短編
name chenge
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【偶然の十字路】
川の水面に春の日差しが鏡のように反射している。
眩しさに目を細めながら、私は何度も制服のスカートの皺を伸ばした。
隣を歩く親友のほてちゃんは、そんな私の様子を見て、さっきからニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。
「恵理子、落ち着きなよ。まだ十字路まであと五十メートルはあるよ?」
「落ち着いてるよ。これでも、すごく」
「嘘ばっかり。心臓の音がここまで聞こえてきそう。ドッドッドッて、ドラムの連打みたい」
ほてちゃんは私の背中をバシッと叩いた。
その衝撃で、喉元までせり上がっていた緊張が少しだけ散る。
私たちが向かっているのは、学校近くの十字路。
そこは、隣のクラスの秋元康さんが必ず通る登校ルートだった。
秋元康。 その名前を思い浮かべるだけで、視界にフィルターがかかったように景色が色づく。
康さんは、不思議な人だ。
さらりと流れる黒髪は、光の加減で紺青にも見える。
クラスの中心にいる性格ではないけど、みんなの視線を集めている。
誰にでも分け隔てなく微笑みを向けるけれど、特定の誰かと放課後を過ごす姿は誰も見たことがない。
そんな、一匹狼のような気高さがあった。
「……今日は、ちゃんと言うんだよね?」
ほてちゃんが顔を覗き込んできた。私は小さく頷く。
「うん。目で見送るだけなのは、もう卒業する。……予定」
「予定かぁ。先週なんて、康さんが通った瞬間、恵理子、電柱の影に隠れちゃったもんね。不審者レベルだったよ」
「あれは……眩しすぎて、直視できなかったの!」
そんな馬鹿げた会話をしているうちに、運命の十字路が見えてきた。
まだ学校へは早すぎる時間。
通学路をわざわざ先回りして待っているのは、偶然を装って康さんと一緒に登校できないかな、なんて考えたからだ。
でも実際は、康さんが通るたび、私は石像のように固まり、その綺麗な後ろ姿が校門に消えていくまで、瞬きすら忘れて見つめているだけ。
声なんてとても掛けられなかった。
信号が赤に変わる。向こう側から、康さんが歩いてくるのが見えた。
私の心臓が、ほてちゃんの予言通りドラムのように暴れ出す。
「ほら、恵理子。チャンスだよ」
ほてちゃんが私の腕を掴んで、一歩前へ押し出した。
康さんが近づいてくる。
こちらを向いているわけではないのに、その存在感に押し潰されそうになる。あと五メートル、三メートル。
「――っ、お、おはようございますっ!」
絞り出した声は、自分でも驚くほど裏返っていた。
康さんが足を止める。ゆっくりとこちらを向いた。
その瞳は、春の朝の空気を含んで、どこまでも透き通っている。
康さんは一瞬だけ、不思議そうに瞬きをした。
そしてふわりと、花が綻ぶような笑みを残して、康さんは横を通り過ぎていった。
私はその場に根を張ったように動けなくなった。
「やったじゃん、恵理子! 」
ほてちゃんが横で騒いでいるけれど、私の耳には春の風の音しか届かなかった。
ーーー――
その日の放課後、教室は春にしては気怠い熱気に包まれていた。
窓際の席で、ほてちゃんが日誌を書き終わるのを待ちながら、頭の中で朝の出来事を繰り返し思い出していた。
「ねえ、聞いてる? 恵理子」
前の席からほてちゃんが椅子を回して話しかけてくる。
「康さんのことなんだけどさ。昼休み購買に行ったら、他のクラスの子たちが話してたよ。
康さんって、特定の誰かと仲良くしてる姿、誰も見たことないんだって。
いつも一人で、ふらっとどこかへ消えちゃうらしいよ」
「そうなんだ……」
