短編
name chenge
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
オレンジ色を混ぜたような群青色が、街の輪郭をゆっくりと塗りつぶしていく。
街外れにある、この緩やかな坂道。頂上付近にある古びた街灯のそばが、私の定位置だった。
「……遅いよ、康」
独り言は、冷たくなり始めた夕風にさらわれて消えた。
【マチビト】
ここは、学生時代に毎朝、康を待っていた場所。
二人の家は方向が違ったけれど、学校へ行くには必ずこの坂を通る。
だから、私が少しだけ早く家を出て、坂の下から現れる康を待つのが、ルーティンだった。
かつての待ち時間は、せいぜい五分か十分。
坂の下から、康が少し癖のある髪を揺らしながら歩いてくるのが見えると、私の心はそれだけで弾んだ。
「おはよ。今日も早いね」そう言って少しだけ目を細めて笑う康の顔を、私は何度ここで迎えただろう。
けれど、今の待ち時間はもう、数年という単位に変わっている。
あの日――卒業式が終わった直後、康は誰にも行き先を告げずに街を出た。
卒業式の後、みんなでカラオケに行こうと約束していたから校門の前で、私はいつものように笑って言ったのだ。
『またあとでね! いつもの場所で待ってるよ』
康は一瞬、何かを言いかけたように唇を動かしたけど、結局はいつものように穏やかに微笑んで、『うん、また』とだけ答えた。
それが最後になるとは思わなかった。その背中を見送ったのが、あんなにも軽い「またね」だったことを、私は今でも呪うように後悔している。
康がいなくなった後、友人たちは勝手な噂を口にした。「東京の大きな事務所に入ったらしい」「康、ずっと夢を追いかけてたもんね」って。
最近では「街で見かけた」なんて言う子まで現れた。
けれど、私はそのどれも信じないと決めていた。自分の目で康を見つけるまでは、期待して傷つくのが怖かった。
「私の何気ない一言が、康を追い出したのかな……」
ふと、高校三年の冬、進路指導室の前で二人きりになった時のことを思い出す。
康はずっと迷っていた。自分の実力を試すために街を出るか、それとも、私と同じ地元の大学に進むか。
『康が一番キラキラしてるのは、夢を追いかけてる時だよ。私は、そんな康を見ていたいな』
あの時、良かれと思って伝えた私の言葉。
康はそれを聞いて、少しだけ寂しそうに、でも深く頷いた。
康はきっと、私のことが大好きだった。それと同じくらい、私も康のことが大好きだった。
だからこそ、康は決断したのだろう。もしあのまま地元に残って、私のそばで過ごしてしまったら、自分はきっと夢を捨ててしまう。私の好きな「キラキラした自分」ではいられなくなる、と。
あの時、挨拶もなしに消えたのは、私の顔を見たら最後、決心が鈍ってしまうとわかっていたからに違いない。
康の強さは、時として残酷なほど真っ直ぐだった。
「……でも、やっぱり勝手だよ」
私は、冷えてきた自分の腕を抱きしめた。
空はもう、一番星が瞬くくらいの暗さになっている。
街の灯りがポツポツと点り始め、夜がそこまで来ていた。
――康はもう、来ないかもしれない。
そんな弱気な考えが頭をよぎる。
康が追いかけた夢の世界は、きっとここよりもずっと輝いていて、忙しくて、過去の約束なんて薄れてしまうような場所かもしれない。
毎朝数分待っていたあのアスファルトの上で、私はもう何年、立ち止まっているんだろう。
諦めて、一歩踏み出そうとした時だった。
コツ、コツ、とアスファルトを叩く、一定のリズムの足音が聞こえてきた。
坂の下。まだ夜の闇に沈みきっていない青白い空間に、一つの影が浮かび上がっている。
私は息を止めた。
その影は、ゆっくりと、けれど確かな足取りで坂を登ってくる。
すらりとした立ち姿に、風になびく、見覚えのある髪の癖。
街灯のオレンジ色の光がその人を照らし出した瞬間、私の視界は耐えきれずに滲んだ。
何年も前に見送った背中よりも、少しだけ大きく見える。
けれど、こちらを見つめる真っ直ぐな瞳は、あの朝の坂道で出会っていた時の、私の大好きな康のままだった。
「……待たせて、ごめん」
聞き惚れるような、低くも高くもない、康独特の涼やかな声。
康は私の数歩前で立ち止まると、少しだけ照れくさそうに、けれど誇らしげに口角を上げた。
「夢、叶えてきたよ。……迎えに来た」
私は言葉を返せなかった。溢れそうになる涙を堪えて、康のコートの袖を、指先が白くなるほど強く、強く掴んだ。
手のひらから伝わってくる体温が、これが幻ではないことを教えてくれる。
「勝手すぎるよ、康……。卒業式のあと、あんなにすぐいなくなるなんて。せめて、さよならくらい言わせてくれたってよかったのに」
「ごめん。……あのままそばにいたら、私は一生、ここから動けなくなると思ったんだ。由芽実の言葉に背中を押されたのに、由芽実に甘えて動けなくなるなんて、そんな恰好悪いこと、見られたくなくて……」
康は、自由になった方の手で、そっと私の頬をなぞった。
その手は外気にさらされて冷たかったけれど、触れられた場所から熱が全身に広がっていく。
「もう、どこにも行かない?」
「うん。これからは、ずっと一緒」
私は康の肩に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
ずっと記憶の底に仕舞い込んでいた、懐かしくて落ち着く香りが、一気に私を包み込む。
数年分の孤独が、この一瞬で溶けていくのがわかった。
「……次は、もう二度と私を待ちぼうけさせないでね」
私は康の肩に顔を埋めたまま、少しだけ震える声で言った。
康のコートから伝わる冷たい夜の空気と、その奥にある確かな体温。
ずっと一人で抱えてきた不安が、その温もりに触れて、ようやく涙と一緒に解けていく。
「わかってる。……もう、どこにも行かないよ」
康の手が、優しく私の背中に回される。
その強さに、もう二度と離さないという決意が籠もっているようで、私は何度も小さく頷いた。
しばらくそうしていたけれど、ふと顔を上げると、街灯の下に二人の長い影が並んでいるのが見えた。
かつての通学路。明日の朝を約束して別れるのが当たり前だった場所。
けれど、今日は違う。
「ねえ、康」
「ん?」
「……今日は、一緒に帰ってくれる?」
私が上目遣いに尋ねると、康は少しだけ意外そうに目を丸くした。
けどすぐに、あの頃よりも少しだけ大人びた、でも変わらない優しい眼差しで微笑む。
「当たり前。そのために帰ってきたんだから」
康はそう言うと、自然な動作で私の隣に並び、私の左手をそっと包み込んだ。
康の指先はまだ少し冷えていたけれど、繋がれたところから温かい熱が流れてくる。
「……行こうか」
「うん」
私たちはどちらからともなく歩き出した。
坂を下り、街の灯りの中へ。
一人で登ってきた時とは違う、少しだけゆっくりとした歩幅。
隣から聞こえる、聞き慣れたはずの、でも何年も待ち望んでいた足音。
坂の上に取り残されていた私の時間は、今、隣を歩く康の歩調に合わせて、新しく刻まれ始めた。
街灯に照らされた二人の影は、もう離れることなく、夜の街並みへと仲良く並んで溶けていった。