短編
name chenge
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ヒールの音が、アスファルトに冷たく響く。
三月の夕暮れ。仕事帰りの私は、わざと一駅手前で電車を降りて、かつての通学路を歩いていた。
並木道の桜は、もうすぐ満開のようだ。
この道を制服で歩いていたのは、もう何年も前のことだ。
当時の私は、この桜が散るたびに何かが失われていくことにも、その季節が二度と戻らないことにも、本当の意味では気づいていなかった。
「……若さとは、過ぎていく季節に気づかぬこと」
独り言が、冷えた空気に白く溶ける。
「大人になんてなるか」なんて子供じみたことを言っていたのに、時に流されて制服を脱ぎ捨て大人になった今の私は、かつての自分たちが描いていた未来図を、現実というペンで無慈悲に修正して生きている。
夢見た職業、理想の生活。
それらはすべて、社会という枠組みに収まるように書き換えられた。
人はそれを「成長」と呼び、あるいは「大人になった」と形容する。
けれど私には、それがただの妥協の積み重ねのように思えてならなかった。
【好きだった君のこと、今でも】
年々色鮮やかになる記憶とは裏腹に、現実は彩度のないセピア色の写真のようだ。
それでも、美化された思い出と引き換えに陰りゆく日々の中で、何を見ても思い出してしまう人がいた。
秋元康。
康は、私の青春そのものだった。
私たちは、親友と呼べるほど近い距離にはいなかった。
登下校の途中で顔を合わせれば「おはよう」と挨拶を交わし、たまに「昨日の課題、難しかったね」なんて世間話をする程度。
部活のチームメイト以外で、仲のいい同級生くらいの関係だったと思う。
同じクラスになったのは3年生の一度きりだ。
部活は違ったけれど、隣り合うコートで練習する康の姿を、私はいつも追いかけていた。
授業中や練習の合間に何度も盗み見た姿。
康が髪を耳にかける仕草や、笑うときに少しだけ細くなる目、練習中の真剣な眼差しや、チームメイトとふざけているときの笑顔。
そのすべてを、私は心の中に書き留めるようにして、大切に仕舞い込んでいた。
一度だって、好きだと言ったことはない。
伝えてしまえば、この心地よい関係すら壊れてしまうのが怖かった。
そして何より、当時は「明日もまた、こうして会える」と根拠もなく信じ込んでいたのだ。
青春と気づかないままに、目の前の大切なことを見過ごしていた。
若さという傲慢さが、私から勇気を奪い、時間を浪費させたのだ。
十字路が近づいてくる。
卒業式の後、告白しようと待ち伏せたけれど、結局勇気がでなくて、何度も振り返りながら別々の道へ歩き出した、あの十字路。
ふと、前方から人が歩いてくるのが見えた。
ベージュのコートを羽織り、少し大人びた表情で、けれどどこか懐かしいリズムで足を進めてくるその姿に、私の心臓が大きく跳ねた。
「……いともも?」
その声を聞いた瞬間、止まっていた時計が急激に動き出したような錯覚に陥った。
康だった。数年の月日を経て、驚くほど綺麗になっていたけれど、その瞳に宿る優しさは少しも変わっていなかった。
「康……。どうして、ここに」
「懐かしくなっちゃって。仕事帰りに、つい寄り道」
康はいたずらっぽく微笑んだ。
その笑顔を見ただけで、胸の奥に澱のように溜まっていた大人としての私が、剥がれ落ちていく。
私たちは、十字路のそばで足を止めて、しばらくの間近況を語り合った。
今の仕事のこと、共通の友人の噂話。
会話の内容は、学生時代の世間話とさほど変わらない。
康は、私が康に対して抱いていた執着も、告白できなかった後悔も、何一つ知らない。
ただの久しぶりに会った同級生として、康は私と向き合っている。
そのことが、今の私には酷く切なかった。
私の中の康はあの頃で止まっている。
でも、眼の前にいる康は今この瞬間も自分の人生を歩んでいる。
私だけが、あの十字路に取り残されている。
「あ、もうこんな時間。ごめんね、引き止めちゃって」
康が腕時計を見て、申し訳なさそうに言った。
別れの時間が来る。また、あの日のように。
「それじゃ、またどこかで。元気でね」
康が背を向け、歩き出す。
その背中を見つめながら、私は迷っていた。
このまま見送れば、この再会は美しい思い出として残り続けるだろう。
そしてまた陰りゆく日々の中で、美化された思い出を懐かしむのだ。
――そんなのは、嫌だ。
私の足が、思考よりも先にアスファルトを蹴った。
ヒールの音なんて、もうどうでもよかった。なりふり構わず、康を追いかける。
「康……! 待って!」
私の叫びに、康が驚いたように振り返る。
肩で息をしながら、私は康の瞳を真っ直ぐに見つめた。
今さら、好きだなんて言わない。
私は今の康を知らないし、康は今の私を知らない。
今ここで告白しても、それは過去の自分と理想を押し付けるだけの、身勝手な行為に思えたから。
「どうしたの? そんなに急いで」
「……約束、してほしいの」
絞り出した声が、震えていた。
康の知らない、けれど私の中では決して消えることのなかったあの日描いた未来の続きを、今、同じ十字路で上書きする。
「来年の春。桜が咲いたら、またここで会おう。
……偶然じゃなくて、約束して、会いたい」
康は一瞬、きょとんとした顔をした。
けれどすぐに、康らしい、春の陽だまりのような笑みを浮かべた。
「……うん。わかった。約束する」
康の指が、小さく小指を立てる仕草を見せたような気がした。
私は深く、深く頷いた。
薄紅の花びらが風に舞い、康の背中が遠ざかっていく。
青春という花はあっという間に散っていった。そして同じ花は咲かない。
けれど、さっきまでの絶望感はない。
桜が葉桜になり、木枯らしに震えていた冬を超えてまた新しい蕾をつけるように。
私たちが交わした小さな約束は、次の春を待つための確かな光になった。