大都会の有閑喫茶
name chenge
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【#3 ウィンナ・コーヒーと本音】
梅雨明けが間近い六月末の午後。
喫茶『有閑』の窓の外は、湿度を含んだ重い空気が揺れている。
カウンターの上には、小粒ながらも色の濃いブルーベリーのパックが、ピラミッドのように積み上がっていた。
「マスター……。もう、何も言いませんけど、冷蔵庫が悲鳴を上げてますよ」
瑞葵が、パンパンに詰まったブルーベリーのパックを一つずつ冷蔵庫へ押し込みながら、呆れたように言った。
以前なら康の買いすぎる癖にいちいち驚いていたが、もうすっかり慣れたらしい。
「いやぁ、近所の農家さんがね、形が不揃いだからって、信じられないような値段で売ってくれたんだ。
一粒食べてみたら、驚くほど味が濃くて。つい買いすぎちゃった」
「買い過ぎにも程がありますよ…」
瑞葵の厳しい目線に康は苦笑いしながら、ブルーベリーを大鍋に入れ、きび砂糖でゆっくりと煮詰め始める。
「ええやんか。このジメッとした空気の中で、この深い藍色は目が覚めるようや」
一番奥の席で文庫本を開いていた由依が、顔を上げずに呟いた。
「マスター、その子らはどんな風に化けるん?」
「素材がこれだけ力強いからね。見た目はあざといくらいに可愛くして、中身はキリッと硬派に仕上げてみようかな」
「インスタ映えってことですか?」
「まあそんなかんじかな。でもちゃんと美味しく仕上げるよ」
ーーーーー
カウベルが、弾けるような軽快な音を鳴らした。
「わあ、素敵なお店! すみませーん、一人なんですけど大丈夫ですか?」
入ってきたのは小柄な女性だった。
学生かと思ったが、オフィスカジュアルな服装と資料やパソコンで重そうなバッグからして社会人のようだ。
彼女が店に足を踏み入れた瞬間、店内の空気が一気に華やぐ。
「はい! いらっしゃいませ、 こちらの席へどうぞ」
瑞葵が明るい声で迎える。彼女は席に座るなり、身を乗り出して瑞葵の顔を覗き込んだ。
「えっ、お姉さんお肌ツヤツヤ! 何か特別なケアしてるんですか?
あ、お姉さんのおすすめってあります? 私、今日すっごく疲れてて、元気が出るやつがいいです!」
「え、あ、えっと……」
あまりの距離の近さと質問の勢いに瑞葵は面を食らう。
以前ならここで赤面して沈黙し康が助け舟を出していたところだが、今日は少し違うようだ。
「ありがとうございます! お肌は……マスターの淹れる美味しいコーヒーのおかげかもしれません。
元気が出るものなら、ちょうど今、マスターがとびきり映える新作のコーヒーを作ったところですよ。飲んでみますか?」
「えっ、映えコーヒー!? 気になる! それにします!」
瑞葵がカウンターに戻ると康と由依が微笑んでいた。
「ど、どうしたんですか、マスターも由依さんもニコニコして…」
「いやぁ、ずっきー成長したなぁとしみじみしてたんだよ」
「せやな。前なら赤面してたじたじになってたもんなぁ」
「褒められてるんですか…?」
「そりゃもう」
そんな会話をしながらも康は仕込んでおいたブルーベリーシロップを使い鮮やかな手つきでドリンクを作る。
「さ、どうぞ」
康が差し出したのは、藍色の層のウィンナ・コーヒー。
底には濃厚なブルーベリーシロップの藍色、その上に漆黒の水出しコーヒー、そして最上部には真っ白なホイップクリーム。
完璧な三層構造に、小さなブルーベリーの実がちょこんと乗っている。
「きゃー! 可愛い!めっちゃ映えです!!」
彼女はオーバーリアクションで喜び、写真を数枚撮った後、思い切りストローを吸った。
「……んっ、苦い! でも、美味しい!」
見た目の可愛らしさに反して、中身は康が淹れた本格的な深煎りコーヒー。
シロップの酸味が、コーヒーの苦味をより一層引き立てる、大人の味だった。
「……ふぅ。生き返る……」
一口飲むと、彼女の纏っていたキラキラした空気が、少しだけ落ち着いたものに変わった。
「お客様、お仕事帰りですか?」
瑞葵が少し慣れてきて尋ねると、彼女はまたキラキラした笑顔で答える。
「そうなんですよぉ!今日は外回りで一日ヒールで歩き回ったから足パンパンで最悪です~!
あ、でも直帰できるのでそれは嬉しいんですけどねっ。
こっちの方に来るのは初めてだったからカフェとかないかな~と思って歩いてたらたまたま見つけて!」
「あ、ありがとうございます」
彼女の勢いに気圧されながらも瑞葵は応対を続ける。
「そういえば”ずっきー”ってお姉さんのあだ名?ですか?」
「あ、はい、そうです。名前が瑞葵なのでずっきーです」
「へぇー可愛い!私もずっきーって呼んでいいですか?
