短編
name chenge
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【大人になる前に】
「のんちゃん、またそれ言ってるの?」
レッスン場の隅で、康は呆れたように笑いながら、自分のタオルを丁寧に四角く折りたたんでいた。
その指先は相変わらず綺麗で、無駄のない動きをする。
「また、じゃないよ。だって私、もう高校の卒業式終わったんだもん。だからもう子供じゃないよ」
私は康に向き直り、一歩距離を詰めた。
ずっと、ずっとこの日を待っていたのだ。
17期生の中で最年少の私は、何かにつけて同期の中で最年長の康から子供扱いされてきた。
私が「旅行に連れてって!」とせがむたびに、千歳は「のんちゃんはまだ子供だからダメだよ」と、あの掴みどころのない微笑みでのらりくらりとかわし続けてきたのだ。
だけど、もう私は高校生じゃない。子供の肩書きは、もう脱ぎ捨ててきたはずだった。
「高校を卒業したからって、急に大人になるわけじゃないよ」
「なるの! 法律的にも成人だもん」
「はいはい」
生返事をしながら、康は私の視線を避けるように、今度は自分の荷物をバッグにしまい、帰り支度を始める。
その子供をあやすような態度がどうしても面白くなくて、私は少しだけ声を尖らせた。
「連れてってよ…それとも私と出かけるのはいやなの?」
「そうは言ってないよ」
康がふっと視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……じゃあ、新幹線で行けるようなところなら、考えてもいいけど」
一瞬、耳を疑う。絶対に折れなかった康が、初めて譲歩したのだ。
私の胸が、期待でトクンと跳ねた。
「本当!? 新幹線……あ、でも、新幹線じゃなくて、康の運転がいい!」
私はさらに踏み込んで、ずっと温めていたわがままを口にした。
康は一瞬、目を見開いてフリーズした。
それから慌てて周囲を見回し、声を潜めて私に顔を近づけてくる。
少し長めの前髪から覗く瞳が、焦りで揺れていた。
「ちょっと、のんちゃん……それは秘密の話だって……」
困惑した康の声が、耳元でくすぐったい。
そうなのだ。康が車の免許を持っていることは、私以外のメンバーは誰も知らない。
以前、私の学校にマネージャーが車でお迎えに来るはずだった日、そのマネージャーが急病で倒れてしまったことがあった。
その時、急遽代わりに運転して私を迎えに来てくれたのが、康だった。
あの日、夕暮れの車内で「みんなには内緒ね」と悪戯っぽく笑った康の顔を、私は今でも鮮明に覚えている。
だから康が免許を持っているのは、世界で私だけが知っている秘密なのだ。
「いいじゃん、二人の秘密のドライブ。ね?」
「だーめ。都内は交通量も多いし、道も複雑だから危ない。それに私も慣れてないから無理」
康はそう言って、また私から視線を逸らそうとした。
4年間一緒に活動してきて気づいたことがある。
康は私のお願いを断る時、絶対に目を合わせようとしないのだ。
逃がさない。
私は一歩踏み込み、康が顔を背けるより早く、両手を伸ばした。
柔らかな手のひらで、康の少し冷たい両頬を、むぎゅっと挟み込む。
「あ……」
康の動きが完全に止まった。
私の両手に挟まれたまま、康が驚いたように目を丸くしている。
至近距離。康の瞳に、まっすぐ私の姿が映っている。
私はこれ以上ないくらいの満面の笑顔を作って、甘えるように囁いた。
「ねえ、お願い。康」
康の頬が、私の手のひらを通じて、じわじわと熱くなっていくのが分かった。
綺麗な形の眉がハの字に下がり、困ったような、だけどどこか降参したような、優しい光がその瞳に灯る。
康は小さくため息をつき、私の手をそっと剥がした。
その手のひらは、私の手よりも少し大きくて、温かい。
「……じゃあ、新幹線で地方まで行って、向こうでレンタカー借りるならいい。
