短編
name chenge
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【青春のど真ん中で】
キィ、とシューズが床を擦る音が、誰もいないレッスン場に寂しく反響していた。
時計の針はとうに24時を回っている。
全体コンサートのレッスン期間中、昼間の熱気がまだ残るこの空間に、私は忘れてしまったステップを確認するために戻ってきた。
だけど、先客がいた。
大きな鏡の前、汗を滲ませて黙々と身体を動かしている背中がある。
すっきりとしたラインの練習着。
少し長めの髪をラフにヘアバンドで上げ、前髪から滴る汗を拭いもせず、ただひたすらに踊っている。
「……康?」
私の声に、その背中がピクリと跳ねた。
振り返った康は、私を見るとすぐにいつもの朗らかな笑みを浮かべ、首にかけたタオルで顔を拭った。
「あ、せいちゃん。どうしたの、こんな時間に」
「ちょっと、明日振入れする曲が不安で予習しに。康こそ、ずっと残ってたの?」
「うん。今日振入れした曲、忘れないように復習してた。先輩だからね、私たちがちゃんとしないと」
康は少しおどけるように言って、私にボトルを差し出してくれた。
私と康は同期だ。15期生。
だけど、年齢は康の方が少し上で、いつもどこか一歩引いたところから私たちを見守ってくれるような、落ち着いた空気を持っている。
4月に美音が卒業して、気づけば15期生は私たち2人だけになった。
かつてはたくさんいた同期も、みんなそれぞれの道へ進んでいった。
美音が卒業した後、次は私かな、なんて康は言っていたけど、その未来はまだ来て欲しくない。
「本当にそうだよね」
私は康と並んで鏡に向き合い、ゆっくりとステップを踏み出しながら言った。
「美音がいた頃は、どこか甘えてた部分もあったかもしれない。でも、これからは私たちでAKB48を支えていかなきゃいけないんだよね。」
鏡に映る自分の目は、我ながら熱を帯びているのが分かった。
AKB48が大好きだから。この場所を、もっと素敵な場所にしていきたいから。
「康と一緒なら、どんな変化も怖くないよ。これからも2人で、頑張ろうね」
前を向いたまま、隣の康に微笑みかける。
あえて「これからも」という言葉を強調した理由を康は汲み取ってくれただろうか。
だが、康はステップを止め、鏡越しに私をじっと見つめていた。
その目は、まるで壊れやすい宝物を愛おしむような、ひどく優しくて、どこか切ない目だった。
理屈じゃ説明できない、胸の奥がキュッと締め付けられるような予感が、私の動きを止めさせた。
「せいちゃん」
康は静かに、だけど遮る余地のないトーンで言葉を紡いだ。
「私ね、このコンサートで卒業するんだ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
心臓がドクンと大きく跳ねて、喉の奥まで「嫌だ」「行かないで」「まだ一緒にステージに立とうよ」という、感情が押し寄せてくる。
掴みかかってでも引き止めたい、そんな激しい感情が渦巻いた。
だけど、康の真っ直ぐな、一点の曇りもない瞳を見た瞬間、その感情はすっと形を変えた。
康がどれだけこのグループを愛し、どれだけ悩み、そしてこの決断に至ったか。
言葉にしなくても、重ねてきた年月が教えてくれる。
私は深く息を吸い込み、握りしめた掌をそっと解いた。
「……そっか。そっかぁ。決めてたんだね」
声が少し震えてしまうのを隠せなかったけれど、私は康の選択を、真っ直ぐに受け止めるために微笑んだ。
「驚かせちゃってごめんね」
康は壁に背を預けて座り込み、ふう、と息を吐いた。
私もその隣に、肩が触れ合うくらいの距離で座る。
「でも、15期の最後に残るのが、私たち2人になるなんてね。オーディションの時は思いもしなかった」
「本当だよね。私も康も居残り組だったし、もっと早く辞めるかもって思ってた」
「ふふ、居残り組は今もじゃない?」
小さく笑い合う。この空気感が、たまらなく愛おしい。
「私ね」と、康は天井のライトを見上げながら呟いた。
「ここで過ごした時間は、間違いなく私の青春だったよ。つらいことも、理屈じゃ通らないこともたくさんあった。
でもね、ステージから見る景色も、こうしてみんなと汗を流した時間も、そのすべてが愛おしくて、美しかった。
私は、AKB48になれて本当によかったよ」
そう語る康の横顔は、スポットライトを浴びているとき以上に眩しく、輝いて見えた。
そのしなやかで凛とした佇まいが、今の康の生き方そのものを表している気がした。
今度は、私の番だった。
私は康の横顔を、じっと見つめた。
溢れんばかりの感謝と、これからの未来への祝福を込めて。
「康がいてくれたから、私はここまで走ってこれたんだよ。ありがとう」
康が私を見て、少し照れくさそうに、だけど嬉しそうに目を細めた。
すべてが愛おしく、すべてが美しい日々。
私たちの青春は、まだ終わらない。
このコンサートの最後の瞬間まで、最高の光を放ち続けるんだ。
「よし、じゃあ最後のコンサート、世界で一番最高のステージにしよう。今日は2人とも納得できるまで帰れないからね?」
私が立ち上がって手を差し伸べると、康はその手をしっかりと握り返し、軽やかに立ち上がった。
夜のレッスン場。2人の足音が、再び力強く響き始めた。