大都会の有閑喫茶
name chenge
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
【閑話 ベッドチェンバーと人見知り】
7月の終わり、西日がアスファルトを照らし道行く人の影を長く伸ばしている。
カウベルがいつもより力なく鳴った。
現れたのは常連の由依……ではなく、テスト期間でバイトを休んでいるはずの瑞葵だった。
「……マスター。お疲れ様です」
瑞葵の声は心なしか掠れている。
いつものきっちりとした服装ではなく、大きめのスウェットにリュックを背負ったラフな姿。
眼鏡の奥の瞳には隠しきれない隈が居座り、メイクも最低限だ。
「いらっしゃい、ずっきー。お疲れの様子だね」
「やっとテストが半分終わったんです……。あとはテスト3つとレポート2つ……。
これから家で追い込みかけるので、気合が入るような、とびきり濃いめのコーヒーをください」
カウンターに力なく座り、重たそうなリュックを下ろす瑞葵。
康はその手元と、彼女の白くなりかけた唇を静かに見つめた。
「なにか摘めるものも出そうか?」
「…大丈夫です。食べると眠くなっちゃうので…」
(……これは、相当根を詰めてるな)
康は「はいはい」と短く答えると、コーヒー豆のミルではなく、ミルクパンを火にかけた。
やがて瑞葵の前に置かれたのは、小さなカップに入った漆黒の液体……ではなく、ぽってりとしたマグカップにたっぷり注がれた、乳白色の飲み物だった。
「さあ、どうぞ。特製のベッドチェンバーだ」
「あの……マスター? 私、コーヒー頼んだんですけど」
「まあいいから、一口飲んでみなよ。」
瑞葵は怪訝そうな顔をしながらも、温かな湯気に誘われて口をつけた。
温かいミルクの中に、蜂蜜の濃厚な甘さと、シナモンのエキゾチックな香りがふわりと広がる。
胃の腑に落ちた瞬間、指先の強張りが嘘のように解けていった。
「……あ、甘い……。すごく、美味しいです……」
「お腹が空いてる時に強いカフェインは毒だよ。少し脳を休ませてあげなよ」
康の穏やかな声は、まるで子守唄のように瑞葵の耳に届く。
一口、また一口と飲み進めるうちに、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
瑞葵の瞼がゆっくりと重くなっていく。
「……ちょっとだけ……十五分だけ、寝ますね……」
そう呟くのが精一杯だった。瑞葵は腕を枕にして、カウンターに突っ伏した。
静かな寝息が店内に響き始める。
康はカウンターを出ると、入口の札を『OPEN』から『CLOSED』へと静かに裏返した。
まだ閉店時間には早いが、今は彼女の眠りを邪魔する音を一つでも減らしたかった。
「ずっきーは、本当によく頑張ってるよ」
康は奥から持ってきた柔らかなブランケットを、彼女の細い肩にそっと掛けた。
子供をあやすように、その頭を優しく撫でる。
撫でられた瑞葵が、夢の中で安心したように小さく吐息をついた。
その幼い寝顔を見ていると、康の記憶は、春先のあの雨の日へと遡っていく。
今よりもずっと泣きそうだった、一人の少女との出会いに。
ーーー――
三月の終わり。
春一番にしては冷たすぎる風が吹き荒れ、季節外れの夕立が街を白く煙らせていた日のことだ。
その少女――瑞葵は、ずぶ濡れで店の軒下に立ち尽くしていた。
折り畳み傘すら持たず、肩を震わせている姿があまりに危うくて、私は思わずドアを開けた。
「雨が止むまで、中で休んでいきませんか?」
それが、私と彼女の始まりだった。
店内に招き入れた彼女は、隅の席で小さく丸まっていた。
大学一年生が終わろうとしている時期だというのに、彼女が纏っている空気は、迷子になった子供のように心細げだった。
「……あ、あの。すみません、何も注文できなくて……」
「いいんですよ。雨宿り代わりの一杯です。サービスさせてください」
私は、芯まで冷え切った彼女のために、蜂蜜をたっぷり溶かしたホットミルクを淹れた。
それと、ちょうどその日の朝、スーパーで安売りのチョコを見つけて買いしてしまったので、試作を兼ねて焼き上げたばかりのチョコスコーンを添えた。
「これ、よかったら。チョコを大量に買いすぎちゃって、消費するのに困っていたんです」
瑞葵はおずおずとスコーンを口に運んだ。
ザクッとした食感のあと、濃厚なチョコの甘さが広がったのだろう。
彼女の強張っていた肩が、ふっと頼りなく落ちた。
「……美味しい。……すごく、温かいです」
ぽつり、ぽつりと、彼女は話し始めた。
本当は、大学に入ったらバイトを始めて、新しい自分になりたかったこと。
けれど、極度の人見知りで、求人誌を眺めては電話をかける勇気が出ず、気づけば一年が終わろうとしていること。