それなら都内よりは運転しやすいし……それもいい?」
康が観念したようにそう言うと同時に、私の世界は弾けた。
「やったーーー! 約束だからね!」
レッスン場に響き渡るような声で叫び、私はその場でぴょんぴょんと跳び跳ねた。
康は「声が大きいってば」と苦笑しながらも、どこか嬉しそうに私を見つめていた。
ーーーーー
4月のある日。私たちは新幹線に乗って、遠くの街へと向かっていた。
駅のホームで旅行気分に浮き立つ私とは対照的に、康はどこまでもスマートだった。
流れるような手つきでチケットを発券し、混雑する改札を迷いなく通り抜けていく。
「こっちだよ。足元、気をつけてね」
「あ、うん」
新幹線のチケットを手配してくれたのも、現地のレンタカーを予約してくれたのも、行き先をピックアップしてくれたのも、全て康だった。
「のんちゃん窓側座りなよ。景色いいから」
「ありがとう」
新幹線のシートに深く腰掛けた康は、すぐにタブレットを取り出して、現地の天気やレンタカーの手続きを確認し始めた。
画面を見つめる康の少し長めの前髪、切れ上がった涼しげな目元、そして画面をスクロールする細くて綺麗な指先。
私は窓の外を流れる景色を見ているふりをしながら、ガラスに映る康の横顔を盗み見ていた。
目的地に着き、レンタカーの受付カウンターに並んでいる時もそうだった。
手続きを進める康は、店員さんの説明に小さく頷きながら、淀みなく書類にサインをしていく。
少し低めの、落ち着いた声。ペンを握る手の甲に浮かぶ、微かな筋。
私はただ、その少し後ろに立って、康の背中を見つめることしかできなかった。
胸の奥が、チクリとした。
劇場で一緒に汗を流し、同じダンスに苦戦したり、くだらないことで笑ったりしている康には年齢差なんて感じない。
だけど、こうして一歩グループの外に出ると、康は紛れもない大人だった。
社会の仕組みをよく知っていて、誰に教わるでもなくスムーズに物事を進めていく。
高校を卒業したら、康と同じ「大人」の側に行けると思っていた。
子供じゃないよって胸を張れば、隣に並べると思っていた。
だけど、全然違った。私が一歩進んだところで、康はもっとずっと先を歩いている。
私と康の間にある、数年の、だけど決して埋めることのできない絶対的な時間の壁。
嬉しかったはずの旅行なのに、喉をせり上がってくるような切なさが、私の胸をきゅっと締め付けた。
「のんちゃん、お待たせ。行こうか」
手続きを終えた 康が、車のキーを指先で回しながら、振り返って微笑んだ。
その笑顔はいつもの優しい康なのに、今の私には、なんだか酷く遠い存在に見えてしまった。
「うん……!」
私は必死で寂しさを噛み殺し、いつもの元気な声を装って、康の後に続いた。
用意されていた車に乗り込む。
康が運転席に座り、シートベルトを締めるカチリという音が狭い車内に響いた。
エンジンがかかり、静かな振動が体に伝わってくる。
助手席から見る康の運転する姿は、二回目なのに、やっぱり新鮮で、どうしようもないくらい格好良かった。
ハンドルを握る細くて長い指先。サイドミラーを確認する時の、鋭く落ち着いた視線。ブレーキを踏む時の、身体が揺れない優しい加減。
都内を離れた見知らぬ土地の道路を、康は落ち着いた様子で運転する。
「康の運転、やっぱり好き」
「そう? まだちょっと緊張してるんだけどね」
そう言って笑う康だが、その横顔はどこか遠い。
劇場では見られない康の姿に、私は完全に目を奪われていた。
じーっと、穴が開くほどその横顔を見つめてしまう。
ちょうど赤信号になり、車が滑らかに止まった。
康はハンドルから手を離すと、ふっと困ったように笑って私の方を向いた。
「のんちゃん、そんなに見つめられると、さすがに緊張しちゃうよ」
「えっ! ……」
心臓が跳ね上がる。まさか気づかれているとは思わなくて、私は慌てて顔を背けた。
