
「……え、丸山さん?」
思わず声が漏れた。彼女は先月公演デビューしたばかりの新人だ。
集合時間はまだ3時間も先のはずである。
丸山は誰もいないロビーで一瞬立ち止まり、大きく深呼吸をすると、私の潜んでいるバックヤードの方へと迷いのない足取りで歩いてきた。
「おはようございますッ!!」
至近距離で放たれた、弾けるような声。心臓が跳ね上がった。
「……っ、びっくりした。丸山さん、早すぎるよ。何してるの、こんな時間に」
「 秋元さん、おはようございます! 鍵、開いててよかったです!」
丸山は私の驚きなど露ほども気にせず、満面の笑みを浮かべる。
仮眠を邪魔されたイライラが、じわじわとこみ上げてくる。
私はわざとらしく溜息をつき、冷めた視線を彼女にぶつける。
「鍵が開いてるのは、私が鍵開け当番で早く来たからなんだけど。
……研究生がこんな時間に一人で来て、何するつもり? 規則違反じゃないけど、迷惑なんだけどな」
「すみません! でも、私、ダンスが本当に苦手で……。
同期のみんなにもどんどん置いていかれちゃってて。
先輩たちが来る前に、少しでも追いつくために自主練しようと思って!」
嫌味のつもりで言った言葉が、彼女の真っ直ぐな熱量に弾き返される。
皮肉のひとつでも重ねてやろうと思ったが、彼女の瞳には微塵の曇りもなかった。
丸山はリュックを降ろし、着ていたコートを脱ぎ、レッスン用のシューズに履き替えた。
時短のためか、自宅からジャージで来たようだ。
その熱量には感心するが、鍵が開いてなかったらどうするつもりだったんだろう。
「……熱心なのはいいけど、怪我をしたら元も子もないよ。
それに、そんなに全力で挨拶しなくてもいいよ、一日に何回も言うのに」
わざと冷たい言い方をした。
自分の中の暗い部分が、彼女の純粋さを無意識に拒絶しようとしていた。
けれど、丸山はそんな私のトーンなど気にする様子もない。
「すみません! でも、私、決めてるんです。世界はおはようから始まるんだって!」
「……何それ。迷信か何か?」
「違いますよぉ! 朝一番に元気な挨拶をすると、その日一日が味方してくれる気がするんです。
だから、秋元さんにも一番に届けたくて!」
丸山は「えへへ」と、どこか幼さの残る笑みを浮かべた。
私は、彼女の真っ直ぐな視線から逃げるように目を逸らした。
朝も昼も夜も、会う人には「おはよう」という不思議な業界。
私にとっての「おはよう」は特別な意味を成さなくなっていた。
それなのに、この少女は本気で、言葉一つで世界が変わると信じているらしい。
愚かだと思う。けれど、その愚かさがどうしようもなく羨ましくて、胸の奥がチリりと焼けるような感覚に陥った。
「……私は味方にならないよ。ただのスタッフだし」
「そんなことないです! 秋元さんがこうして朝早くから準備してくれるから、私たちは安心して踊れるんです。
秋元さんの『おはよう』も、私のエネルギーになってるんですよ?」
根拠のない断言。
けれど、彼女の瞳には微塵の疑いもなかった。
そのあまりの明るさに、私は一瞬、直視できないほどの眩しさを感じて目を逸らした。
「……勝手にすれば。怪我だけはしないでね、後でいろいろ面倒だから」
「はい! ありがとうございます!康さんも、いい一日になりますよ!」
丸山は軽やかな足取りでステージへと走っていった。
一人残されたバックヤード。ベンチに横になろうとしたが、もう眠気はどこかへ消え去っていた。
ステージから、微かにリズムを取る音が聞こえてくる。
私は、自分の手のひらを見つめた。
昨日と同じ、冷え切った自分の手。けれど、耳の奥にはまだ、彼女の「おはよう」が残響として鳴り響いている。
「おはよう、か……」
私は小さく独り言を零し、誰もいない廊下で、不器用に口角を動かしてみた。
うまく笑えているかは分からない。けれど、今日の仕事は昨日よりも少しだけ、丁寧にこなせるかもしれない。
昨日とは違う、新しい今日が始まった。