前編
name chenge
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【#2 好きすぎてこれ以上近づけない】
夏休みの終わりが近づく午後の空気は、逃げ場がないほど重くて湿っている。
アスファルトから立ち昇る陽炎の向こうで、蝉たちがまるで最後の力を振り絞るように鳴き叫んでいた。
坂道を下りきると、パッと視界が開けて、まぶしいほどの青が広がる。
私たちが生まれる前からずっとここにある、地元の海だ。
「あづ、今日暑すぎない? アスファルトの上で目玉焼きが焼けちゃいそう」
私は制服の襟元をパタパタとあおりながら、となりに並ぶあづ――八木愛月を見上げた。
あづは私より一つ年下で、今年高校二年生。家が隣同士の幼馴染だ。
「焼けないってばー。それはさすがに私でも分かるよ」
「生意気~! もう少し可愛く否定してよ」
ふふっと笑い返しながら、胸の奥がキュッと小さく痛む。
あづの無邪気な笑顔も、響く声も、私に向けられる真っ直ぐな瞳も。
そのすべてが私にとって、呼吸をするのと同じくらい愛おしくて、そして同じくらい苦しい。
幼い頃から、私たちは二人で手を繋いでこの海沿いの道を歩いてきた。
女の子同士だから、手を繋いでいても、肩を寄せ合って笑い合っていても、周りはただ「仲が良い幼馴染ね」と微笑ましく見るだけだ。
その「女の子同士」という無害なレッテルに守られながら、私はずっとあづの隣に居座ってきた。
あづの柔らかい髪の匂いを知っているのも、笑うと目尻が下がる癖を知っているのも、私だけだと思っていた。
けれど、私はもう高校三年生だ。
来春には、東京の大学へ進学することが決まっている。
この街にも大学はある。でも、私の夢を叶えるために、この街を出て、遠くへ行く。
あづにそのことを言えば、あづはきっと悲しむだろう。
もしかしたら「行かないで」と引き止めてくれるかもしれない。
でも、私はあづのその優しさに甘えるわけにはいかないのだ。
(私の身勝手な想いで……あづの未来を、人生を縛り付けるわけにはいかない)
もし私のこの重すぎる想いを伝えてしまったら? あづを戸惑わせ、あづの可能性や未来を狭めてしまったら? 学生の私には、あづの人生の責任なんて持てない。
あづには普通に恋をして、普通に幸せになってほしい。
だから、この恋は絶対に隠し通して、私は一人で東京へ行く。
それが、私が自分で作った防波堤だった。
けれど、卒業が近づくにつれて、あづへの愛情は抑えきれないほど大きくなっていく。
近づけば近づくほど、不器用な太陽のようにあづを灼いてしまうかもしれない。
だから、私から距離を置かなきゃいけないのに――あづはそんな私の葛藤なんて知る由もなく、いつでも無邪気にその境界線を飛び越えてくる。
「ねえあづ、アイス食べて帰らない? ガリガリ君のソーダ味」
「いいね! あいちゃんのおごりなら行く~」
「えっ、なんで私? 先輩だから?」
「そう。太っ腹な綺星先輩のおごりです!」
そう言って、あづがおどけてぐっと距離を詰め、私の肩に自分の肩をくっつけてきた。
ふわりと肌が触れ合った瞬間、心臓が跳ね上がる。
跳ね上がった鼓動が喉を塞いで、息がうまく吸えなくなる。
「もう、あづったら……」
必死で困ったような笑顔を作りながら、私は心の中で悲鳴を上げていた。
好きすぎる。近すぎる。あづの体温が伝わってくるだけで、胸の中のさざ波が一気に大きな波になって押し寄せてくる。
これ以上近くにいられたら、大切なあづとの関係すら壊して、全部を暴いてしまいそうになる。
(お願いだから、そんなにまっすぐ私を見ないで……)
アイスを二人で買って、防波堤のコンクリートに腰掛けた。
冷たいソーダアイスを口に含みながら、私は決意を固める。
