しだれ柳
name chenge
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電車のホームに、無機質な発車ベルが鳴り響く。
私の指先をすり抜けていく康の細い指。
追いかけようとした足は、見えない境界線に阻まれたように一歩も動かなかった。
「……もう、連絡もしない。会いにも行かないよ」
康は一度も振り返らずに言った。
「それが、私にできる最後の応援だから」
「待って、康! どうして、そんな――」
叫んだ私の声は、巨大な金属の塊が吐き出す風の音にかき消された。
康の姿が、ドアの向こう側へと吸い込まれていく。
扉が閉まる。加速する光の群れ。
私の世界から、色が、温度が、剥ぎ取られていく。
【光の後で、音だけ響く】
「康!」
自分の声で、私は意識を引き戻した。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた劇場の楽屋だった。
鼻を突くヘアスプレーの匂い。
衣装のシフォンが擦れる音。
漏れ聞こえる音響チェックの重低音。
「綺星さん? 大丈夫ですか、うなされてましたよ」
隣でメイクをしていた後輩が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
私は、喉の奥までせり上がっていた絶望を、静かに飲み込んだ。
「……ごめん、ちょっと変な夢見ちゃっただけ。大丈夫」
唇を、いつものコーラルピンクのリップで塗りつぶす。
口角を数ミリ上げれば、そこには完璧なアイドルの笑顔が出来上がる。
「綺星さん、大丈夫ですか?」
「へーき、へーき。ほら、準備しないと」
私は後輩の肩を軽く叩き、平静を装って立ち上がった。
胸の奥で、康の冷たい声がまだ反響している。
それでも私は、ファンが待つ、光り輝くステージへと歩き出さなければならない。
今日はいつもより早い時間に仕事が終わった。
タクシーをマンションの前で降りた私は、部屋に上がる気になれず、吸い寄せられるように近くの川べりへと歩き出した。
夏の夜特有の生ぬるい風が、ステージの熱を帯びた肌を撫でていく。
東京の川は、コンクリートの堤防に固められて、地元の川のような土の匂いはしない。
私はマスクを上げ、帽子の庇を深く直して、川沿いの遊歩道をひとり歩いた。その時だった。
(……ドンッ)
遠い、本当に遠い空で、空気を低く震わせる音が響いた。
立ち止まり、高層ビルの重なりに目を凝らす。
直接火花が見えるわけではない。
ただ、どこか遠くで開催されている花火大会の音だけが、都会の喧騒を突き抜けて届いたのだ。
その響きが、私の記憶の底に眠っていた「あの日」を呼び起こす。
「……あの日も、暑かったよね」
独り言が、夜風にさらわれて消える。
脳裏に蘇るのは、学校の屋上に忍び込んだあの夜の記憶だ。
あの夏も、立っているだけで汗が滲むような、息苦しいほどの熱帯夜だった。
けれど、なぜだろう。
屋上のフェンス越しに並んだ私たちは、黙って手を繋いだ。
指先が、手のひらが、汗ばんで密着する。
不快なはずのその熱さが、当時は互いの境界線を溶かしていくような、心地よい一体感に思えていた。
不思議なほど、私たちは黙っていた。
いつもはお喋りな私も、からかうのが好きな康も、ただ無言で、遠くの夜空を焦がす花火を見つめていた。
私が夢を語った時、康は応援すると言ってくれた。
私は、康が私のそばで応援してくれるものだと信じて疑わなかった。
それなのに、康は私のそばからいなくなった。
私の手のひらからするりと抜けた康の手を、私はもう一度掴むことができなかった。
私は歩きながら、バッグの中から赤色の団扇を取り出した。
あの夏、学校の屋上で康からもらったものだ。
もう団扇で扇ぐ必要なんてないのに、この竹の感触が手にないと、私は「アイドル」という偶像を維持できそうになかった。
もらったばかりの頃は、竹の節が手に当たって少し角張った感触があった。
けれど、東京に来てからの数年間、不安な夜や寂しい夜に幾度となくこれを握りしめてきたせいで、持ち手の角はすっかり削れ、私の手の形に馴染むような丸みを帯びていた。
鮮やかだった赤色は、いつの間にか褪せ、夕暮れのような鈍い色に変わっている。
十二年で色が一周するのなら、地元の団扇はもう、何色分も先へ進んでいるはずだ。
なのに、私の手の中にある時間だけが、あの日、あの屋上から一歩も動けずにいる。
私だけが、この褪せた赤色に取り残されている。
私は習慣のように、スマートフォンの画面をなぞった。
メッセージアプリ。康とのトーク画面。
そこにはもう、康のアイコンはない。
名前の横には「メンバーがいません」という冷たい通知が添えられている。
康は、宣言通りに私との繋がりをすべて断ち切った。
LINEも、SNSも、康の存在を証明する痕跡は、砂上の楼閣のように消えてしまった。
数ヶ月前、寂しさに耐えかねて実家に電話をした時の、母の何気ない言葉が蘇る。
『ああ、康ちゃんなら、半年くらい前に海外へ留学に行ったわよ。
デザインの勉強かしら。綺星に言ってなかったっけ?』
その言葉を聞いた時、受話器を持つ手が震えたのを覚えている。
どうしてそこまでして私とのつながりを断ち切ろうとしたのか、ずっとわからなかった。
再び、花火の音が空を叩く。
思わず振り向いた先には、ただ夜の川面が黒く揺れているだけだ。
都会の川に映る街灯の光は、決して康の姿を映し出してはくれない。
昔、康が言っていた言葉がフラッシュバックする。
「アイドルって、花火みたいだよね。周りが暗闇じゃないと綺麗にみえない。」
姿を消すこと。留学して、物理的な距離まで作ること。
それが、康の最大で最後の優しさだったのだと、暗い川べりに立ち尽くす今になってようやく気づく。
康は私を嫌いになったわけじゃない。
私が輝けるように自分から私の世界の暗闇になってくれたんだ…
団扇の、丸くなった持ち手をそっと指でなぞる。
康は、私が「アイドル」という花火を、最高の高さで打ち上げられるように、自ら暗闇へと身を引いた。
私が後ろを振り返って、康という安らぎに逃げ込まないように、徹底的に暗闇になることを選んだのだ。
それが康なりの、残酷なまでの愛だった。
「私を、一人にしてくれたんだね」
褪せた団扇を胸に抱きしめると、微かに、本当に微かに、あの夏の夜の火薬の匂いがしたような気がした。
私はもう、無邪気に永遠を誓い合った子供じゃない。
けれど、この手に残る丸みを帯びた竹の感触だけが、私がかつて誰かに愛されていたという、消せない証拠だった。
その優しさに気づいても、康はもうどこにもいない。
私は褪せた団扇を、かつて康と繋いだ手のひらと同じ強さで、ぎゅっと握りしめた
「……康、私はまだ、赤色のままだよ」
この団扇の色が、いつか完全に消えてしまうまで。
あるいは、私が本当の意味で「大人」になるその日まで。
時計の針はあの夏で止まったままだ。