遠くで九月の蝉が鳴いた
name chenge
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【起:一つの秘密】
劇場から一歩外に出ると、夜の秋葉原の空気は少しだけ冷たかった。
ビルとビルの隙間を吹き抜ける風に、私はコートの襟元を少しだけ正す。
「康、待った?」
後ろから、弾んだ声が聞こえた。
振り返るよりも早く、私の隣に滑り込んできたのは同じ17期生の山﨑空だ。
自慢のストレートの髪を小さく揺らしながら、彼女は人懐っこい笑顔を私に向けてくる。
「ううん、今出てきたところ。お疲れ様、空」
「お疲れ様! 今日の公演、すごく楽しかったね」
私たちはAKB48の17期生として出会った。
オーディションの時からなぜか馬が合い、レッスン期間の苦楽を共に乗り越えていく中で、気づけば同期の中で誰よりも長い時間を一緒に過ごすようになっていた。
お互いに「付き合おう」なんて言葉を口にしたことはない。
けれど、楽屋で自然と隣に座るのも、休日にあてもなく出かけるのも、お互いの悩みの一番深い部分を打ち明け合うのも、すべてが二人にとって当たり前だった。
空はいつも真っ直ぐで、努力家で、見ているだけでこちらの胸が温かくなるような魅力を持っている。
言葉にしないからこその、誰にも踏み込めない特別な境界線が、私たちの間には確かに存在していた。
「ねえ、康。今日はこのまま、どっか寄って帰らない?
まだちょっと話し足りない気分なんだ」
空が私のコートの袖口を、人差し指と親指でちょこんとつまむようにして引っ張った。
そんな小さな仕草一つにも、胸が静かに温かくなる。
「いいよ。じゃあ、いつものカフェに行こうか」
「やった、決まり!」
空は嬉しそうに微笑むと、周りに誰もいないことを確認してから、一瞬だけ私の手に自分の手を重ねた。
すぐに離されたその温もりが、言葉にはしない秘密の関係を物語っている。
メンバーには完全な秘密。それが二人のルールだった。
グループのルールということもあるけれど、何よりこの特別で壊れやすい幸福を、誰にも邪魔されずに二人だけのものにしておきたかったから。
だから楽屋では、あえて普通の同期として接する。
たまに目が合っても、すぐに悪戯っぽく微笑み合って視線を外す。
その誰も知らない秘密を共有している感覚が、私たちの絆をより深く、強固なものにしていると信じて疑わなかった。
カフェの片隅の席で、私たちは他愛のない話をした。
今日の公演のあの曲のフリがどうだったとか、最近一緒に活動することが増えた後輩たちのこととか。
空は、私が話す言葉をいつも楽しそうに、身を乗り出すようにして聞いてくれる。
彼女の瞳には、確かに私が映っていた。
「私ね、康と一緒にいる時間が一番落ち着くんだ」
ふいに、空がストローをいじる手を止めて、少し真面目な顔で言った。
「本当に?」
「うん。康はいつも優しくて、私のことをちゃんと見ててくれるから。
康の前では、嘘偽りのない、本当の自分でいられる気がするの」
そう言ってはにかむ空の笑顔は、街のどんなネオンよりも綺麗だった。
私は少し照れくささを隠すように、「私もだよ。空といる時が、一番自分らしくいられる」と返した。
夜が更けて、駅の改札前で別れる時。
「また明日ね、康」
そう言って手を振る空の後ろ姿を、見えなくなるまで見送っていた。
私たちは、間違いなくお互いだけを見つめていた。
この穏やかで愛おしい時間が、ずっと、どこまでも続いていくのだと、私は心の底から信じていた。
見上げた冬の夜空に雲は一つもない。
澄み切った星空を見つめながら、私はこの穏やかで愛おしい時間が、どこまでも、いつまでも続いていくのだと信じて疑わなかった。