このままじゃダメだ。あづが私に甘え、私があづに甘えるこの心地いい空間を、私の手で壊さなきゃいけない。
あづに私を「ただの遠い先輩」だと思わせるために。
幼馴染がいない未来も、普通のことだと思わせるために。
「あ、そういえばさ」
海を見つめたまま、なるべく平然とした声を装って言った。
「ん? なあに?」
「今日ね、お昼休みに……同級生の鈴木くんに告白されたの」
嘘だった。鈴木くんに告白されたのは本当だけれど、私の心は1ミリも動いてなんていない。
ただ、あづとの間に壁を作るための口実として、その名前を利用した。
自分でも嫌になるくらい、ずるくて不器用なやり方だ。
「……え?」
あづの声から、一瞬で色が消えた。
隣を向くと、あづが信じられないものを見るような目で私を見つめていた。
「鈴木くん。ほら、サッカー部の。クラスが一緒で、たまに話すんだけど……お昼休みに、体育館の裏に呼び出されて『好きです』って」
私は必死に、照れくさそうな、どこにでもいる普通の女子高生の顔を作った。
あづに悟られないように。私の瞳の奥で揺れている激しい波を見破られないように。
「……で?」
「え?」
「あいちゃんは、なんて答えたの?」
あづの声が低く、鋭く響いた。
いつも明るいあづからは想像もつかないような、詰問するような強い口調。
見つめ返すと、あづの瞳の中に、揺らぐ炎のような激しい感情が見えた。
幼馴染の境界線なんて軽々と踏み越えて、私を捕まえようとする圧倒的な感情。
「あ、いや……急だったから、びっくりしちゃって。『少し考えさせて』って言っちゃった。
でも、鈴木くんすごく真面目な人だし、断る理由も別にないかなって……」
逃げるように言葉を重ねる。けれど、あづの視線は私を逃がしてくれなかった。
「……ねえ、あいちゃん」
あづが、自分の膝を抱える腕を強く握りしめている。指先が白くなるほどの力で。
「鈴木くんのこと、好きなの?」
「えっ……いや、好きとかそういうのは、まだよく分かんなくて……」
「じゃあ、付き合わないで」
――息が止まりそうだった。
「じゃあ、付き合わないで」と強い目と言葉で迫るあづ。
同性だとか、幼馴染だとか、そんなものを一切気にせず、私に真っ直ぐぶつかってくるあづの感情。
その光があまりにも眩しくて、切なくて、私の理性が悲鳴を上げる。
(ダメだよ、あづ。そんな顔しないで……そんなこと言われたら、私が勘違いしちゃうじゃん)
「あづ……?」
「なんでもない! ほら、アイス溶けちゃうよ。早く食べなよ」
あづは咄嗟に立ち上がり、海の方へ顔を背けてしまった。
防波堤の上に立つあづの背中を見上げながら、私は握りしめた手の中でソーダアイスが溶けていくのを感じていた。
あづの瞳の中にあったもの。あれは、ただの幼馴染の独占欲じゃない。
私は気づいてしまった。あづが私に向ける、あの熱い眼差しを。
あづも私と同じ気持ちなのかもしれない、という恐ろしいほどの期待を。
(……だからこそ、絶対にダメなんだ)
想いが通じ合ってしまうことほど、恐ろしいことはない。
もしあづも私を好きなら、私が東京へ行くことであづを深く傷つけてしまう。
私はここにいないのに、あづの心を縛ってしまう。
10代の短くて儚い1年を、もしかしたらその先の未来も奪ってしまう。
だから、あづの気持ちには、絶対に応えられない。応えてはいけないんだ。
水平線の向こう、空と海が重なるギリギリの境目を見つめる。
くっつきそうに見えるけど、絶対にくっつかない境界線。
あの水平線のように、あづと私は、どこまで行っても交わることはない。
押し寄せる波を食い止める防波堤のように、私は自分の胸の痛みを固く閉じ込めた。
「……好きだよ、あづ」
口の中で、音にならない言葉を呟く。
夏の強い日差しが、私たちのあいだにある触れられない距離を、痛いほどに照らし続けていた。