挨拶から始めよう
name chenge
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【希望的リフレイン】
2月中旬。劇場のロビーに置かれた加湿器の蒸気が、白く揺れている。
1年前のあの日、暗鬱とした気持ちを抱えてビルの鍵を開けていた自分を思い出すと、まるで遠い昔のことのように感じられた。
今日は20期研究生の1周年記念公演。
早朝、いつも通りに鍵を開け、いつも通りに機材をチェックする。
けれど、私の心臓の鼓動は、昨日までとは明らかに違うリズムを刻んでいた。
本番数時間前。チェックのためにステージに上がると、ストレッチをしていた丸山がを私見つけるなり、弾かれたように立ち上がった。
「秋元さーん! おはようございますッ!!」
1年前、私が耳を塞ぎたくなったあの爆音の挨拶。
今はそれが、私の世界を起動させるための、心地よいスイッチになっている。
「おはよう、丸山さん。気合入ってるね」
「はい! 今日、私、世界で一番輝きますから! 見ててくださいね!」
「……まるちゃん声大きいよ」
隣で柔軟をしていた大賀が苦笑しながら割って入り、さらにその背後から近藤がひょこっと顔を出した。
「秋元さーん、今のまるちゃんの『おはよう』、何点でした? 私は100点満点だと思う!」
「……90点かな。声が大きすぎて、私の耳が少しキーンとしてるから」
私が冗談めかして言うと、3人は「厳しいー!」と笑い声を上げた。
その無邪気な連帯感に、私の心はいつの間にか温かい光で満たされていた。
そして、いよいよ開演5分前。
暗転した舞台袖。出番を待つメンバーたちの緊張が、肌を刺すような静寂となって満ちていた。
袖から客席の様子をうかがっていた私の服の裾を近藤がそっと引いた。
「秋元さん」
「……何? 近藤さん」
「秋元さんいつも仕事だからって言うけど、本当は私たちのことを誰よりも大切に思ってくれてる……そんな熱いところが大好きです!私たちの成長をちゃんと見ててくださいね!」
あまりに真っ直ぐな言葉に、私は言葉を失った。
「ちょっと、こさきだけずるい! 私も秋元さんのこと、大好きですからね!」
「二人とも、始まるよ。……あの、秋元さん。私たちの成長、しっかり見届けてくださいね」
丸山と大賀が、闇の中で力強く頷く。
over tureが終わり、彼女たちが光の差すステージへと飛び出していった。
私は舞台袖の幕の隙間から、ステージを見つめた。
スポットライトを浴びて踊る彼女たちは、もう不安で瞳を揺らしていた頃の彼女たちではない。
セットリストの最後は、彼女たちの始まりの曲『希望的リフレイン』だ。
イントロの激しい旋律とともに、彼女たちがステージを駆け抜ける。
全力で腕を振り、必死に足を動かす彼女たち。
その姿を見つめるうちに、私の視界が不意に滲んだ。
彼女たちは、希望をリフレインさせている。
一度きりの奇跡を願うのではなく、何度転んでも、何度壁にぶつかっても、また立ち上がり、同じステップを踏み続ける。
その愚直なまでの繰り返しこそが、未来を作るのだと。
『未来の答えを出会った日から探している』
歌詞の一節が、私の胸を激しく叩いた。
……ああ、そうか。
あの日、早朝の劇場で丸山に出会ったあの朝から。
近藤に勉強を教えたあの日から。
大賀と駅まで歩いたあの夜から。
私はずっと、何のためにこの場所にいるのか、その答えを探していたんだ。
私のしてきた歯車としての仕事も、無意味な反復ではなかったんだ。
毎朝、彼女たちを迎えるために鍵を開けること。
彼女たちがステージで怪我をしないように床を拭くこと。
その反復が、彼女たちの輝きを支える土台になっていた。
彼女たちが何度も繰り返す激しいステップ。
何度も繰り返される「好き」というフレーズ。
無意味だと思っていた毎日の繰り返しが、この瞬間の輝きに繋がっている。
視界が、不意に歪んだ。
頬を熱いものが伝っていく。
拭っても、拭っても、それは次から次へと溢れてきた。
悲しいわけじゃない。ただ、彼女たちの「希望」が眩しくて、愛おしくて。
1年前、死んだような目をしていた自分が、今こうして誰かのために涙を流していることが、何よりも奇跡のように思えた。
公演は大成功に終わった。
ファンのお見送りを終え、楽屋に戻ってきた彼女たちの表情はやりきったという充足感に満ちていた。
「……秋元さん、どうでしたか」
大賀が、震える声でそう言った。
「……お疲れ様、みんな。最高の……本当に、最高の公演だったよ」
私がそう告げると、三人が一斉に私を覗き込んできた。
「……あれ? 秋元さん、もしかして、泣いてました?」
丸山が、嬉々として指を差してくる。
「えー! 秋元さん泣いてたんだ! 嬉しい!感動しましたか?」
「……秋元さんに見届けてもらえて良かったです。私たちの気持ち、ちゃんと届いたんですね」
近藤がはしゃぎ、大賀も涙を拭いながらクスクスと笑った。
「……泣いてないよ。少し目が乾燥しただけ」
「嘘だぁ! 鼻の頭、まだ赤いですよ?」
「いいから、早く着替えて。……風邪を引いたら、また調整が大変なんだから」
ここぞとばかりに丸山が茶化してくるが、私はわざと事務的な口調でしらを切り、彼女たちから背を向けた。
けれど、背後から聞こえてくる「秋元さん、大好きー!」という声に、笑みがこぼれた。
劇場の明かりが消え、静寂が戻った客席。
私は一人、ステージに向かって深く息を吐いた。
明日もまた劇場の鍵を開ける。
彼女たちの夢が終わらないように、同じ毎日を何度も繰り返す。
それでいい。それがいい。
これからも、ずっと。