遠くで九月の蝉が鳴いた
name chenge
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【転:軋んだ歯車】
蝉の声が容赦なく降り注ぐ7月。
楽屋のエアコンの冷気さえも跳ね返すような夏の熱気の中で、私と空の「当たり前」だった時間は、完全にその形を失いつつあった。
ある日の夕方、リハーサルの合間の楽屋。
残っているメンバーはまばらで、奇妙な静けさが広がる中、私はこひちゃんと二人きりになった。
二人の間に流れる沈黙を破ったのは、こひちゃんの方だった。
「あの、康さん。少しお聞きしてもいいですか?」
「うん、どうしたの?」
「空さんと私、最近よく一緒に遊びに行かせていただいているんですけど……その度に空さん、康さんに必ず連絡を入れていらしたんですよね?
それが、なんだか少し不思議だったんです。お二人は同期で、一番仲が良いからでしょうか?」
「ああ、そうだね。前はよく一緒に遊んでたからかな。空、そういうところ律儀なんだ」
「そうなんですね。空さん、本当に優しい方だから。
……でも、康さんが空さんと過ごす時間を、私が奪ってしまってませんか?」
「そんなことないよ。たまに連絡取ってるし。――こひちゃんは優しいね」
「ありがとうございます。康さんにそう言っていただけると安心します。
私、空さんと一緒にいる時間が本当に大切で……これからも、空さんの支えになれたらいいなって思っているんです」
まっすぐな言葉だった。そこには私に対する牽制も、空を独占しようという悪意も一切ない。
ただ純粋に、空という人間を丸ごと受け止めたいという、深い包容力だけがあった。
だからこそ、本心を隠して微笑んだ私の胸の奥には、埋めようのない寂しさが広が
っていくのだった。
「康さんは、ずっと前からそうやって、空さんの隣にいてあげてたんですよね」
「……え?」
「空さん、時々言うんです。康はいつも優しくて、自分の全部を分かってくれるんだって。
私、お二人の関係って素敵だな、ってずっと思っていました」
「……そっか。そんなこと言ってたんだね」
私はそれ以上言葉を続けることができなくて、ただ小さく微笑むことしかできなかった。
そんな夏のある日、私はどうしても空と会って話がしたくて、久しぶりに「今度の休み、どこか行かない?」とメッセージを送った。
最初は『いいよ、どこに行く?』と返ってきた。
けれど、数日後。送られてきたのは『ごめんね、その日はちょっと、ダメになった』という短い拒絶。
胸の奥で、確かに噛み合っていたはずの二人の歯車が、静かに軋みを上げて外れる音がした。
約束の当日。私は部屋にいる気にもなれず、あてもなく街を歩いていた。
じっとりとした夏の空気が肌に纏わりつく。
雑踏の向こうから、聞き間違えるはずのない穏やかな笑い声が聞こえたのは、その時だった。
ハッと顔を上げると、歩道の向かいから、楽しそうに並んで歩いてくる空とこひちゃんの姿があった。
その瞬間、空の視線がこちらを向き、私と目が合う。
空がハッと息を呑み、その綺麗な瞳に動揺と罪悪感が走りそうになった――その刹那。
彼女の心が傷つくよりも、私に対する後ろめたさで押しつぶされるよりも早く、私はいつもの笑顔を完璧に顔に貼り付けた。
空に、一瞬たりとも罪悪感を抱かせないために。
「あ、二人とも! 奇遇だね」
私は大きな声で二人に歩み寄り、空が動揺の言葉を口にする前に、先手を打って言葉を繋げた。
「なんだ、二人で出かけてたんだ。こないだ二人が楽屋で話してたお店に行くって言ってたもんね。空から聞いて気になってたんだよ」
あの日、断られたことなんて最初から知らなかったみたいに。
二人の約束を、前から聞いて応援していたかのような口振りで、私は平然と嘘をついた。
私のあまりに自然な態度に、空は張り詰めかけた表情を緩め、どこか救われたような、だけどひどく切ない目で私を見つめた。
何も知らないこひちゃんだけが、「あ、康さん! そうなんです、やっと空さんを連れてこれて」と穏やかに微笑んでいる。
「せっかくなので、康さんも……」とこひちゃんが気を回してくれたけど、私は咄嗟に嘘をついた。
「遠慮しとくよ。友達と待ち合わせなんだ。じゃあ、二人とも楽しんでね」
それだけを言い残し、私は二人に手を振って、すぐさま背を向けた。
次第に街に雨の匂いが漂い始めて、ぽつりぽつりと雨粒がアスファルトを濡らし始めた。
そして張り詰めていた空を割るように、激しい雨が地面を叩きつけ始めた。
世界を一瞬で白く染めていく激しい雨粒。
空の心を守るために咄嗟についた嘘。
その嘘の代償として私の胸に突き刺さった、本当の寂しさと痛み。
溢れ出したすべての思いは、まるでこの街を濡らす唐突な夕立みたいだった。
あまりに急に、あまりに激しく私を襲ったその感情の嵐に、私は傘も差さないまま、ただただ夏の冷たい雨に打たれながら歩き続けた。