遠くで九月の蝉が鳴いた
name chenge
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【結:君の嘘を知っていた】
9月。季節は確実に秋へと向かっているはずなのに、スタジオの床を濡らす汗と熱気は、あの夏の日とさほど変わらないように思えた。
その日は、17期生と18期生による合同レッスンの日だった。
激しいダンスの通し練習が終わり、各自が休憩のために散っていく。
私は壁に背を預け、レッスン着の襟元を少し引っ張りながら、冷たい水を喉に流し込んだ。
「……あれ? 康、珍しいね」
ふいに、ドリンクを持った同期のメンバーが、物珍しげに私に声をかけてきた。
「何が?」
「いや、だっていつもなら、休憩に入った瞬間にそららが隣にすっ飛んでくるじゃん。今日はそらら、あっちにいるからさ」
同期の視線の先を追う。
スタジオの反対側の隅、18期生たちの輪から少し離れたところで、空はこひちゃんと並んで座っていた。
一つのタオルを共有しながら、何事かを楽しそうに笑い合っている。
その眩しいほどの距離感は、かつて私と空が当たり前に共有していたはずのものだった。
「ああ、うん。最近、空とこひちゃん、ユニットのことでよく話し込んでるからね」
「ふーん、まあそうだけどさ。今までずーっと一緒にいたから、なんか康の隣にそららがいないの見ると、ちょっと不思議な感じがしちゃって」
悪気のない同期の言葉が、私の胸の奥に冷たい針を刺す。
私はただ、いつものように「そうだね」と穏やかに微笑むだけで、それ以上の言葉を返すことはしなかった。
その日の夜。
連絡もないまま、私の部屋のインターホンが静かに鳴った。
ドアを開けると、そこには空が立っていた。
かつてのように私の胸に飛び込んでくることはなく、ただ、申し訳なさそうに、小さく肩をすぼめている。
「空……入って」
「うん。ごめんね、突然」
部屋に入り、向かい合って座る。
テーブルの上に置いた冷たい麦茶のグラスには、小さな水滴がいくつもついては滴り落ちていた。
私たちの間に流れる沈黙は、昼間のレッスン場での距離をそのまま引きずっているようで、ひどく息苦しかった。
空はグラスを見つめたまま、急に俯いて、絞り出すような声で言った。
「……ごめんね、康」
消え入りそうな、だけどひどく重い一言だった。
「……え、なんのこと?
空から謝られるようなことをされた覚えがないんだけど……」
私はわざととぼけて話を終わらせようとした。
これ以上、空に罪悪感を抱かせたくなかったから。
それでも空は小さく唇を震わせながら、言葉を紡ぐ。
「……全部、だよ。あの夏の日のことも、最近、康と全然話せてないことも。
私、康にたくさん嘘つかせちゃったなって……。
あの日、私がこひちゃんといるの見つけて、康、楽屋の会話のこととか、友達との待ち合わせのこととか、全部咄嗟に嘘ついてくれたでしょ? 私のせいで、康にそんな顔させて……」
空はどこまでも真っ直ぐで、優しい人だ。
だからこそ、私が彼女を傷つけないためについた嘘の理由も、その裏にある寂しさも、全部気づいて自分を責めていたのだ。
激しく揺れる空の瞳を見て、私は静かに息を吐くと、いつものように、彼女のすべてを優しく包み込むような笑顔を作った。
「そんなこと気にしなくていいのに。
空が楽しそうに活動してくれてるなら、私はそれでいいんだよ」
それは、私の最後の嘘だった。
本当は、胸が張り裂けそうなほど寂しくて、苦しいのに。
空の言う「ごめんね」の本当の意味なんて、何一つ気づいていない振りをしてみせる。
私の言葉を聞いた瞬間、空の大きな瞳から涙が溢れ落ちた。
「違うの、康、私は……」と言いかけて、彼女はそれ以上言葉を続けられず、ただ静かに涙を流した。
網戸の向こう、遠くで九月の蝉が鳴いた。
ツクツクボウシの、どこか哀愁を帯びた、終わりを告げる蝉の声。
その掠れた鳴き声を聞きながら、私は、二人の特別だった関係が完全に終わりを迎えたことを、静かに意識していた。
これ以上、この場所に空を縛り付けてはいけない。
空が私に向ける優しさが、ただの「情」や「罪悪感」に変わっていくのを、私は見たくなかった。
何より、大好きな空に、私の前でこんなに苦しそうな顔をさせ続けたくはなかった。
「空、もう遅いから、今日は帰りな。明日もレッスン、早いんでしょ?」
別れ話という明確な言葉さえ、私たちの関係には必要なかった。
だから、終わりの儀式も必要ない。
ただ、近づきすぎた距離を、少しずつ元の「ただの同期」に戻していくだけ。
私が彼女の隣から、静かにフェードアウトしていけばいい。
それが、私たちの、一番綺麗な終わらせ方だと思った。
「バイバイ、空。体調、崩さないようにね」
「……うん。ありがとう、康。……バイバイ」
空は何度も涙を拭いながら、私の部屋を出ていった。
静かにドアが閉まる。
一人きりになった部屋で、私はゆっくりとベッドに身を沈めた。
空が最後に見せた涙も、その裏側にある本心も、私は最初から全部知っていた。
あの日、私が街の中で咄嗟に嘘をついたのは、君の嘘を、君の心の変化を、誰よりも知っていたからだ。
暗闇の中で目を閉じると、襟元に冷たいものが一筋染み込んでいった。
それでも、後悔はなかった。
ただ、積み重ねてきた二人の時間が、痛いほどの愛おしさを持って、九月の涼しい夜風の中に溶けていくのを、私はいつまでも感じていた。