プロムの恋人
name chenge
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【前編:ときめきを開くパスワード】
文化祭まであと一ヶ月。
校内の廊下を渡る風には、どこか落ち着かない熱気が混ざりはじめていた。
原因は、後夜祭で開催されるという「プロム」だ。
『体育のダンスが社交ダンスだったのって、このためだったんだ』
『でも普通に恥ずかしくない?誘うか、誘われないといけないんでしょ?』
『ミスコンのクイーンとミスターコンのキングは絶対出るらしいよ』
『てか、プロムって卒業式の後にやるもんじゃないの?』
『受験あるから、そんな暇ないって』
海外のドラマでしか聞いたことがなかったようなイベントの開催が発表されて以来、休み時間の議題はもっぱら「プロム」の一色に染まっている。
(……無理。絶対に無理。私から話しかけるなんて、絶対に無理!)
私は自分の机の上で、心の中の自分が頭を抱えてのたうち回っているのを必死で押さえ込んでいた。
顔には出していないはずだ。たぶん、出していない。ポーカーフェイス、平然、冷静沈着。
そう自分に言い聞かせながら、ちらりと斜め前の席へと視線を滑らせる。
そこにいるのは、同じクラスの秋元康だ。
すらりとしたしなやかな背筋に、光を柔らかく反射するサラサラとした髪。
誰もが思わず目を奪われてしまうような独特の透明感と華やかさを持っていて、クラスでも一目置かれる人気者。
私の視線に気づいたのか、康がふっとこちらを振り返り、優しく目を細めて微笑んだ。
「ん? どうしたの、いともも?」
(うわああああ! 笑顔の破壊力! 太陽か! 眩しすぎて直視したら目が潰れる!)
胸がドクンと跳ね上がり、あやうく悲鳴を上げそうになるのを必死で飲み込む。
「ううん! なんでもない! ちょっとボーッとしてただけ!」
声が裏返らなかった自分を全力で褒めてあげたい。
感情がすぐ顔や声に出やすいらしい私の性格を考えれば、今のは満点に近いカモフラージュだったはずだ。
けど、康が微笑みを引っ込め、再び窓の外へと目線を戻した瞬間、私の心はまたズンと重くなった。
康の横顔には、どこか物憂げな影が落とされている。
遠くを見つめるその瞳は、誰を映しているのだろう。
(……察してほしいな、この乙女心)
口に出せるわけがない。胸の奥がぎゅっと張り裂けそうに痛む。
康が好きだ。いつからか分からないけれど、気づいたときにはもう、この視線は康のことばかり追いかけていた。
けれど、私の恋はまるで標識の矢印みたいな一方通行。
向こうからの視線を感じることは一度もなくて、私だけが勝手にドキドキして、勝手に落ち込んでいる。
本当は、臆病で全く自分に自信がない。
康のようなキラキラした人と並んで歩く自分の姿なんて、どれだけ想像しようとしてもぼやけてしまう。
プロムの参加は任意だ。出ないという選択肢だってある。
誘えずに指をくわえて見ているくらいなら、最初から参加しないと言って逃げてしまった方が楽かもしれない。
(でも……! このまま何も言わずに終わっちゃうなんて、絶対嫌だ)
最後の文化祭。これが終わればあっという間に受験と卒業が来て、私たちはそれぞれの道を歩き始める。
二度とこんな風に、毎日同じ教室で顔を合わせることなんてできなくなるのだ。
言葉にしなきゃ、何も始まらない。
太陽はあまりにも眩しすぎて目が眩んでしまいそうだけれど、ここで踏み出さなきゃ一生後悔する。
「……ハァ」
溜息をひとつ吐き出すと、隣の席のクラスメイトが笑いながら声をかけてきた。
「いともも、どうしたの? さっきから一人で顔芸みたいな表情変化繰り返してるけど」
「えっ、嘘、出ちゃってた!?」
「バッチリ出てるよ。『あーでもない、こうでもない』って頭の中で大爆発してる顔」
やっぱり隠せていなかったらしい。
恥ずかしくて顔が熱くなる。恋なんていつだって恥ずかしいものだ。
言葉にできない想いを抱えてモジモジしている自分すら嫌になる。
それからの数日間、私は何度もチャンスを伺った。
朝の登校時、昼休みの売店の前、掃除時間。
「良いことがあるかも」なんて淡い期待を抱いて康の近くへ行ってみるものの、タイミング悪く他のクラスメイトに割り込まれたり、緊張のあまり言葉が喉に詰まったりして、結局肩透かしばかり。
そのたびに自分の意気地なさに落ち込んだ。
でも、確率が1%でも残っているなら、私はまだ諦めきれない。
そして迎えた、放課後。
オレンジ色の夕暮れが教室を包み込む時間。
クラスメイトたちはすでに部活や下校で立ち去り、教室には康と私の二人だけが残されていた。
(今だ。今言わなきゃ、もう二度とチャンスはない!)
