しだれ柳
name chenge
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錆びついた鉄門は、夏の湿り気を帯びて嫌に重かった。
「しーっ、大きな音立てないでよ」
綺星が悪戯が見つかりそうな子供のような顔で笑う。
私は頷き、閉鎖された校門のわずかな隙間をすり抜けて、夜の校舎へと足を踏み入れた。
【星の中に咲く花】
夏祭りの喧騒は、ここまでは届かない。
街中が浮き足立つ花火大会の夜、私たちが選んだのは、世界から切り離されたような学校の屋上だった。
「ねえ、本当に開いてるかな」
「昼間のうちに、非常階段の鍵が甘いのは確認しといた。私を誰だと思ってんの」
「ふふ、さすが康」
綺星が私の手をギュッと握る。
繋いだ手のひらは少し汗ばんでいたけれど、その不快感さえもが2人で一緒にいるという証拠のように思えて、愛おしかった。
―――
誰もいない階段を、足音を忍ばせて上っていく。
一段上るごとに、地上から切り離されていくような感覚があった。
私と綺星。クラスメイトからは「仲の良い幼馴染」として片付けられているけれど、二人だけの時間はそれ以上の何かを、言葉にできないほど濃厚な空気を漂わせていた。
屋上への重い扉を押し開けると、そこには夜空が剥き出しになって広がっていた。
「……わあ。すごい、独り占めだね」
綺星が駆け出し、フェンスに身を乗り出す。
河川敷から、シュルシュルと尾を引いて光が昇っていく。
刹那、ドーンというお腹に響く音とともに、夜空に大輪の菊が咲いた。
火薬の匂いが、風に乗って運ばれてくる。
「こっちにおいでよ、康」
呼ばれて隣に並ぶと、綺星の肩が私の腕に触れた。
もともと人との距離が近い綺星だけど、私とは特に近くて自分だけが特別なんだと錯覚してしまう。
私はバッグから団扇を取り出した。
毎年地域で配られる竹製の団扇で、その年によって色が違う。
12年で色が1周するらしく、去年は白で今年は赤だった。
生ぬるい風がせめてマシになるようにと団扇で二人分の風を送る。
「涼しい?」
「うん、ありがとう。あ、今年の団扇赤だったんだ」
「もらってないの?」
「お兄ちゃんが先に持っていっちゃたみたいでもう無かった」
「ふーん。…あげようか?赤好きでしょ」
「いいの?!やったー!」
花火は中盤に差し掛かり、単発の花火がスターマインに変わる。
ドドンと音が響くより早く、花が咲いては散っていく。
「……ねえ、覚えてる? 小学生の時も、こうして一緒に屋上で花火を見たこと」
「忘れるわけないじゃん。小学校の屋上で花火が見れるから一緒に行こうって綺星から誘ってきたのに、綺星が屋台のりんご飴を落として泣くから全然花火どころじゃなかった」
「もう! それは言わない約束でしょ」
綺星が私の脇腹を小突く。
その仕草一つひとつが、私たちの時間を積み重ねた結晶のように思えた。
私たちはしばらく、無言で空を見上げた。
赤、青、金。次々と塗り替えられる夜空。
その光が綺星の瞳に反射して、万華鏡のように揺れている。
「康」
「ん?」
「私……康とこうしてると、時間が止まればいいのにって本気で思っちゃう」
綺星が私の手を、さっきよりも強く握りしめた。
その指先が震えている。
「時間は止まらないけどさ、来年も再来年も、こうして一緒にいよう。
花火は一瞬で消えるけど、夏はまた来るよ。約束。」
私がそう言うと、綺星は嬉しそうに、でもどこか淋しそうに目を細めた。
綺星は私の肩に頭を預け、小さく「うん、約束」と呟いた。
その時までは信じていた。この幸せな時間が永遠に続くと。
けれど、花火がクライマックスに向けて勢いを増した頃、綺星がふと顔を上げた。
「……ねえ、康。私ね、東京のオーディションを受けようと思うの」
心臓の鼓動が、花火の音より大きく鳴り響いた。
「オーディションって……アイドルの?」
「うん。お姉ちゃん見てたら、私もあのステージに立ちたいって思ったの。
それにもっと広い世界で、自分がどこまでいけるか試してみたい」
綺星の瞳を見て、私は悟った。
そこに宿っているのは、憧れよりももっと強烈な意志という名の光だ。
綺星はもう、この狭い町の誰もいない学校の屋上に収まるような人間ではない。
これから綺星が浴びるのは、たかだか一晩で終わる打ち上げ花火の光ではなく、何万という人々の視線と、激しいスポットライトの光なんだと。
「……綺星なら、絶対になれるよ」
自分の声が、遠くから聞こえるような気がした。
「本当に?康は、応援してくれる?」
「当たり前じゃん。一番近くで見てきた私が保証する。綺星は、誰よりも輝ける」
笑顔でそう答えたけれど、私の胸のうちは、真冬に冷たい氷を飲み込んだような張り詰めた感覚で満たされていた。
アイドル。それは、誰のものでもあって、誰のものでもない存在。
もし彼女が本物の星になるのなら、私のような存在が隣にいてはいけない。
スキャンダル、過去、幼馴染――そんな言葉が、彼女の夢を汚す足枷になる。
彼女が太陽に向かって飛ぼうとしているのなら、私は彼女を地上に引き止める重りになってはならない。
「嬉しい。康がそう言ってくれるなら、私、頑張れる気がする」
綺星は私の首に腕を回し、ギュッと抱きついてきた。
その温もりが泣きたくなるほど愛おしかった。
これが最後だ、と抱きしめ返す腕に精一杯の力を込める。
今夜、この花火が終わる時、私も一つの決意を固めよう。
綺星を自由にすること。
綺星が後ろを振り返らず、夢という空を翔け抜けていけるように、私という存在を、彼女の人生から完全に消し去ることを。
「花火、もう終わっちゃうね」
最後の花火が、夜空に長く尾を引いて、名残惜しそうにゆっくりと火の粉を散らす。
「そうだね。でも、綺麗だった」
「うん、最高だった」
流れ落ちる花火を背に、綺星が満足げに笑った。
その笑顔を、私は一生忘ることができないだろう。
この先、何度も夏が通り過ぎる度に、花火の中で咲いた笑顔をきっと思い出す。
校舎を後にする時、私は一度も振り返らなかった。
私たちの夏は、ここで終わる。
いや、終わらせなくちゃいけない。
綺星の夢が、花火よりも空高く打ち上がるために。