短編
name chenge
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【群衆の中で運命は巡る】
東京の街は日を跨いでもなお、無機質なノイズに支配されていた。
康は、コンビニのレジ袋をカサカサと鳴らしながら、その混沌とした群衆の一部として歩いていた。
劇団の稽古で「お前の芝居には生活感がない。ただの通行人だ」と叱られ、バイトのレジ打ちで神経をすり減らした帰り道。
「……通行人、か」
自嘲気味に呟く。自分はこの街を行き交う群衆の一人に過ぎない。そう思っていた。
けれど、康の視線は、人混みの中に潜む「異物」を捉えた。
深く被ったバケットハットの女性。そして、彼女の数歩後ろを執拗に追いかける、粘りつくような殺気を放つ男。
(……なんだ、あの男)
本能が、警鐘を鳴らす。
女性は肩を強張らせ、怯えたように人通りの少ない裏路地へと逃げ込んでいく。
康は無意識に走り出していた。
路地裏。男が彼女の腕を掴んだ瞬間、千歳は迷わず二人の間に割って入った。
「ごめん、おまたせ!」
驚く男の視線を遮り、彼女の肩を抱き寄せる。
「ごめん、仕事長引いちゃってさ。行こうか」
「えっ……あ……」
呆然とする彼女の耳元で、康は低く囁いた。
「合わせて。走るよ」
次の瞬間、康は彼女の手を強く握りしめ、一気に駆け出した。
「あ、てめえ! 待ちやがれ!」
背後で男の怒声が響くが、康は入り組んだ路地を迷いなく曲がり、光の届かない建物の隙間を縫うようにして走った。
数分後。男の足音が完全に消えるまで走り続け、二人は静まり返った公園へと滑り込んだ。
「……はぁ、はぁ……。ここまで来れば、大丈夫……だと思う」
康は肩で息をしながら、ようやく繋いでいた手を離した。
自分の手には、彼女の掌の震えが熱を持って残っている。
「……あ、の……」
彼女は恐る恐る顔を上げた。マスク越しの澄んだ瞳が、驚きと戸惑いで揺れている。
「怪我はない? 怖かったよね。……変に割り込んじゃってごめん」
康はレジ袋から少しぬるくなったほうじ茶を取り出し、彼女に差し出した。
彼女はほうじ茶を両手で受け取り、胸の奥に灯った小さな火を確認するように呟いた。
「……ありがとう……ございます。……助けてくれて」
都会の巨大な群衆の中で、危機一髪の瞬間に交差した二つの点。
運命が巡り始めた。
ーーーーー
あの逃走劇から数日後。
康がいつものようにバイトを終え、レジ袋をカサカサと鳴らしながらあの公園の横を通りかかった時のことだ。
街灯の下、一人の女性がベンチに蹲っているのが見えた。
(……具合でも悪いのか?)
放っておけず、康はそっと声をかけた。
「あの、大丈夫ですか? 気分でも……」
顔を上げた女性と目が合った瞬間、康は息を呑んだ。大きなマスク、深く被ったハット。
数日前にあの路地裏で助けた、あの時の女性だった。
「あ……」
彼女の方も、すぐに気づいたようだった。瞳にぱっと光が宿る。
「……あの時の、ヒーローさん」
「……ヒーローはやめてよ。康って言います。君は…?」
「……有以です」
「有以ちゃんね……また、誰かに付けられてたの?」
「ううん、今日は……。いろいろあって疲れちゃったから、ぼんやりしてました」
力なく笑う有以に、康は苦笑しながら、手元にあったコンビニの肉まんを差し出した。
自分の夜食に買ったものだ。
「…そっか。ほら、これ。バイト先でもらってきたんだけど、お腹空いてるなら食べる?」
二人は夜の公園で、並んで半分こにした肉まんを食べた。
「これ、すごく美味しい……!」
「普通のコンビニの肉まんだけどね。」
康は有以に名前意外は聞かなかった。
男に追われていたこと、深夜に出歩いていることから訳ありと判断したのか、単純に興味がないのかはわからなかったが、それが有以には心地よかった。
アイドルでもAKBでもない、自分自身を見てくれている気がしたのだ。
「……もう遅いし、帰ろうか。駅まで送るよ」
康が立ち上がると、有以は名残惜しそうに康のコートの裾を少しだけ掴んだ。
「……あの、また、会えますか?」
その真っ直ぐな問いに、康は少しだけ考え、笑った。
「月曜と木曜。私のバイトが終わるこの時間に、ここを通るよ。……もし、また夜の空気が吸いたくなったら、おいで」
「……はい! 絶対、来ます」
有以にとって、それは単なる約束ではなかった。
12歳から始まった、分刻みのスケジュールと完璧を求められる日々。
その群衆のノイズから唯一逃げ出せる、自分だけの安らぐ場所を見つけた瞬間だった。
康は有以を駅の改札まで送り届けた。
「気をつけて帰るんだよ」
「はい。康さんも。……おやすみなさい」
小さく手を振って自動改札の向こうへ消えていく彼女の後ろ姿を見送りながら、康は不思議な胸の高鳴りを感じていた。
ーーーーー
ある夜。その日の有以は、新曲のプロモーションで朝から晩まで分刻みのスケジュールをこなし、心身ともに限界に近い状態で公園に現れた。
けれど、有以はいつものように、マスク越しでも分かるような明るい声で康に挨拶をした。
「こんばんは、康さん! 」
康は、手渡そうとした温かい飲み物を一瞬止め、じっと彼女の瞳を見つめた。
「……無理して笑わなくていいよ」
「えっ? ……私、笑ってるよ? 元気だよ?」
有以は少し慌てたように、さらに声を弾ませる。
アイドルの本能が、無意識に疲れを悟らせまいと完璧なバリアを張る。
けれど、康は首を横に振った。
「劇団の演出家にいつも言われるんだ。『本当の感情は、目の奥にしか宿らない』って」
康は、有以の隣に静かに座った。
「……今の有以ちゃんの目は、すごく泣きたそうな色をしてる。
周りに気を使って知らず知らずに無理してるんじゃない?
