短編
name chenge
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カン、カン、カン、カン。
夕暮れ時の街に、無機質な警報音が響き渡る。
朱色に染まり始めた空を切り裂くように、黄色と黒の縞模様をした遮断機がゆっくりと降りてきた。
【踏切の向こう】
「あーあ、また引っかかっちゃった」
隣で、彩永がわざとらしく肩を落として笑う。
その声は、放課後の少し湿った空気に溶けて、私の鼓膜を心地よく震わせた。
新井彩永。
家が隣同士で、親の代からの付き合い。
物心がつく前から、私の世界の中心にはいつも彼女がいた。
「……急いでたわけじゃないし、別にいいよ」
私は視線を足元に落としたまま、短く答える。
高校二年生。私たちは、自分たちが思っている以上に大人になってしまったのかもしれない。
中学生の頃までは、ただの幼馴染で、そこに特別な感情なんてまったくなかった。
けれど今の彩永は、夕日に透ける髪が驚くほど綺麗で、ふとした瞬間に漂う石鹸の香りが、私の理性をひどく揺さぶる。
遮断機が完全に降り切り、私たちは足止めされる。
この数分間。電車が通り過ぎ、再び遮断機が上がるまでの間だけが、私にとっての聖域だった。
前を向いてさえいれば、隣に立つ彼女の横顔を、幼馴染という特等席からいくらでも盗み見ることができる。
「康ってさ、昔から踏切で待つの嫌いじゃないよね」
「そうかな」
「そうだよ。なんか、じっと電車を見てる時の康、すごく真剣な顔してるもん」
彩永は快活に笑い、私の顔を覗き込もうとする。
心臓が、警報機よりも速いリズムで跳ねた。
「その時の顔、私結構ー」
彩永が何かを言いかけた時、青い電車が轟音とともに走り抜けた。
「ー何か言った?」
「……ううん、なんでもないよ」
彩永の横顔が夕日に照らされて朱色に染まる。
その横顔をみて、自分の気持ちを自覚した。
(……多分私は、彩永のことが好きなんだ。)
遮断機の向こう側には、まだ知らない未来があるような気がして。
でも、今の私にはこの止まった時間こそが、彼女を失わずに済む唯一の居場所だった。
ーーー――
それは、ある日突然、胸の内で鳴り出した警報機のようなものだった。
彩永を好きだと自覚してしまったあの日から、私は、彼女を避けるようになった。
一緒にいたら、自分の気持ちが抑えられないと思ったから。
(これ以上、近づいてはいけない)
休み時間、いつものように私の席に来ようとする彩永を避けて図書室へ逃げたり、帰り道も「今日は用事があるから」と先に一人で帰ったりした。
一人で歩く踏切は、驚くほど静かだった。
遮断機が下りても、そこにはただ退屈な待ち時間があるだけで、彩永といた時のあの高揚感はどこにもなかった。
きっと彩永にとっての私はただの幼馴染だ。なんでも知ってて、何でもさらけ出せる、家族のような存在。
けれど、私の心の中にある熱は、幼馴染なんて綺麗な言葉では片付けられない。
もしこの想いが漏れ出したら、彼女はどんな顔をするだろう。
あの眩しい笑顔が曇り、私を見る瞳に拒絶の色が混ざる。
それだけは、死んでも耐えられなかった。
ある日の放課後、ついに彩永に追いつかれた。
家へ続く道、いつもの踏切の前で。
「……待ってよ、康!」
背後から制服の袖を掴まれる。
振り返ると、少し肩を上下させて息を切らした彩永が立っていた。
少しだけ怒ったように眉を寄せているが、その瞳には寂しさが滲んでいる。
「最近、変だよ。私、何かした? 怒ってるなら言ってよ。無視されるの、一番いやだよ……」
彩永の声が震えている。
私は拳を強く握りしめた。違う、怒ってなんていない。嫌いになれたらどれほど楽か。
彩永があまりにも眩しくて、無防備に私を信じてくれるから、自分の汚い独占欲が怖くて逃げているだけなんだ。
「……怒ってないよ」
「嘘。目も見てくれないじゃん」
遮断機が降りる。警報音が、私たちの間の沈黙を埋めるように鳴り響く。
逃げ場のない空間。彩永は私の正面に回り込み、ぐいっと顔を近づけてきた。
「私、康がいないとつまんない。……康にとって、私はもう隣にいて当たり前の存在じゃないの?」