あ、じゃあ私は名前が藍衣なので”めいめい”って呼んでください!」
「わ、わかりました。……じゃあ、めいめいさん」
「えへへ」
「な、なんでめいめいさんが照れるんですか」
藍衣のペースに巻き込まれながらも、なんとかついていく瑞葵の様子に、千歳と由依は顔を見合わせて微笑んでいた。
「それにしてもこれブルーベリーとコーヒーって全然違う性格なのに、混ぜるとお互いを引き立て合ってる感じがします。すごい、天才!」
「ふふ、ありがとうございます。……でも、めいめいさんもすごいですよ」
「えっ、私が?」
瑞葵は、カウンターを拭く手を止めて藍衣を見た。
以前なら視線を逸らしていたかもしれないが、今はしっかりと彼女を見つめている。
「だって、お店に入ってこられてからずっと、太陽みたいに明るいじゃないですか。
……正直、ちょっと圧倒されちゃいましたけど、それだけ元気でいるのって、すごく体力がいることなんじゃないかなって思って」
瑞葵の真っ直ぐな言葉に、藍衣は「あはは」と声を上げて笑った。
けれど、その笑い声は先ほどよりも少しだけボリュームが落ち、穏やかなものに変わっていく。
「……体力、かぁ。そうかも。私、止まると死んじゃうマグロタイプなんです。
でもね、これでも一応、考えてやってるんですよ?」
藍衣はグラスの中、コーヒーの黒とシロップの藍色が混ざり合っていく様子をじっと見つめた。
「この飲み物みたいに、最初は『わあ、可愛い!』って思ってもらわないと、そもそも私の話、聞いてもらえないんですよね」
「……お仕事で、何かあったんですか?」
瑞葵が手を止めて静かに問いかけた。その穏やかな声が、店内の湿度を少しだけ下げたような気がした。
「……今日、会社で先輩たちが話してるのを聞いちゃったんです。『花田って、あざといよね』って。
上司を丸め込むのが上手いとか、先輩に甘えて仕事教えてもらうのが計算高いとか……そういう意味で」
藍衣は、厚いホイップの層をストローの先で少しだけ突いた。
「でも、そうしないと、新人の私の意見なんて一つも通せないんです。
パワハラ部長を笑顔で交わして、お局様の機嫌を先回りして取って……。
私にとっては、これってただの最適解なんです。そうやって武装して、ようやく戦える場所に行ける。
……でも、あざといことって、そんなに悪いことなのかな。私、ずるいことしてるのかなって、ふと思っちゃって」
瑞葵は、藍衣の少しだけ震える指先を見た。彼女の明るさが社会で戦うための武器であると知り、自分の胸も少しだけ苦しくなる。
「……私は」
瑞葵は、自分の言葉を探すように、ゆっくりと口を開いた。
「私は、めいめいさんのさっきの『可愛い!』っていう声を聞いて、一瞬で心が明るくなりました。それがたとえ計算だったとしても、誰かを明るくする計算なら、それはもう、優しさなんじゃないでしょうか。
……このドリンクも、マスターが私たちの目を楽しませようとして作った計算の結果です。それと同じだと思います」
瑞葵の真っ直ぐな言葉に、藍衣が息を呑む。カウンターの端で、由依が静かに口を開いた。
「藍衣ちゃん。それはあざといんと違う。しなやかな知性やわ」
「……しなやかな、知性?」
「そう。藍衣ちゃんは、自分の置かれた場所をよう見て、どう動けば自分が守れるか、仕事が回るかを考え抜いてる。それは立派なおもてなしや。
相手を喜ばせるために自分を演出するのは、誰にでもできることやない。
……このコーヒーと同じ。見た目を綺麗に整えるのは、中にある苦い本質を、美味しく届けるための気高さや」
藍衣の瞳に、じわりと涙が浮かんだ。
「……私、戦ってたんだ。ズルじゃなくて、私なりの戦い方だったんだ」
最後の一口を飲み干した藍衣は、再び弾けるような笑顔を見せた。
「ありがとうございます! 私、明日もこの知性で、戦ってきますね!」
「応援してます! またお話、聞かせてください」
元気よく店を出ていく藍衣を見送り、瑞葵はふぅ、と長く息を吐いた。
「……マスター、私、ちゃんと答えられてましたか?」
「百点満点だよ、ずっきー。私よりずっと、彼女の心に届いてた」
康が優しく笑う。
「…しなやかな知性っていい表現ですね。由依さんもそうだったんですか?」
瑞葵がふいに尋ねると、由依は一瞬、驚いたように目を見開いた。
「……どうやろね。今思えばしなやかではなかったかもな」
由依は窓の外、夕闇に染まり始めた街をじっと見つめている。
康は自分の過去を思い返していた。
会社を辞める決断は曲げられない我儘だった。しなやかな知性があればもっと別の選択ができたのかもしれない。
「ほな、帰るわ。ごちそうさん。ずっきーも気をつけて帰りや」
「はい!ありがとうございます」
「由依さん、また明日」