何もしないでぼんやりするのも大事だよ。」
有以は、言葉を失った。
マネージャーも、スタッフも、ファンも、みんな「元気な私」を見て喜んでくれる。疲れていることに気づいても、それは自分の内に隠しておかなければいけない。
そんな中で、目の前の康だけが、有以の仮面を剥がそうとするのではなく、その下に隠れた本当の心を、ただそっと肯定してくれた。
「……あ」
有以の目から、一粒の涙が零れ落ちた。
一度溢れ出すと、それは止まらなかった。声を殺して泣き出した彼女の背中を、康は何も聞かずに、ただ夜の闇から隠すように、そっと背中で遮り続けた。
数分後、涙を拭った有以は、心の力を抜くように深呼吸を一つして、小さく微笑んだ。
「……康さんって、すごいや。私、自分でも気づかないふりしてたのに」
この夜から、有以にとって康はただの話し相手から世界で唯一、本当の私を見つけてくれる人へと変わった。
ーーーーー
公園での不思議な出会いから数ヶ月。
康に、大きなテレビドラマのエキストラの仕事が舞い込んだ。
「現場の空気を学んでこい」と劇団の先輩に背中を押され、康は気合を入れて撮影現場へ向かった。
そのドラマの現場は、異常な熱気に包まれていた。
真冬の深夜、閉鎖された商店街。煌々と焚かれた照明は昼間のような明るさを作り出し、数百人のスタッフとエキストラが、たった一つのシーンのために蠢いている。
「はい、エキストラの皆さん、位置ついて! そこ、もっと自然に歩いて!」
助監督の怒声が飛ぶ。康は、支給された衣装を着て、群衆の一人として冷たいアスファルトの上に立った。
――小栗有以。
劇団の先輩が「今、日本で一番忙しいアイドル」と言っていた。
その彼女が主演を務めるドラマ。
康にとっては、憧れのプロの現場だ。
若くして主演を張る彼女と何年も目が出ないしがない役者の自分。
嫉妬なんて湧くはずもなかった。
自分とは見ている景色があまりに違いすぎる。
せめてこの貴重な経験からなにか盗んでやろうと康は緊張で硬くなる体を鼓舞していた。
「本番、行きまーす!」
カチンコが鳴る。康はサラリーマンになりきり、他のエキストラと行き交う。
その人混みの向こうから、主役の小栗有以が歩いてきた。
役を纏った小栗有以は、圧巻だった。
ただ歩いているだけなのに、全ての光を吸い寄せているかのように輝いている。
モニター越しに見るよりも、ずっと細くて、けれど背負っているものの大きさが、その背中から伝わってくるようだった。
すれ違う、刹那。
レンズの向こうを見ていたはずの有以の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬、康の顔を捉え、驚きに目を見開いた……ように見えた。
けれど、彼女はプロだった。次の瞬間には完璧なヒロインの表情に戻り、カメラの前を通り過ぎていく。
「はい、カット! オッケー!」
安堵の溜息が現場に広がる。
「休憩入りまーす! 一時間後、再開!」
スタッフの声と共に、現場の空気が緩んだ。
康は冷え切った体を温めようと、ロケバスから離れた薄暗い自販機コーナーへと向かった。
「凄いな……。あれが、トップアイドルか」
自販機の缶コーヒーを握り締め、彼女の圧倒的な存在感を思い出していた。
「……康、さん?」
背後からかけられた声に、心臓が跳ね上がった。
振り返ると、そこには誰もいなかった。
いや、違う。自販機の影、スタッフからも見えない死角に、衣装の上から厚手のベンチコートを羽織った彼女が、身を潜めるように立っていた。
ハットもマスクもない。照明の下で見た、完璧なメイク。
けれど、その瞳と声は、あの公園での彼女そっくりだった。
「やっぱり……康さんだ。どうして、ここに?」
「あ、えっと……エキストラで。……君が、小栗、さん?」
康は自分の声が上ずっているのが分かった。
夜の公園で会っていた有以が、あまりに巨大な存在であることを、今、ようやく理解した。
日本中の誰もが知るトップアイドル、小栗有以。
それが、自分の隣で時には笑い、時には泣いていた彼女の正体だった。