脳内会議が大緊急招集される。
『行け、今だ!』
『いや待って、急に誘ったら迷惑じゃないか!?』
『康には他に誘いたい人がいるっぽいんだよ?!断られたら立ち直れない!』
『うるさい! 断られたっていい! 伝えないまま終わるより100倍マシ!!』
私はぎゅっと拳を握りしめ、冷たくなった唇を開いた。
「……康!」
自分で思っていたよりも、少し大きくて硬い声が出た。
康が驚いたように振り返る。
夕日の光を受けて、康のシルエットが眩しく浮かび上がっていた。
「どうしたの、いともも? すごい勢いだけど」
「あの、ね……!」
康の元へ一歩踏み出す。膝が震えそうになるのを、気合で抑え込んだ。
康は静かに私を見つめている。
その瞳に映っているのは、間違いなく私だ。それだけで、胸が破裂しそうになる。
「プロムのことなんだけど……」
「うん」
「康、もうパートナー……決まってる……?」
問いかけながら、康の表情を伺う。
康が一瞬、何かを躊躇うように目を伏せた。
そのわずかな間に、私の心臓はヒヤリと冷たい水に浸されたような感覚になる。
やっぱり、他の誰かを誘おうとしていたのかもしれない。
あの窓の外を見ていた横顔が頭をよぎる。
「あー、いや、出るつもりはなくて……」
「……そっか」
現実はそう上手くはいかなかった。
康が申し訳なさそうな顔をしているけど、無理に誘ったのは私の方だ。
何事も無かったようにしないと。
「……いとももは私と出たいの?」
「え、あー、うん。一緒に出れたら嬉しいなー、って思ってたんだけど……全然!無理しなくていいから!」
「そう、なんだ」
「呼び止めてごめんね!また明日!」
これ以上、康と向き合っていたら泣いてしまうかもしれない。
そう思って、私は荷物をまとめて教室を出ようとした、その時。
「……待って」
康の手が、私の腕を掴んだ。
「……出るよ、プロム」
「え……いいの?」
「うん。せっかく誘ってもらったし、もうこれで、最後だし」
言葉が出ない私を見て、康が少し困ったように眉を下げる。
「……ダメかな? 」
「ダメなわけない!! 行く! 一緒に行きたい!」
食い気味に叫んでしまった私を見て、康は安堵したように目を細めた。
「よかった。じゃあ、決まりだね。衣裳のこととか、ダンスの練習とか、これから一緒に準備しよう」
「うん……! うん!」
感情が溢れ出して、顔がクシャクシャになるのを抑えきれない。
康はそんな私を見て、優しく「よろしくね、いともも」と言ってくれた。
教室を出て、一人で歩く帰り道。
冷たい夜風が頬を撫でるけれど、私の胸の奧はカッと熱い太陽が昇ったみたいに温かかった。
康に好きな人がいるのかもしれない、という不安が完全に消えたわけじゃない。
高望みかもしれないし、康にとって私はただの「仲の良いクラスメイトとの思い出作り」として選ばれただけかもしれない。
けれど、1%の望みを捨てずに一歩踏み出したから、私は康の隣を立つことができる。
本番までのあと一ヶ月。
この手が、いつか本当の意味で繋がれることを祈りながら、私は弾む足取りで家路を急いだ。