遠くで九月の蝉が鳴いた
name chenge
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【承:運命がすれ違う】
桜の季節が過ぎ、新緑の匂いが街を包み始める頃、私たちの関係を取り巻く空気に、かすかな、けれど確実な変化が訪れ始めていた。
きっかけは、2月から始まった新公演のセットリストだった。
そこに、空と18期生の成田香姫奈――こひちゃんによる、二人きりのユニット曲が組み込まれていたのだ。
こひちゃんは18期の中では落ち着いた性格で、それは最年長だからというのもあるのかもしれないけれど、いつも一歩引いた場所で、周囲を優しく見守るような包容力を持った人だった。
ただ、私とこひちゃんの間には、まだ明確な距離があった。
理由はシンプルだ。私もこひちゃんも、人間関係において自分から積極的に輪に飛び込んでいかない、極めて受け身な性格だったからだ。
楽屋の隅と隅で、お互いに静かに佇んでいる。
嫌っているわけでは決してないけれど、きっかけがないから挨拶を交わす以上の関係には発展しない。
こひちゃんが私に対してだけ、いつも少し緊張したような、綺麗な敬語で背筋を伸ばして挨拶してくるのを、私は微笑ましく思いながらも、無理に距離を詰めることはしなかった。
それは空とこひちゃんの間でも、これまではさほど変わらなかったはずだった。
けれど、ユニットという明確なきっかけができたことで、その距離は徐々に縮まっていった。
ーーーーー
ある日のレッスンの居残り。
レッスン場には私と空、そしてこひちゃんの三人だけが残っていた。
鏡の前で並んでユニット曲の練習をする二人を、私は壁に背を預けて見つめていた。
「空さん、今のサビ前の振りの角度、これで合ってますか……?」
「あ、うん! すごく綺麗。こひちゃん、覚えるの早いね」
空はいつも通り一生懸命だけど、最近その表情には、どこか瑞々しい充実感が溢れている。
「……康さん、どうでしたか」
ふいに、こひちゃんが私のほうを振り返た。
「お疲れ様。こひちゃん、すごく筋がいいね。最初の頃より断然いいいよ」
「ありがとうございます!空さんと康さんのおかげです」
安堵したような笑みが、お世辞ではなく本心であると物語っている。
「……あの、空さん。今日はここまでにして、こないだ言っていた駅前のカフェ、行きませんか?」
「えっ、本当!? 行く行く! ……あ、康は、どうする?」
空が思い出したように私を振り返る。
その瞳には、かつて私だけに向けていた「甘え」とは少し違う、どこか後ろめたさを孕んだ光があった。
「私はまだ自主練していくから、二人が行ってきなよ。こひちゃん、空をよろしくね」
「はい、お任せください。康さん、お先に失礼します」
こひちゃんは穏やかに微笑み、空の歩幅に合わせてスタジオを出ていった。
ガラリ、とドアが閉まる。
その直前、空がもう一度だけ私を振り返り、小さく唇を動かした。
メッセージアプリを開くと、すぐに空からの通知が届く。
『康、ごめんね。こひちゃんとユニットの話、少し詰めてくる!』
最近、空はこひちゃんと遊ぶときには毎回律儀にメッセージを送ってくる。
『今日はレッスンの後、こひちゃんとご飯食べて帰るね!』
『こひちゃんとお洋服買いに行ってきます!』
アプリのトーク画面には二人の会話よりも、空からのこひちゃんと遊ぶ報告のほうが増えていた。
空なりに私を不安にさせないための配慮であり、私との関係を過去にしないためでもあったのだろう。
だから私も毎回、『楽しんできてね』と、本心から優しく返事を送っていた。
でも、空が誰と仲良くなろうと自由なはずなのに、私の胸の奥には、言葉にできない小さなざわめきが波紋のように広がっていく。
二人と入れ違いにレッスン場へ入ってきた同期が、物珍しげに私を見つめた。
「そららと一緒じゃないんだ」
「うん。ユニットの相談するんだって。私はまだ振りが入ってないから居残り」
「ふーん……最近、そららとこひちゃん、すごく仲良いよね」
同期のメンバーが何気なく口にした言葉は、心のどこかに苦い液をにじませているような気がした。
けれど、それを表情に出すようなことはせず、私は「そうだね、楽しそうで何よりだよ」と、いつも通りの穏やかな声で返しただけだった。
ーーーーー
その数週間後。楽屋のパーテーションの裏から、二人の話し声が聞こえてきた。
「空さん、これ、こないだ言ってたお勧めの小説です。空さんなら絶対好きだと思って」
「わあ、ありがとう、こひちゃん! ……あ、これ、康も読んでたやつだ」
「康さんもですか? やっぱり、お二人は好みが似ているんですね。
……私、お二人を見てると、すごく羨ましくなります。空さんにとって、康さんは特別なんだなって」
こひちゃんの言葉に、一瞬、長い沈黙が流れた。
静かに様子を伺っていると、空がぽつりと、どこか戸惑ったような声で答えるのが聞こえた。
「……うん。康はね、いつも私の全部を受け止めてくれるの。
すごく、大切な同期だよ。……でもね、こひちゃん」
「はい?」
「私、こひちゃんといる時の自分も、すごく好きなんだ。
こひちゃんの隣にいるとね、無理して『先輩』でいようとしなくていいっていうか……。心の深いところが、すごく静かに満たされていくのが分かるの」
空の声は、かつて私に向けていた無邪気なものとは違っていた。
もっと静かで、もっと新しく、抗いようのない確信に満ちたトーン。
空はいつも真っ直ぐで努力家だ。だからこそ、時に人一倍傷つき、一人で抱え込んでしまうことがある。
空にとってこひちゃんの隣は、すでに私の隣と同じくらい、あるいはそれ以上に、自分の素顔を預けられるあたたかな居場所になりつつあった。
「空さん……。私、空さんのそういう柔らかいところ、全部受け止めたいです」
「……ありがとう、こひちゃん」
二人の間に流れる、穏やかな空気感。
そこには悪意も裏切りもない。
ただ、静かに惹かれ合っていく二人の時間がそこにあるだけだった。
ーーーーー
雨の音が大きく聞こえた真夜中。
私はベッドの中で、静かにスマートフォンを見つめていた。
動かないトーク画面。
二人の関係を形あるものにしていない私たちは、お互いを繋ぎ止める正当な理由さえ持っていない。
ただ隣にいるのが当たり前だった、それだけ。
その関係の脆さが、暗闇の中で鋭く私を突き刺す。
連絡が来なくなったのは、空が私を蔑ろにしているからではない。
むしろ、その逆なのだと、私は薄々気づいていた。
空の性格を、私は誰よりも知っている。
真っ直ぐで、嘘がつけなくて、人を傷つけることが大嫌いな優しい人。
空の優しさを誰よりも知っているからこそ、私には彼女の沈黙の理由が痛いほど分かってしまった。
トーク画面に積み重なる事務的な報告は、誰を優先しているかを見える形で突きつけてくる。
そしてそれが、お互いの心の片隅に鈍い痛みとなって現れている。
外の雨脚が強まっていくのを感じながら、私はパーテーション越しに聞こえた二人の会話を思い出す。
空の心は、もう元には戻れないほど、静かに、私からこひちゃんの方へと傾き始めている。
その現実を、私は激しく鳴り響く雨音と共に、ただ受け止めるしかなかった。