「……驚かせちゃって、ごめんなさい」
有以は、少し寂しそうに笑った。
その表情は、トップアイドルのものではなく、康が知っている、あの普通の女の子の表情だった。
「私……AKBの小栗有以なんです」
その時、遠くでスタッフの声がした。「小栗さん、お直しお願いしまーす!」
「あ、行かなきゃ」
有以は慌てて髪を整え、振り返る。
「康さん。……私、さっきすれ違った時、すごく嬉しかった」
そう言い残すと、有以は駆け足で、眩い光が溢れる撮影現場の中心へと戻っていった。
大勢のスタッフが彼女を取り囲み、再び主演女優の顔に戻っていく。
康は、冷めかけた缶コーヒーを持ったまま、立ち尽くしていた。
驚き、動揺。けれど、不思議とショックはなかった。
ただただ、あの華奢な体で、これほど巨大な世界を背負い、戦っている彼女が、素直に凄いと思った。自分とは、あまりに遠い場所にいる。
自分はまだ、群衆の中の一人だ。
けれど、あの眩しい光の中に、自分を知っている人がいる。
その事実だけで、今の康には十分だった。
ーーーーー
撮影から数日が過ぎた。
いつもの時間のいつもの公園。康はベンチに座り、膝の上に置いたコンビニの袋を見つめていた。
中には、出会った日と同じ温かいほうじ茶が二本。
けれど、今日有以が来る保証はない。
正体を知ってしまった今、これまで通りの関係が続くなんて、劇団の安い台本でも書かないだろう。
「……眩しすぎたんだよな、あの子」
脳裏に焼き付いているのは、数百人の大人たちを従え、冷たい夜の空気さえも味方につけて微笑んでいた、主演女優・小栗有以の姿だ。
公園で一緒に肉まんを半分こした、あの少し抜けたところのある有以と同じ人物だとは、どうしても思えない。
まるで、あの夜の時間は自分が作り出した長い幻で、ドラマの現場こそが、残酷なまでに正しい現実だったのではないか。そんな錯覚さえ抱いていた。
その時、聞き慣れた足音が、砂利を鳴らした。
「……康、さん」
小さな、震える声。
振り返ると、彼女が立っていた。
いつものバケットハット、いつものマスク。けれど、その肩はどこか強張っているように見えた。
「……来たんだね」
「うん。どうしても会いたくて……
でも、康さんはもう来てくれないって、思ってた」
彼女はベンチの端に、壊れ物を扱うような手つきで腰を下ろした。
いつもの距離が、今日はひどく遠く感じる。
「バレちゃったから……。私、AKB48の、小栗有以なの。
康さん、びっくりしたよね。引いちゃったよね。
……もう、前みたいに、普通に話してくれないかなって」
彼女の声は、今にも消えてしまいそうだった。
12歳からアイドルとして、衆人環視の中で生きてきた彼女。
正体がバレれば、誰もが自分をアイドルとしてしか見てくれなくなる。
その孤独と恐怖が、その小さな背中に滲んでいた。
康は、手の中のほうじ茶を見つめた。
正直に言えば、戸惑いはある。あの輝きを思い出すと、気後れもする。けれど――。
「……正直さ、撮影現場の有以ちゃんを見た時、別人だと思ったよ。なんていうか、遠すぎて。あぁ、これ幻だったんだなって」
有以が、目に見えて俯く。康は、言葉を続けた。
「でも、こうして隣に座って、少し困ったように笑う有以ちゃんは、私が助けたあの時の女の子のままだ。
……私にとっての有以ちゃんは、スターじゃない。
夜に、ここで一緒に笑ってくれる女の子のままなんだ」
「……よかった。……本当によかった、康さん」
有以の目から、大粒の涙が零れた。
群衆の中で見失いそうになっても、康だけは自分を見つけ出し、本当の姿を抱きしめてくれる。
群衆の中で運命は巡る――。
あの交差点で出会った時から、きっと始まってたんだ。
どんなに多くの人の中にいても、どんなに違う世界に生きていても、お互いが自分の場所で必死に光を放ち続ける限り、運命は必ず二人を再び巡り合わせる。
康は有以の手を握り、静かに誓った。
「いつか、私が主役の舞台に、有以ちゃんを招待する。その時は、群衆の中から私を見つけてよ」
有以は涙を拭い、最高の笑顔で頷いた。