「高嶺の花っていうか、実体のない幽霊みたいって言われてる。
でも、今朝のあの笑顔は本物だったよね。恵理子、もしかして脈アリ?」
「そんなわけないでしょ。会釈してくれただけだよ」
私は頬杖をついて外を眺めた。
校庭では運動部が声を張り上げ、夕日がじわじわと校舎をオレンジ色に染め始めている。
康さんは、今頃どこにいるんだろう。
もう帰ってしまっただろうか。それとも、まだ校内のどこかで、あの不思議な空気感を纏って佇んでいるのだろうか。
「あ、そうだ! 恵理子、ごめん!」
ほてちゃんが唐突に手を合わせた。
「私、今日、委員会だったの忘れてた。先帰ってていいよ」
「えっ、そうなの?じゃあ帰りは恵理子一人?」
「大丈夫だよ、誘拐されないって。
それとも、寂しくて死んじゃう? ウサギさんみたいに」
「……そんなんじゃないけど。わかった、先帰ってるね」
ほてちゃんにひらひらと手を振られ、私は一人で教室を出た。
いつも隣にいるほてちゃんの声がないと、廊下の足音がやけに大きく響く。
校門を抜け、朝と同じ通学路を歩き始めた。
夕暮れの道は、朝の活気とは打って変わって、少し寂しげな表情をしていた。
あの十字路に差し掛かる。
朝、康さんに挨拶をした場所。
そこを通り過ぎようとした時、ふと、ガードレールに背を預けて立っている影が目に入った。
心臓が、跳ねた。
長い手足、独特のシルエット。風に揺れる髪。
康さんだ。
どうしてここに? 帰る方向はあっちのはずなのに。
私が混乱して足を止めると、康さんがゆっくりとこちらに顔を向けた。
夕日に照らされたその表情は、影が深く、朝よりもずっと大人びて見えた。
「あ……橋本さん。……おはよう、じゃなくて、こんばんは、かな?」
向こうから、声をかけられた。
突然の出来事に、言葉がすぐに出てこない。
「こ、こんばんは……。どうしたんですか、こんなところで」
「風を待ってたんだ」
「風……?」
「冗談。……本当は、橋本さんが来るのを待ってた」
康さんは、冗談とも本気とも取れない口調でそう言うと、ガードレールから身を離した。
私の方へ歩み寄ってくる。一歩ごとに、康さんの纏う石鹸のような清潔な香りが強くなる。
「朝、挨拶してくれたのが嬉しくてさ。でも、私、不器用だから。ちゃんとお返しがしたくて、ここで少しだけ、待ち伏せしちゃった」
待ち伏せ。その言葉に、私の顔は一気に火照った。
私がずっとやっていたことを、康さんもしていたというの?
康さんは私の隣に並ぶと、当然のように一緒に歩き出した。
「最近、朝よく会うよね。不思議なくらい」
「それは……その」
「気づいてたよ。橋本さんがいつも、一生懸命私を見てくれてること。
……声、かけてほしかったんだ、本当は」
康さんの声は、夕闇に溶け込むように優しかった。
時間はスピードを変えて、アスファルトに長い影を伸ばしている。
駅の改札が見えてくる。この夢のような時間が終わってしまう。
ここでじゃあねと手を振られたら、もう何も言えなくなってしまう。
なにか言わないと、と考えていたら、康さんが私の目をじっと覗き込んだ。
「ねえ、恵理子ちゃん」
初めて、下の名前で呼ばれた。
心臓の鼓動が、もう限界を突き抜けてしまいそうになる。
「明日の朝も、私、あの場所にいると思う。
……待ってても、いいかな?」
康さんは、いたずらっぽく微笑んで、私の指先に一瞬だけ触れた。
冷たいはずの指先が、火をつけられたように熱い。
私は声にならない声で、何度も深く頷いた。
去っていく康さんの背中を見送る。
ほてちゃんに明日、なんて報告しよう。
きっと彼女は「だから言ったじゃん!」って笑うだろう。
頬を撫でる風は、もう昼間の熱を失っていたけれど。
出会いは偶然なんかじゃない。
いま恋が始まる空気だ。