大都会の有閑喫茶
name chenge
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【#5 ミルキーウェイと普通】
十月。秋の深まりとともに、夕暮れ時の空気はツンと冷たさを帯びるようになっていた。
喫茶『有閑』のカウンターの上には、小さな瓶に入ったはちみつが肩を寄せ合うように並んでいる。
「……マスター。あの、一つ聞いていいですか?」
大学終わりにそのまま出勤してきた瑞葵が、両手に小瓶を持ちながら、呆れ顔で康を問い詰める。
「なんだい、ずっきー」
「このお店に、黄色いくまさんでも雇ったんですか? そうでもなきゃ、この量は説明がつきませんよ」
「ははは。いやぁ、いつもの養蜂家の人がね、瓶のラベルを間違えたからって格安で譲ってくれたんだ。ほら、これから寒くなるし、はちみつは喉にも良いし万能薬みたいなものだからね」
「『格安』って言葉に弱すぎます! 冬が来る前に使い切れるんですか、これ……」
瑞葵がため息をつく中、一番奥の席でいつものように本を開いていた由依が、クスクスと笑いながら口を開いた。
「ええやんか。はちみつは3年くらい持つし、これからの季節、ホットドリンクに重宝するわ。なぁ、マスター?」
「そうだよ。それに、作ってみたいとっておきの一杯もあってね」
ーーーーー
カウベルが軽やかに鳴り、店内に一人の少女が入ってきた。
黒髪ロングで精悍な顔立ち。ロックバンドのTシャツにダメージジーンズ。背中にはギターケースを背負っている。
「あ、カイリちゃん。いらっしゃい」
康が優しく声をかけると、大学一年生の奥本カイリは、ぱっと顔をあげて、人懐こそうな笑みを浮かべた。
背負っていたギターケースを下ろそうとしたが、その動作が少し大きすぎて、手元にあったメニュー立てを倒しそうになり、慌てて押さえる。
「うわ、すみませんっ!」
「あはは、大丈夫だよ。今日は一人なんだね。かわゆいちゃんは一緒じゃないの?」
「はい、かわゆい、就活で忙しいみたいで」
カイリはそう言うと、カウンターの端の席にぽつんと座った。
どこか固く強張った表情を浮かべている。
「カイリちゃん、なにか悩み事?いつもより顔がこわばって見えるけど……」
おしぼりを手渡した瑞葵が心配そうに尋ねた。
「悩み事……うーん……うん、悩んでます。でも、人に聞くことじゃないというか……」
「悩みがあるなら話してごらん。人に話せば意外と自分のなかで整理がついて解決したりするものだよ」
歯切れの悪いカイリに康がそっと助け舟を出す。
「……あの、私、誰と話していても『カイリって本当に変だよね』って言われちゃうんです。
みんなは笑って『個性的でいいじゃん』って言ってくれるけど……私、それがすごく苦しくて。
本当はみんなと同じように『普通』になりたいんです。
同じ話題で笑って、空気も読めて、……自然に馴染めるようになりたいのに」
カイリの告白に、店内がしんと静まり返った。
康は黙って微笑むと、ミルクパンに火をかけた。
温めたミルクに、たっぷりのあのはちみつを溶かし、そこに摘みたての鮮やかなミントの葉を浮かべる。
「はい、どうぞ。特製の『ミルキーウェイ』だ」
「ミルキーウェイ……? あ、ミントが入ってる……」
おずおずとカップに手を伸ばしたカイリは、少し眉をひそめた。
「私、ミントって歯磨き粉みたいでちょっと苦手なんです……スースーするのがどうしてもダメで」
「まあまあ、一口だけ飲んでごらん」
康に促され、カイリは小さな口でそっと一口飲んだ。
その瞬間、彼女の丸い瞳が大きく見開かれた。
「えっ……!? スースーしない……! むしろ、ミントの清涼感のおかげでミルクの独特な臭みが消えてて、はちみつの甘さがすごく引き立ってます……! なんですか、これ、すごく美味しい……!」
「そうだろう?」
康は満足そうに頷いた。
「このドリンクのミントは、自分が主張するためじゃなく、はちみつの甘さという『本質』をくっきりと立たせるために使っているんだ。見た目の爽やかさや第一印象から想像する味とは、全然違うでしょう?」
温かな飲み物で緊張がほぐれたのか、カイリの肩からすっと力が抜けた。
康は、カウンター越しにカイリを穏やかな眼差しで見つめた。
「カイリちゃん。君は『普通』になりたいって言うけれど、そもそも君が思う『普通』ってなんだい?」
「えっ……? それは……世間の多くの人がやっていて、誰からも突飛だと思われないような……平均的なこと……?」
「でも、それってすごく息が詰まりそう……」
それまで黙って話を聞いていた瑞葵が、テーブルを拭く手を止めて会話に加わった。
「私なんて、極度の人見知りで、最初は接客なんて絶対に無理だと思ってた。世間の『普通』に合わせようとしてたら、今でも家の中に引きこもっていたと思うよ。でも、マスターや由依さんが『そのままでいい』って言ってくれたから、今の私があるの」
瑞葵の言葉に、康も深く頷く。
「そうだね。私を見てごらん。サラリーマンでも経営者でもなく、ここで趣味のような喫茶店をやっている。世間から見れば、まともなレールから外れた『変な大人』の極致だよ。
でも、私はこの選択を後悔していないし、ここにいるみんなは、私を『変』とは言わずにただの『マスター』として受け入れてくれている」