「私……どこに行っても、上手くやれる自信がないんです」
俯く彼女の横顔を見て、私は直感的に思った。
この子は、丁寧に言葉を扱う子だ。ただ、その言葉を外に出すのが少しだけ人より怖いだけなのだ。
「なら、うちで働いてみませんか? ちょうど一人、店員が必要だと思っていたところなんです」
それは、半分は嘘で、半分は真実だった。
私は彼女に、この静かな場所で「言葉を外に出す練習」をしてほしかったのだ。
働き始めたばかりのずっきーは、見ていてハラハラするほどだった。
初めてのお客様が来たとき、彼女はメニューを握りしめたままフリーズしてしまった。
「い、いらっしゃいませ」と言うだけで顔は真っ赤になり、震える手で取ったオーダーは、文字が小さすぎて私にも読めなかった。
「……すみません、私、やっぱり向いてないです……」
何度もそう言って落ち込む彼女に、私は「失敗してもいいから、お客様の目を見てごらん」とだけ言い続けた。
ずっきーは真面目だった。逃げ出さず、少しずつ、少しずつ。
一ヶ月後にはメニューの説明ができるようになり、三ヶ月後にはお客様の忘れ物に気づいて表まで追いかけていけるようになった。
そして先週は、私の目の前で、彼女は一人の悩める女性に「それは優しさだ」と胸を張って言えるまでになったのだ。
カウンターで眠るずっきーの頭を、もう一度だけ、そっと撫でる。
あの日、震えながらスコーンを食べていた少女は、今やこの店になくてはならない、頼もしい相棒だ。
もしあの日、雨が降っていなければ。私がドアを開けなければ。
この場所は、今よりもずっと静かで、寂しい場所だったろう。
「……マスター……」
ずっきーが寝言で小さく呟く。
私は微笑み、彼女が風邪を引かないように、ブランケットの端を整えた。
ーーーーー
コト、と小さく陶器が触れ合う音が微かに響いた。
その規則正しいリズムに誘われるように、瑞葵はゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……あ……」
視界に入ってきたのは、使い込まれたカウンターの木目と、自分の腕。
そして、肩に掛かっている見覚えのある柔らかなブランケットだった。
顔を上げると、窓の外はすっかり帳が下り、街灯がアスファルトを濡れたように照らしている。
「あ、あれ……マスター、今、何時ですか!?」
「おはよう、ずっきー。一時間くらいかな。スッキリした?」
康は洗い物を終えた手を拭きながら、いつもの穏やかな調子で問いかけた。
「一時間も!? すみません、カウンターで寝ちゃうなんて……」
慌てて背筋を伸ばし、顔を赤らめる瑞葵。
しかし、不思議なことに気づいた。
朝から頭に霞がかかったように居座っていた、あの嫌な重い頭痛が、綺麗さっぱり消えている。
「いーのいーの。私が寝かせたようなものだしね。
それに、もうお店は閉めちゃったから、誰にも迷惑はかかってないよ」
「えっ、私のために店を……」
「さ、片付けなきゃ。飲み物、どうだった?」
「……すごく、美味しかったです。身体の芯まで解けるみたいで。ごちそうさまでした」
瑞葵はリュックを背負い、財布を取り出したが、康が優しく首を振る。
でも…と譲らない瑞葵に康がじゃあ代わりに、とカウンターから何かを取り出した。
「これ、持って行って」
手渡されたのは、小さな紙袋。中には個包装された緑茶のティーバッグと、ずっしりと重みのあるマフィンが入っていた。
「……これは?」
「由依さんがずっきーにって。緑茶のカフェインは、コーヒーよりも優しく眠気を覚ましてくれるから、勉強のお供にいいよってさ。あと、マフィンはお土産」
「由依さんが……。ありがとうございます。
なんだか、お二人には甘えてばかりですね」
千歳と由依。血は繋がっていないはずなのに、どこか似ている二人の静かな優しさが、瑞葵の胸にじんわりと染み込んでいく。
ふと、瑞葵は袋の中から漂う甘い香りに鼻をひくつかせた。
「マスター、このマフィン……チョコがこれでもかってくらい入ってますけど。まさか、また……」
「……おや、ばれた?」
千歳は悪びれる様子もなく、いたずらっ子のように肩をすくめた。
「もう、マスター! 安売りしてたからって、買いすぎです!」
「ははは。でも、脳に糖分は必要でしょう?」
店に来た時の、あの消え入りそうだった表情はもうどこにもない。
瑞葵は弾けるような笑顔で、しっかりと千歳の目を見て頷いた。
「はい! 頑張ってきます! マスター、ありがとうございました」
「気をつけて帰るんだよ」
「はーい!」
カウベルの軽やかな音が、夜の街に溶けていく。
遠ざかる瑞葵の足取りは、あの日、震える足で店を出ていった時とは比べものにならないほど、力強く、真っ直ぐだった。