しだれ柳
name chenge
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地元の駅に降り立った瞬間、肺に流れ込んできたのは都会の無機質な風とは違う湿り気を帯びた草と土の匂いだった。
数年ぶりの夏祭り。
私は黒いキャップを深く被り、大きめのマスクで顔を半分以上隠して、雑踏に紛れた。
【あの夏がずっと消えない】
神社へと続く坂道は、浴衣姿の若者や家族連れで溢れかえっていた。
ふと、すれ違う人々の手元に目が留まる。
(……ああ、知らない色だ)
彼らが手にしている竹製の団扇は、鮮やかな翠色だった。
私の鞄の奥で眠っている、あの褪せた赤色とは、あまりにもかけ離れた涼しげな色。
12年で一巡するこの団扇が、今はもう赤色から何歩も先の世界を歩んでいるのだと突きつけられる。
私が赤色に縋り付いて立ち止まっていた間に、この町も、季節も、容赦なく進んでいた。
神社まで続く提燈の明かりはあの頃と何も変わってなかった。
屋台と人々の喧騒で賑わう祭りの中心部。
人混みの向こう側にその人はいた。
――康。
心臓が、ステージに上がる直前よりも激しく跳ねた。
けれど視界に入ったその姿は、私の記憶にある康とはまるで別人だった。
髪は伸びて黒髪から明るい色に変わっている。
纏っている浴衣の柄も、私の知らないものだった。
記憶の中の康よりずっと大人びたその佇まいに心の距離感を感じた。
康は、友人らしき人たちと談笑しながら、時折ふっと遠くの空を見上げていた。
その横顔には、もう私への未練も、あの夜の葛藤も影を落としていないように見えた。
康は、私のいない世界で私の知らない「康」として、確かに呼吸をしていた。
康が不意に、こちらの方を見た。
慌てて目を逸らす。大丈夫、バレてはないはずだ。
そう思っても私の心拍数は限界を超え、喉の奥が熱くなる。
ここにいたらダメになりそうで祭りの喧騒から逃げるようにその場を離れた。
人が少ない、川べりの少し離れた場所。
柳の隣のベンチに座り呼吸を整える。
この胸の高鳴りは康を目にした緊張なのか、それとも自分の記憶とは随分変わってしまったことへの不安なのか。
鞄に入れていた赤色の団扇を取り出した。
この赤色だけがあの日の二人を知っている。
丸みを帯びた持ち手を握り直す。
わざわざこのお祭りに合わせて帰ってきたのは、康に会うためじゃない。過去に区切りをつけるためだ。
もう私の隣に康が並ぶことはないと、自分に言い聞かせるためだ。
「もしかしたら」なんて淡い期待を捨てるためだ。
……そして、この団扇を手放すためだ。
それでも、康を一目見てしまったら、会いたいという気持ちがふつふつと湧き上がってくる。
声をかければ、康はきっと応えてくれるだろう。
でもそれは、自分から暗闇に消えた康の決意を踏みにじることになる。
それでも会いたいと思ってしまうのは私の独りよがりなわがままだ。
ベンチから立ち上がると、膝の上の団扇が滑り落ちそうになった。
それを慌てて掴み直した時、すぐ近くで足音が止まった。
顔を上げると、そこに康がいた。
人混みを避けて帰る近道だったのだろうか、康が一人で立ち尽くしていた。
視線が、真っ向からぶつかる。
時間が止まった。
お囃子の音も、子どもたちがはしゃぐ声も、屋台の喧騒も、すべてが真空に吸い込まれたかのように静まり返る。
康の瞳が、微かに揺れた。
私の知っているあの優しい眼差しが、一瞬だけ、かつての熱を持って私を捉えたような気がした。
康も私に気づいている。
でも、康の足は一歩もこちらへは動かない。
康が自ら引いた、見えない境界線。
「もう会わない」と決めた康の覚悟が冷たい壁のように私たちの間にそびえ立っていた。
分かっている。ここで目を逸らして、すれ違うべきなのだ。
それが康の愛であり、私の進むべき道なのだから。
けれど、何年も積み上げてきた「アイドルとしての私」が、足元から崩れていく。
喉の奥に張り付いた言葉を、私は耐えきれずに吐き出した。
「……久しぶり」
震える声だった。ステージで歌う時よりも、情けないほどにか細い声。
康の肩が、ぴくりと跳ねた。
そして何かを言いかけ、唇を僅かに動かした。
けれど、康はその言葉を飲み込んだ。
喜びに綻びかけた口元を、無理やり静かな微笑みへと整える。
康の指先が、浴衣の袖をぎゅっと握りしめるのが見えた。
その一瞬の沈黙が、永遠のように感じられた。
康はただ黙って会釈を返した。
声は、発せられなかった。
目礼だけで他人であることを貫き通し、私の横を通り過ぎていった。
背中から遠ざかっていく下駄の音。
私は立ち尽くしたまま、その背中を見送った。
(……会わなきゃ、よかったかもな)
胸の奥に、泥のような後悔が広がっていく。
声をかければ応えてくれるかもしれないという、自分勝手な淡い期待。
それは、康が私のために引いた境界線を私のエゴで踏みにじる行為でしかなかった。
康は、もう自分の道を歩き出している。
あの夏の残像に縋っているのは、私だけだった。
私はバッグから、赤色の団扇を取り出した。
褪せてしまったこの色は、今の翠色の季節には、もうどこにも居場所がない。
この団扇を持っている限り、私はずっとあの夏の残像に縋り続けてしまう。
手放さなくちゃいけない。康の覚悟と、私のけじめのために。
子供の頃、祭りから帰る前に神社の境内の箱に団扇を入れたことを思いだした。
踵を返して境内に向かう。そこには「団扇・縁起物納所」と書かれた大きな木箱が置かれていた。
箱の中には、先ほど見かけた鮮やかな翠色の団扇がいくつも重なっている。
その時、夜空にひときわ大きな花火が打ち上がった。
爆音とともに視界が白く染まり、夜の闇を圧倒的な光が塗りつぶしていく。
この光がいつまでも続いてくれるだろうと、私たちはかつて願った。
けれど、暗闇を焦がすその輝きは一瞬の出来事として消えてしまうからこそ、これほどまでに美しく記憶に深く刻まれるのかもしれない。
永遠に続く明るさなど、この世には存在しない。
そして、終わってしまうからこそ、その一瞬は宝物に変わるのだ。
私は、丸みを帯びた団扇の持ち手を最後にもう一度だけ強く握り締め、それを翠色の団扇たちの山の上に、そっと置いた。
あの夏が消えることは、一生ないだろう。
けれど、私はその思い出に蓋をして、この手に残った熱も、後悔も、すべてここに置いていく。
柳の枝を揺らす夜風を背に受けて、ゆっくりと歩き出した。
もう、振り返らない。
アイドルという花火を、誰よりも高く、美しく打ち上げるために。
私は一人、光り輝く孤独なステージへと、再び足を踏み出した。