後編
name chenge
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【#5 触れられないくらい君が遠かった】
あれから、一年が経った。
蝉たちが降り注ぐように鳴き叫ぶ空気も、アスファルトから立ち昇る揺らめく陽炎も、あの夏と何一つ変わっていない。
坂道を下りきると、目の前が一気に開けて、まぶしいほどの青が広がる。地元の海だ。
だけど、私の隣には、もう誰もいない。
「……あいちゃん」
口の中で、ぽつりとその名前を呟いてみる。
返事は当然、返ってこない。
潮風が吹き抜けて、私の制服の裾を虚しく揺らすだけだ。
あいちゃんが東京の大学へ行くことを知ったのは、あの夏の終わりでも、秋でもなく、あいちゃんの高校の卒業式の日だった。
式が終わった後の誰もいない教室で、私はあいちゃんを問い詰めた。
どうして言ってくれなかったの、と。
あいちゃんは申し訳なさそうに、でもどこかすっきりしたような顔で「あづの邪魔をしたくなかったから」と優しく微笑んだ。
『あづには、自分の未来をまっすぐ見ていてほしかったの。私との関係に縛られないで、自由でいてほしかったから』
その言葉を聞いた瞬間、頭の中でバラバラだったパズルのピースが一気に組み合わさった。
あの日、あいちゃんが突然「告白された」なんて言い出したこと。
「本当はどう思ってるの?」と聞く私から逃げ出したこと。
全部、全部――私から距離を置くための、愛おしくて、不器用で、悲しい嘘だったんだ。
防波堤のコンクリートに一人で腰を下ろす。手には、一人分だけのソーダ味のアイス。
一口かじると、あの夏と同じ爽やかな甘味が広がって、胸の奥がツンと痛んだ。
(理由は、わかったよ……あいちゃん)
あいちゃんがどうして私を遠ざけたのか。
その理由は、今なら痛いほど理解できる。
気持ちを伝えて、自分が東京へ行ってしまったら、私の心はずっと自分に囚われたままだって考えたんだろう。
私を傷つけないため、私の未来を守るために、あいちゃんは悪者になって一人で去っていく道を選んだのだ。
理解できた。頭では、ちゃんと分かっているのだ。
けれど――理由が理解できたからといって、この胸の痛みが消えてくれるわけじゃなかった。
「……ずるいよ、あいちゃん」
アイスの棒を握りしめる手が、震える。
理解すればするほど、佐藤綺星という人は、夜空に輝く星みたいになっていく。
綺麗な光を放って私を照らしてくれるのに、どんなに手を伸ばしても、どれだけ背伸びをしても、絶対に触れられないくらい遠い場所へ行ってしまった。
あいちゃんはきっと、自分が遠くへ行けば、私のこの溢れる感情も引いていくと、時が経てば、ただの思い出に変わると思っていたのだろう。
私の中で、あの夏の出来事は今も色鮮やかなまま、私の心を締め付けている。
一人で海を見るたび、波の音を聞くたび、あいちゃんへの好きという気持ちが重く押し寄せてくる。
溺れそうだ。あいちゃんがいないこの街で、私は今もあの夏の愛しさに溺れ続けている。
防波堤の上に立ち、陽が傾き始めた水平線を見つめる。
茜色に染まり始める空と、濃い紺色に沈む海。二つの世界が交わるギリギリの境目。
くっついているように見えるのに、本当は決して混ざり合うことのない、空と海。
空があいちゃんで、海が私なら。
私たちの関係は、ずっとこの曖昧な水平線のままなのだろうか。
「……会いたいよ、あいちゃん」
引き波の音が、私の絞り出した声を飲み込んで、遠く彼方へと連れ去っていった。