一瞬だけでも
name chenge
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【後編:指さえ触れず】
規則正しい、小さな寝息だけが静かなレッスン場に響いている。
ソファに横たわる綺星さんの寝顔は、まるで作られた美術品のようだった。
ステージで見せる圧倒的なオーラは鳴りを潜め、少し開いた薄い唇が、幼い少女のような無防備さを晒している。
私は、吸い寄せられるようにその場に膝をついた。
手を伸ばせば、すぐに触れられる距離。
「……綺星さん」
小さく名前を呼んでみる。返事はない。
百花がいつも愛おしそうに語る、世界で一番大好きな人の特等席。
私と綺星さんの間に引かれた境界線がひどく歪んで見えてくる。
私の中の悪魔が、耳元で甘く囁く。
『一瞬だけでいい。奪ってしまえばいいのに』
この手を伸ばして、その華奢な身体を強く抱きしめて、その唇を塞いでしまえたら――どれほど救われるだろう。
私のものにできるなら、この先どんな罰が下ろうと、地獄の底に落ちたって構わない。
だけど。
「……そんなこと、できるわけないじゃん」
自嘲気味な呟きが、乾いた床に落ちる。
私のわがままで、綺星さんを、そして百花を不幸にすることは絶対にできない。
大好きな人を傷つけてまで手に入れる幸せなんて、この世に存在しない。
『唇に触れずキスができたら、傷つけずに済むのに』
届かない願いが、胸の奥で鋭い痛みとなって暴れる。
直接触れることが罪になるのなら。
彼女の綺麗な肌に、指一本触れずに抱き合うことができるのなら。
私は自分の心のなかだけで、狂うほどにこの人を愛して、その罪を一生背負って生きていくのに。
私はそっと、右手を持ち上げた。
綺星さんの顔から、数センチ上の空間。
直接触れることは決してない、絶妙な距離。
そこから、彼女の顔の輪郭を、指先で静かになぞり始めた。
照明の光が私の手の影を作り、綺星さんの白い肌に重なる。
影だけの、キス。影だけの、抱擁。
触れていないのに、指先がひどく熱かった。
心臓の音がうるさくて、涙が出そうになる。
こんなにも近くにいるのに、あなたは私の親友の恋人で、私にとっては永遠に遠い先輩だ。
私だけのものになってほしい。でも、傷つけたくない。
矛盾した二つの感情が、私の心をズタズタに引き裂いていく。
「……んっ」
不意に、綺星さんの長い睫毛が微かに震えた。
私は弾かれたように手を引き、立ち上がって一歩、距離を取る。
心臓が痛いほど早鐘を打ったが、表情だけは一瞬でいつもの後輩の
「……康ちゃん?」
ゆっくりと開かれた瞳が、私を捉える。
綺星さんは上体を起こし、小さくあくびを噛み殺しながら、上体を伸ばした。
「ごめん、私、どのくらい寝てた……?」
「ちょうど15分くらいですね。すっきりしましたか?」
私は無理に口角を上げて、なるべく軽快なトーンで返した。
「うん、さっきよりすっきりした!」
「心配させちゃうから、ももちゃんには内緒だよ」といたずらっぽく微笑んでそう付け加えると、綺星さんはソファから立ち上がった。
その言葉に、また胸の奥がチクリと痛む。
どこまでも、百花の名前がついて回る。
「言いませんよ。……でも、本当に無理はしないでくださいね。綺星さんが倒れたら、みんな心配しますから」
「ふふ、康ちゃんは本当にしっかりしてるね。そういう真面目なところ、百花がいつも褒めてるよ。
『康は本当に頼りになる自慢の同期なんだ』って」
「……百花が、そんなことを?」
「うん。だからね、私も康ちゃんのこと、すごく信頼してるの」
綺星さんはまっすぐな目で私を見つめ、そっと私の肩に手を置いた。
温かくて、心地よくて、そして何よりも残酷な手のひら。
彼女の信頼は、私にとって最も美しく、最も深い絶望だった。
「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」
私は一歩、静かに後ろへと下がった。
綺星さんの手が、私の肩から離れていく。
この距離が、私たちの正しい距離だ。
それから暫く一緒に振り付けの確認をして、時計を見ると終電の時間が近づいていた。
「私、そろそろ終電なので帰りますけど、綺星さんどうしますか?」
「ももちゃん仕事終わってレッスン場に来るみたいだから、もうちょっと残るよ。
遅い時間までありがとね。気をつけて帰ってね、康ちゃん」
「はい。お疲れ様でした」
背を向け、レッスン場の重い扉を開ける。
一度も振り返ることなく、私は通路へと足を踏み出した。
扉が閉まる瞬間、カチリと冷たい音が響く。
それは、私と彼女の間に完全に引き直された、境界線の音だった。
友達の彼女。手の届かないエース。
それでも、私の胸の奥で燻る熱は、消えてはくれない。
私はこれからも、誰にも言えない秘密を抱えたまま、百花の惚気話に微笑み、綺星さんの優しい後輩であり続けるのだろう。
触れられないのなら、この綺麗な地獄の底で、ずっとあなたを想っていればいい。
私は小さく息を吐き、誰もいない夜の廊下を、一人で歩き始めた。
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