一瞬だけでも
name chenge
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【前編:友達の彼女】
「……でね、そのとき綺星さんが、すごく照れくさそうに私の手を握ってくれたの」
レッスン場の隅。
壁に背を預けて座る百花は、上気した頬をさらに緩めてスマホの画面を見つめていた。
画面の中で寄り添って笑う百花と綺星さんの姿は、あまりにもお似合いで、直視するには少し眩しすぎる。
「そっか。良かったじゃん」
私は膝を抱えたまま、できるだけいつも通りの、平坦で、だけど親友の幸せを祝福するトーンの声を絞り出した。
私たち19期生が加入して、まだ1年ちょっと。
それなのに百花は、加入直後にドラマの中心メンバーに抜擢され、新公演の初日メンバー、アルバムのソロ曲、そして選抜入りとどんどん夢の階段を駆け上がっていく。
それは同期として誇らしい気持ちと、自分も追いつかねばという原動力になっている。
そして百花は加入直後のドラマ撮影をきっかけに、若手のエースである17期生の綺星さんと、「特別な関係」になっていた。
百花は私の一番の親友だ。オーディションの時からずっと一緒に励まし合ってきた、大切な同期。
だから、彼女が恋をして、その恋が実ったことは、本当なら手放しで喜ぶべきことのはずだった。
「康にしか言えないんだよね。他のメンバーには秘密だからさ」
「惚気話を聞かされる側としては、結構お腹いっぱいだよ」
綺星さんは、若手を圧倒的な実力と背中で引っ張る、誰もが認めるエースだ。
エースとしての自覚と責任感が強くて、凛としていて、遠くから見ているだけでも目を奪われる。
だけど、百花が語る彼女は、私の知らない別の顔を持っていた。
弱くて、甘えん坊で、一人の人を熱烈に愛する、ただの女の子の顔。
それを聞かされるたびに、私の胸の奥で、じりじりと黒い炎が爆ぜるような感覚がある。
百花と綺星さん。親友とその彼女。わかっている。頭では、嫌というほど理解している。
だけど、百花の話を通して彼女の輪郭を知るたびに、私の心は歪んだ願望に侵食されていく。
一瞬だけでもいい。その特別な視線を、私に向けてくれたなら。
百花の特等席を、ほんの少しだけでいいから、掠め取ることができたなら……。
「あ、やば、もうこんな時間! 私、次のお仕事の準備あるから、そろそろ行かなきゃ」
百花が慌ててスマホをバッグに放り込み、勢いよく立ち上がった。
「康、まだ残る?」
「うん。コンサートの曲、まだちょっと不安なところがあるから。自主練していくよ」
「そっか。無理しすぎないでね? じゃあ、また明日!」
手を振って、嵐のようにレッスン場を出ていく百花の背中を見送る。
静まり返った部屋に残されたのは、鏡に映る私一人の姿だけだった。
大きく息を吐き出し、立ち上がる。
スマホのプレイリストから音楽を再生した。
百花の惚気話を頭から追い出すように、激しいビートに身体を委ねる。
ステップを踏み、ターンをして、鏡の中の自分を睨みつける。
どれだけ身体を動かしても、胸の奥のモヤモヤは消えてくれなかった。
そのまま続けて数曲踊っていたら、突然、レッスン場の重いドアが静かに開いた。
「――あ、やっぱり康ちゃんだ」
聞き覚えのある、鈴を転がすような声に、私は思わずステップを止めた。心臓が跳ねる。
入口に立っていたのは、レッスン着姿の綺星さんだった。
今日は別の仕事でレッスンは休みのはずだ。
「綺星さん……お疲れ様です。どうしたんですか?」
「今日レッスン行けなかったから自主練しようと思って。そしたら音楽が聞こえたから。
……ももちゃんは、もう行っちゃったんだよね?」
「はい。20分くらい前に、次の仕事に向かいました」
「そっか。ちょっと遅かったか」
綺星さんは少し残念そうに眉を下げたが、すぐに私を見て、ふにゃりと柔らかく微笑んだ。
その笑顔に、私は一瞬、息をすることを忘れた。
普段、ステージの上やリハーサルで見せる、あの凛としたエースの顔ではない。
完全に警戒を解いた、無防備で人懐っこい笑顔。
「ねえ、康ちゃん。もし良かったらさ、今日レッスンでやった曲、一緒に踊ってくれない?
自分で振り起ししたんだけどちょっと不安で……」
「私なんかで、役に立ちますか? 綺星さんの方がずっと上手なのに」
「そんなことないよ。康ちゃん、いっつも全体の動きをよく見てるし、先生が言ってたことも正確に覚えてるでしょ?
それにダンスもしなやかで綺麗だから、私、密かに頼りにしてるんだ」
綺星さんはそう言って、私のすぐ隣まで歩み寄ってきた。
遮るもののない距離。
百花がいないこの空間で、綺星さんは私を彼女の親友として、頼れる後輩として、100%信頼して懐に入ってきている。
その無邪気さが、今の私には酷に思えた。
「じゃあ……イントロから始めますね。ワン、ツー、スリー――」
二人並んで、鏡に向かってステップを踏む。
隣から、綺星さんの熱が伝わってくる。
微かに香る、甘い匂い。ターンをするたびに、彼女の髪が私の肩をかすめる。
「あ、ちょっとズレちゃった」
綺星さんがバランスを崩し、私の腕に不意に触れた。
「あ、ごめん!」と笑う彼女の、細い指先。
その体温が、触れた皮膚から直接、私の脳裏へ突き刺さる。
(近い――)
見下ろす位置にある、彼女の華奢な肩。
潤んだ瞳。少し上気した白い肌。
今、この瞬間、私の手を伸ばせば、簡単にその身体を抱きしめることができる。
百花がいつも触れているその場所に、私が触れることだって。
『友達の彼女なんだってわかってる。それでもーーー』
頭の中で、誰かの警告のような言葉が響く。
だけど、それ以上に強い衝動が、私の理性をじわじわと焼き尽くしていく。
一線。私とこの人の間にある、目に見えない境界線。
それを越えてしまいたい。一瞬だけでもいい、この人を私のものに。
「康ちゃん? どうしたの、じっと見つめて」
綺星さんが、不思議そうに首を傾げて私を見上げてくる。
その無防備な瞳が、私の中の衝動を呼び覚まそうとしていた。
「……いえ。綺星さん、ちょっと顔色悪いです。疲れてるんじゃないですか?」
私は必死に声を震わせないよう、いつものトーンを維持した。
「あはは、バレちゃった? 実は今日、朝からずっと撮影で、それに、昨日も終わりが遅かったから……ちょっとだけ、眠いかも」
「無理しないでください。綺星さんが倒れたなんて聞いたら、百花が心配して大騒ぎしますよ」
「ふふ……そうだね。じゃあちょっとだけ休もうかな」
そう言って、綺星さんはふらふらとレッスン場の隅にあるソファへと歩き、そのままパタリと倒れ込むようにして横になってしまった。
「15分だけ……康ちゃん……」
小さな寝息が、静かなレッスン場に響き始める。
私は、ゆっくりと、そのソファへと歩み寄っていった。