奥の席で本を閉じた由依が、静かな声で言葉を繋いだ。
「うちも昔はな、周りと同じ『普通』の幸せになりたくて、必死やった時期があったわ。でもな、無理して周りに合わせたところで、心の中の自分を消すことなんてできへんかった。結局、自分が自分でいられる『居場所』を見つけるしか、息をする方法なんてないんやと思うよ」
「居場所……」
「そうだよ」
康は優しく語りかけた。
「この『ミルキーウェイ』からミントを取り除いてしまったら、それはただの甘いホットミルクになってしまう。美味しくはあるけれど、どこにでもある味だ。
君の『変』な部分は、君という存在を殺す毒じゃない。君だけの魅力を引き立たせるための、かけがえのないスパイスなんだよ。そんな『変』を捨ててただの『普通』になるなんて、なんだかもったいないと思わない?」
康の問いかけに、カイリは自分の手元にあるカップをじっと見つめた。
表面に浮かぶきめ細やかな泡と、ほのかに香るミントの香り。
自分が「変だ」と恐れていた個性は、本当は自分を輝かせるための大切なピースだったのかもしれない――そう気づいたように、カイリの顔にぱっと晴れやかな笑顔が咲いた。
「……そうですね。私、変なままでも良いのかもしれません。この味みたいに、私だけの場所を作っていけば良いんだって、なんだか心が軽くなりました!」
本来のお転婆で賑やかな調子を取り戻したカイリは、最後の一滴までミルキーウェイを飲み干すと、満足そうに息をついた。
そして、ふと思い出したように康と由依を交互に見比べる。
「あ、そういえば! 私、かわゆいと話してたんですけど……」
「ん?」
「お二人、普通にごきょうだいだと思ってたんですけど、違うんですか?」
ぽろりと、何の気負いもなく放たれたカイリの一言。
その瞬間、店内の空気がピタリと止まった。
「……え?」
康の手にあったグラスを拭くクロスが止まる。
瑞葵も「えっ、きょうだい!?」と目を丸くして固まった。
カイリは首を傾げながら、無邪気に言葉を続ける。
「だって、雰囲気もそうですし……背負ってきた重いものを捨てて『自分の居場所』を大事にしてる芯の強さとか、そっくりじゃないですか。それに、何よりお二人とも、お互いを見る目が家族そのものっていうか……だから、私はてっきり」
康は息を呑み、ゆっくりと奥の席に視線を向けた。
由依の手が微かに震えていた。彼女は静かに胸元から、一枚の古びた写真を差し出す。
康は吸い寄せられるようにその写真を受け取った。
そこに写っていたのは、幼い少女と、その手を優しく握る幼少期の康自身の姿だった。
背景には、康がもっている写真と同じ庭が映っている。
「……由依さん。君が探していたのは……」
京都の会社を辞め、手元に残された一枚の写真だけを頼りに東京へ出てきた由依。
そして、家督を捨て、この街で小さな喫茶店を開きながら、心のどこかで生き別れた妹の幸せを祈り続けていた康。
探していた運命の人は、どこか遠くの世界ではなく、この5年間、毎日静かにコーヒーを飲んでいた常連客だったのだ。
康はこみ上げてくる熱いものを必死に抑え、感極まったように、けれどどこか晴れやかに微笑んだ。
「これは……灯台下暗し、だね」
「ほんまやね……っ。ほんまに……アホみたいや……こんなに近くにおったなんて……」
由依は口元を抑え、泣き笑いのような声を漏らしながら千歳を見つめた。
年に一度、七夕の夜にだけ天の川を渡って巡り会う織姫と彦星の物語がある。
けれど、二人の隔たりは一年に一度の夜どころではなかった。互いの存在すら見失い、果てしない時の海をただ彷徨い続けてきたのだ。
京都から東京へ、ただ一枚の写真を頼りに探し歩いた由依。
過去を捨て、この小さな店で妹の幸せを密かに祈り続けていた康。
二人の間を隔てていた広大な天の川は、夜空の彼方ではなく、このカウンター越しにあったのだ。
5年もの間、一杯のコーヒーを挟んで言葉を交わしながら、二人はずっと天の川の対岸からお互いを見つめ合っていたことになる。
「長い遠回りをしてしまったけれど……ようやく、逢えたね」
「……うん。やっと、逢えたわ」
康が静かに差し出した手に、由依の手が重なる。
それは、果てしない星の海を渡りきって、ようやく結ばれた奇跡の瞬間のようだった。
「それにしても、カイリちゃんお手柄だね。いつから気づいてたの」
カイリが飲み干したグラスを洗いながら、瑞葵が不思議そうに尋ねた。
「え、普通にかわゆいと初めてこのお店に来たときから……」
「え?!私、全然気づかなかった……」
カイリよりも長い時間を二人と共にしたはずの瑞葵は自分の察しの悪さに肩を落とす。
「それを言ったら私たちなんて5年間毎日顔を合わせてたのに、全然気づかなかったよ」
見かねた康と由依が瑞葵をフォローするように言葉を続けた。
「ほんまやな。……まあでも、マスターは会社をやめて喫茶店、うちは京都の会社をやめて上京、なんて変な道を歩いたから巡り会えたんやろうな」
「はは、そうだね。『普通』の人生を歩んでいたら、一生会えなかったかも」
窓の外は徐々に暗くなり、街が夜に変わっていく。
―――ここは喫茶『有閑』。都会の喧騒から離れた場所で心落ち着く一杯とほんの少しの「答え」を差し出す場所。
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