「……」
「ねえ、康。私たち、幼馴染でしょ? 何でも話すって約束したじゃん。
……私のこと、嫌いになった?」
「嫌いなわけ、ない……!」
思わず声を荒らげてしまった。
彩永が驚いたように瞬きをする。
その潤んだ瞳に、夕焼けと警報機の赤い光が反射して、この世の何よりも美しく見えた。
胸の奥に溜まっていた濁流が、堤防を決壊させる。
毎日、毎晩、独り言のように繰り返してきた「好きだ」という言葉。
それを隠すために積み上げた嘘の壁が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
眼の前の愛しさに、立ち止まることができなかった。
この踏切が上がったら、今の関係を壊してでも、幼馴染という安全な檻から飛び出して、正直な気持ちを伝えたい。
「彩永。あのさ……」
私は一歩、踏み出した。遮断機のすぐ手前。
吹き抜ける風が、二人の髪を激しく揺らす。
彩永は真っ直ぐに私を見ている。彼女の全幅の信頼が、今は痛いほど突き刺さる。
私は大きく息を吸い込み、言葉を吐き出す。
「——私、彩永のこと……」
その瞬間だった。
ガタン、ゴトンッ という轟音と共に、青い電車が駆け抜けた。
私の声は、轟音に飲み込まれ、一文字も彩永の元へは届かなかった。
彩永は不思議そうに眉を下げ、私の口元を凝視しているだけだった。
やがて、彼女はふっと、困ったように笑って首を横に振った。
(「聞こえないよ」)
そう言っているのが分かった。
これ以上、踏み越えてはいけない。この遮断機は、私を守るために降りているのではない。
遮断機が、私と彼女の間に冷厳な壁として立ちふさがっている。
風に乗って、私の言霊はどこか遠くへ飛ばされてしまった。
青い車両が目の前を猛スピードで通り過ぎていく。
その光の点滅を見つめながら、私は自分の傲慢さを恥じた。
(いつだって、君が好きだ。……でも、それは私だけの秘密でなきゃいけなかったんだ)
何も気づかない彩永のままでいい。
彼女の平穏を、私の勝手な感情で掻き乱してはいけない。
踏切を渡ろうとしていた私の心は、下りてきた遮断機の前に、力なく崩れ落ちた。
やがて、警報音が止まった。
ゆっくりと、遮断機が上がっていく。
「ねえ! 今なんて言ったの? 全然聞こえなかったよー!」
彩永が、いつもの調子で笑いながら歩き出す。
彼女の表情には、もう先ほどまでの不安はない。
私は、いつものように幼馴染の顔をする。
「……いや、なんでもないよ。彩永のこと嫌いになったわけじゃないよって。それだけ」
私は胸の奥に広がった痛みを押し殺し、努めて平穏な声を出す。
「よかったー。心配したんだから……じゃあなんで避けてたの?」
「うーん……反抗期?」
「今更?!」
彩永が楽しそうに私の肩を小突く。
その感触が、あまりにも温かくて、泣き出しそうになる。
「ねえ、早く帰ろ。お腹空いちゃった」
「……うん、そうだね」
私は彼女の一歩後ろを歩き出す。
彼女の背中を見つめながら、心の中で、さっき言えなかった言葉の続きを、静かに墓場へ埋める。
(夢見てごめん、恋してごめん)
勝手に期待して、勝手にひとりで盛り上がって、今のこの幸せな関係を壊そうとしてしまった。
本当に、ごめん。
初恋は叶わぬものだと、誰かが言っていた。けれど、それで構わない。
こうして彩永の隣を歩けて、彼女の笑い声を聞ける。それ以上の幸せなんて、本当はどこにもないはずなのに。
踏切を渡りきった先には、いつも通りの二人の家が並んでいる。
明日も、明後日も、私はこの距離で君と笑い合うだろう。
「康! 早くしないと置いてっちゃうよ!」
踏切の向こう側で、彩永が振り返って手を振っている。
逆光の中で輝く彼女に、私はもう、手を伸ばしたりはしない。
「今行くよ」
私は駆け足で、彩永の元へ向かう。
胸の奥に、伝えられなかった「好きだ」という言葉を深く、深く埋めて。
踏切の向こう側で、私は今日も、叶わない夢を見続ける。
私は、ただの幼馴染として、彩永の隣に並んだ。
夕闇に染まっていく帰り道。
二人の影はまた、不格好に絡み合いながら、家へと続いていた。