頬が急激に熱くなっていくのがわかる。
「み、見てないよ! 別に康のことなんか見てない。窓の外の景色を見てただけだもん」
「ふーん、そっか。景色、ね」
康はすべてお見通しといった様子で、楽しそうにクスクスと笑った。
車が再び走り出す。
私は意地になって正面向いていたけれど、やっぱりどうしても気になって、康が前を見てている隙に、チラ、チラと何度も盗み見てしまった。
そのたびに、康の口元が少しだけ緩んでいる気がして、私はますます照れくさくなった。
康がピックアップしてくれた観光地やカフェを巡り、SNS用の写真を撮ったり、名物を食べたりした。
私にカメラを向ける康の視線はいつだって優しくて、それなのに遠く感じてしまう。
だから私はいつも以上に康にくっついて歩いた。
離れたら、もう近づけないと思ったから。
窓の外は、いつの間にか茜色に染まり始めていた。
康が案内してくれたのは、海沿いを走る美しいドライブコースだった。
左手に見える水平線が、夕日に溶けてきらきらとオレンジ色に輝いている。
「綺麗……」
思わず声を漏らすと、康は車を海沿いの展望スペースに滑り込ませ、エンジンを切った。
「ちょっと歩こうか」
康に促され、私たちは車を降りて、柵の向こうに広がる海を見つめた。
潮風が、私の髪を優しく揺らす。
夕日を浴びながら、私は自分の靴先を見つめた。
「……康、やっぱり大人だね」
ぽつりと、心の中にあった言葉が溢れてしまった。
「新幹線のときも、レンタカーのときも。私、何にもできなくて。
高校卒業したくらいじゃ、康には全然追いつけないんだなって思ったら、なんか、ちょっと悔しかった」
強がりの中に本音を混ぜて、私は康の顔を見上げた。
康は驚いたように目を見張り、それから、夕日の光を反射する瞳を少し細めて、ふっと寂しげに笑った。
「何言ってるの。追いつけないのは、私の方だよ」
「え?」
康は視線を海の向こうへと戻し、遠くを見つめながら静かに言葉を紡いだ。
「のんちゃんが『子供じゃない』って言ったとき、本当にはっとしたんだ。
あ、私の知らないところで、この子はどんどん大人になっていくんだなって。
……私がのんちゃんを子供扱いしていたのは、ただの私の我が儘だよ」
康の手が、柵を強く握りしめる。
「子供のままでいてくれれば、私はずっと、のんちゃんのお姉さんでいられる。
だけど、のんちゃんがあっという間に大人の女性になって、私の手を離れていっちゃうのが……本当は、少し寂しかったんだと思う」
康の横顔は、どこか迷子のような、切ない表情をしていた。
夕暮れの光の中で、千歳が私を見る。
その瞳の奥にある感情の重さに、私の心臓が大きく跳ねた。
……康も、寂しかったんだ。
私と同じように、この距離に、時間の流れに、心を揺らしていたんだ。
「離れていかないよ」
私は一歩、千歳に近づいた。潮風の音に消されないように、はっきりと声を届ける。
「私が大人になっても、康は康でしょ? 私の、特別で、大好きな人。
……だから、手を離したりしない。ずっと隣ににいさせて」
康は一瞬、息を呑むように私を見つめ、それから本当に愛おしそうに目元を和らげた。
「……ずるいな、のんちゃん。そういう大人びたセリフどこで覚えたの」
「康のせいだよ」
私がぷくっと頬を膨らませると、康は声を上げて笑った。
その笑顔は、レッスン場でいつも見ていた、大好きな康の笑顔だった。
「よし、じゃあ帰ろうか。お腹も空いたしね」
「うん! 美味しいもの奢ってね、大人なんだから!」
「それはそれ、これはこれ」
またのらりくりとかわす康に文句を言いながら、私たちは車へと戻る。
埋まらない年の差も、いつか訪れる未来への寂しさも、全部この夕日の中に溶けていくような気がした。
私たちはまだ、同じ季節の中にいる。
車のエンジン音が再び響き、夜へと向かう道を走り出す。
車の窓の向こうで、一番星が静かに瞬き始めていた。