短編
name chenge
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深夜0時。静まり返った部屋に、鋭いインターホンの音が鳴り響いた。
モニターを見るまでもない。この時間に予告なく私の部屋を訪れる人間なんて、世界にたった一人しかいないのだから。
【わがままな猫】
ドアを開けると、案の定、そこには肩をすくめた平田侑希が立っていた。
濡れた夜の空気を纏った彼女は、私と目が合った瞬間、あからさまに不機嫌そうな顔をして唇を尖らせる。
「……何、その顔。迷惑だった?」
「まさか。おいで、ゆきちゃん」
私が一歩下がって室内を指し示すと、ゆきちゃんは小さく鼻を鳴らして、乱暴に靴を脱ぎ捨てた。
彼女はまるで、雨の日にだけすり寄ってくるわがままな猫のようだ。
リビングのソファに深く腰掛けたゆきちゃんは、膝を抱えて視線を床に落としたまま。
声をかけるタイミングを計りながら、私はキッチンへ向かう。
大きめのマグカップにミルクを注ぎ、電子レンジのボタンを押した。
「また、喧嘩したの?」
尋ねると、ゆきちゃんはあからさまに「フン」とそっぽを向いた。
「……あっちが悪いんだもん。私のこと全然分かってくれないし、連絡も遅いし。もう知らない」
「そっか。大変だったね」
「康はいつもそうやって他人事みたいに言う。もっと怒ってよ」
「私が怒る理由がないよ」
ちん、と電子レンジが鳴る。
温まったミルクに蜂蜜を少しだけ溶かし、ソファの前のローテーブルに置いた。
ゆきちゃんは私のスウェットの袖口をじっと見つめた後、またすぐに視線を外した。
甘えたいのに、意地っ張り。
自分から押しかけてきたくせに、素直に「寂しかった」と言えないのが、彼女の可愛いところで、そしてずるいところだ。
「これ、飲んで。少しは落ち着くから」
「……ありがと」
俯いたまま、ゆきちゃんが小さな手でマグカップを包み込む。
私は彼女の少し離れた場所に腰を下ろし、ただ黙ってその横顔を見つめていた。
綺麗なロングヘアの隙間から覗く耳が、寒さのせいか、それとも気恥ずかしさのせいか、ほんのり赤い。
ゆきちゃんは恋人と上手くいかなくなると、いつもこうして私の部屋にやってくる。
私の役目は、彼女のご機嫌を取り、傷ついたプライドを優しく撫でてあげることだ。
『都合のいい奴だと思われてるよ』
いつだったか、友人に言われた言葉が脳裏をよぎる。
分かっている。そんなことは、自分が一番よく知っている。
それでも、こうして頼りにされているという事実が、私の胸をどうしようもなく満たしてしまうのだ。
「康」
不意に名前を呼ばれて顔を上げると、ゆきちゃんがじっと私を見ていた。
いつもは強気なその瞳が、今は驚くほど脆く、寂しそうに揺れている。
「……何?」
「ううん。なんでもない」
ゆきちゃんは慌てて目を逸らし、ミルクを一口 啜った。
時々、彼女はそうやって遠くから私を見る。
まるで、私の境界線の内側に入り込みたいような、けれどこれ以上近づくのを恐れているような、そんな曖昧な視線。
愛は、どれくらい許せるか。
その問いの答えを、私はもう知っている。
彼女が私をどんなに振り回しても、私はそれを全部「しょうがない」の一言で片付けてしまうだろう。君が好きだから。
ただそれだけのために、私は自分のプライドなんて、とっくにゴミ箱に捨ててしまった。
「今日、ここに泊まってもいい?」
「いいよ。ゆきちゃんのベッドはいつでも空いてる」
「私のベッドじゃないでしょ、康の部屋なんだから」
少しだけ口元を緩めたゆきちゃんを見て、私はホッと胸を撫で下ろす。
それから、彼女が眠くなるまで、他愛のない話を続けた。
好きな音楽のこと、最近美味しかったお店のこと。
恋人の話題には、お互いに一度も触れなかった。
それが、私たちの暗黙のルールだった。
翌朝。
カーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込む頃、2人分の朝食を準備していると、ゆきちゃんが目を覚ました。
「ん……いい匂い」
「おはよう、ゆきちゃん。顔洗っておいで」
寝癖のついた髪を気にする風でもなく、ゆきちゃんはあくびをしながら洗面所へ向かう。
昨夜の刺々しい雰囲気は綺麗に消え去り、すっかりいつもの彼女に戻っていた。
朝食を並べ終えた頃、リビングにスマートフォンのバイブレーションが響く。
ローテーブルの上で震える画面には、彼女の恋人の名前が表示されていた。
ゆきちゃんは一瞬、私に気まずそうな視線を向けたが、私が微笑んで頷くと、嬉しそうに端末を手に取った。
「もしもし?……うん。私もごめん。……ううん、友達の家に泊まってた。今から帰るね」
通話を切ったゆきちゃんの顔は、もう完全に恋をする女の子の表情だった。
私の前で見せる、子供のようなわがままな顔ではない。
「康、ご飯ごちそうさま。急いで帰らなきゃ」
「うん。忘れ物しないようにね」
甲斐甲斐しく上着を着せ、荷物をまとめるのを手伝う。
ゆきちゃんは玄関で靴を履くと、振り返って私に最高の笑顔を向けた。
「いつも急に来てごめんね。ありがと康、大好き!」
「はいはい。私も大好きだよ。気をつけてね」
パタン、と静かにドアが閉まる。
一瞬で静まり返った部屋の中で、私は一人、残された二つのマグカップを見つめた。
彼女はまた、恋人と笑い合い、傷つき、そしていつかまた私の元へやってくるだろう。
「……ずっと待ってるよ」
誰にも届かない声は、朝の光の中に静かに溶けて消えた。