短編
name chenge
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秋葉原のビルの上、使い込まれたレッスンシューズが床を叩く音だけが響いている。
休憩時間、手渡された新公演のセットリスト。
その中に並ぶ一曲のタイトルに、私の視線は釘付けになった。
【シクラメンが咲く頃】
「……シクラメン」
無意識にその花の名をなぞる。
指先から、記憶の箱の鍵が外れる音がした。
13年前。まだ私たちが、何者でもなかった頃。
冬の冷たい空気の中で、私の隣からふっといなくなった、あの子のことを思い出す。
秋元康。
13期として共に加入した同期。
負けず嫌いで、常に誰かと競い合っていた当時の私たちの中で、康だけはいつも、冬の陽だまりのような空気を纏っていた。
「さっほー、根詰めすぎ。ほら、深呼吸」
そう言って、康はよく私の肩を叩いた。
その手の温もりが、どれほど私の凍えそうな心を救ってくれたか、あの子は知らないだろう。
康が卒業を決めたのは、ある雪の降りそうな冬の日だった。
引き止める言葉は、喉の奥に仕舞い込んだ。
あの子が選んだ道を、笑顔で見送るのが同期としての正解だと信じていたから。
でも、本当は。
去りゆく背中を抱きしめて、「行かないで」と叫びたかった。
――私はあの時、一生分の「好き」を使い切ってしまったんだと思う。
その自覚があるから、今の私には誰かを特別に想う余裕なんて残っていない。
私の気持ちは、あの日康が劇場から去ると同時に、心の奥底にしまい込んでしまった。
ーーーーー
それからさらに1年が過ぎた。
日本武道館という大きなステージ。
20周年コンサートの熱気の中で、久々に顔を合わせた13期のメンバーと、楽屋の隅で輪になった。
「そういえば、康はどうしてるかな」
誰かが不意に口にした名前に、心臓が跳ねる。
「全然。卒業してから一度も連絡取ってないよ」
「SNSもやってないしね。あの子らしいっていうか……」
誰も、今の康を知らない。
あの子は、自分が必要とされた場所から一歩外へ出れば、跡形もなく消えてしまえる潔さを持っている。
私たちが必死にしがみついているこのスポットライトの世界を、あの子は最初から、ただの通過点として眺めていたのかもしれない。
私は、手元にあるペットボトルを見つめた。
冷たい水滴が、涙のように指を伝う。
もう、二度と会えないんだろうな。
私たちは大人になり、あの子はどこか知らない街で、誰にも知られない名前の幸せを掴んでいる。
それでいい。それがいい。
そう自分に言い聞かせながら、私はステージへと向かった。
胸の奥にある、使い切ったはずの好きという気持ちが、シクラメンの花びらのように赤く疼いていた。
ーーーーー
20周年イヤーも終わり、また新しいAKBの1年が始まる。
劇場公演。定員250人の、私にとっての聖域。
オーバーチュアが鳴り響き、ステージのセンターに立つ。
照明の向こう側、暗がりに沈む客席の顔ぶれを、私はいつものように一人ひとり確認する。
その時だった。
上手側の後方。柱の影に、視線が止まった。
一瞬、心臓の鼓動が耳元で鳴った。
そこに座っていた人物は、微動だにせず私を見つめていた。
(……え?)
その面影に、見覚えがあった。
けれど、私が知っているのは13年前の、まだあどけなさが残る10代の姿だ。
客席にいるその人は、どこか世俗を離れたような静けさを纏っていた。
何より、13年も経って、あの子が今さら劇場に来るはずがない。
(気のせい。似ているだけ)
自分を律して、私は歌い続ける。
けれど、激しいダンスの中でも、その人物の視線だけは、一本の細い糸のように私と繋がっている気がしてならなかった。
ーーーーー
公演後の2ショット写真会。
ファンの皆さんと束の間の会話を楽しむ時間は、私にとって大切なひと時だ。
けれど、今日の私はどこか上の空だった。
あの客席の人物が気になって、指先が少し震えている。
「次の方、どうぞー」
スタッフの声に導かれ、パーティションの向こうからその人が現れた。
客席で見るよりも、ずっと近い距離。
その人は、あの子が持っていた陽だまりを、そのままもっと深く、静かにしたようなオーラを纏っていた。
本当にあの子なのか、どうしても知りたくなった。
「来てくれてありがとうございます! お名前、伺ってもいいですか?」
相手は、少しだけ目を細めて笑った。
その笑い方。目尻の下がる角度。
私の記憶の奥底に眠っていた「康」が、鮮烈な色を持って蘇る。
「……秋元康です」
その声。
少し低めで、けれど鈴の音のように澄んだ、私が世界で一番欲しかった声。
「康……?」
信じられなかった。
康は、あの日から一度も振り返らなかったはずだ。
どうして。どうして今さら。
「ガラポン、当たっちゃった。さっほーとの2ショット。運が良いでしょ?」
康は、昔と変わらない茶目っ気のある口調で言った。
私たちは並んで座り、レンズを見つめた。
スタッフの声とシャッター音が響く。
その一瞬、肩が触れ合った。
康の体温が、服越しに伝わってくる。
ああ、夢じゃない。本当に、康なんだ。
撮影が終わり、スタッフが「お時間です」と促す。
康は立ち上がり、私に向き直った。
「さっほーはずっと私が好きだったさっほーのまんまだね。今日の公演も、すごく素敵だった」
その言葉が、私の喉を締め上げた。
一生分の「好き」を使い切った代償に、私は何を失ったのだろう。
会いたくて、会いたくて、でも会えないと諦めて。
あの子がいない世界を、私はずっと歩き続けてきた。
「……ずるいよ」
震える声で、私は絞り出した。
康が、驚いたように目を見開く。
「ずるいよ、康。自分だけ勝手にいなくなって、連絡もくれないで……やっと会えたと思ったら、またそうやって、綺麗な言葉だけ置いていなくなるんだ」
涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。
康は、困ったように眉を下げて笑った。
その表情は、13年前に見せていたものと全く同じだった。
「ごめんね、さっほー」
康は一歩、私に歩み寄った。
そして、周りに聞こえないほどの小さな声で囁いた。
「でも、今日はさよならを言いに来たんじゃないんだ」
康の紡ぐ言葉を聞き漏らさないように耳をそばだてる。
「シクラメンが散る前に、また会いに来るよ。……約束」
康は、私の手の甲に軽く指先を触れさせると、そのまま一度も振り返らずに出口へと向かっていった。
翻るコートの裾。人混みに紛れていく背中。
私は、手元に残されたチェキを見つめた。
そこには、驚きで顔を強張らせた私と、見たこともないような穏やかな表情で微笑む、大人の康が写っていた。
シクラメンが咲く頃。
それは、冬の訪れ。あるいは、春への始まり。
康が残していった言葉は、呪いのように、あるいは魔法のように、私の胸に深く突き刺さった。
使い切ったはずの「好き」が、再び脈打ち始めるのを感じていた。
また、近いうちに会えるのだろうか。
今はまだ答えが出ないまま、私は、あの子が去っていった出口をいつまでも、いつまでも、見つめ続けていた。