前編
name chenge
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【#1 ずっと近くにいたのに】
夏休みの終わりが近づく午後の空気は、いつもどこか重たくて湿っている。
アスファルトから立ち昇る陽炎の向こうで、蝉の声が途切れることなく響いていた。
坂道を下りきると、目の前が一気に開けて、鮮やかな青が視界いっぱいに飛び込んでくる。
見慣れた地元の海だ。
でも今日の海は、いつもよりもずっと深い青色に見える。
「あづ、今日暑すぎない? アスファルトの上で目玉焼きが焼けちゃいそう」
隣を歩くあいちゃん――佐藤綺星が、制服の襟元をパタパタとあおりながら言った。
白いシャツの袖から伸びる腕が、午後の強い日差しを浴びて少し透き通って見える。
「焼けないってばー。それはさすがに私でも分かるよ」
「生意気~! もう少し可愛く否定してよ」
ふふっと柔らかく笑うあいちゃんの声に、私もつられて口元を緩める。
私、八木愛月とあいちゃんは、家が隣同士の幼馴染だ。
学年はあいちゃんが一つ上で、今年で高校三年生。私は高校二年生。
幼い頃から、この海沿いの通学路を二人で歩くのが当たり前だった。
手を繋いで走った昔のことも、潮風に混ざる塩の匂いも、防波堤にぶつかって砕ける波の音も。
そして隣で優しく笑うあいちゃんの横顔も。
私にとってそれは、生まれてからずっとそこにある、当然の存在だった。
女の子同士だから、距離が近くたって誰も怪しまない。
肩を抱き寄せても、腕を絡ませても、「仲が良い幼馴染だね」で片付けられる。
その気安さに、私はずっと甘えていたのかもしれない。
「ねえあづ、アイス食べて帰らない? ガリガリ君のソーダ味」
「いいね! あいちゃんのおごりなら行く~」
「えっ、なんで私? 先輩だから?」
「そう。太っ腹な綺星先輩のおごりです!」
おどけてぐっと距離を詰め、あいちゃんの華奢な肩に自分の肩をくっつけると、あいちゃんは「もう、あづったら……」と困ったように、でも嬉しそうに微笑んだ。
変わらない日常。明日も明後日も、来年も、ずっとこうやってくだらない話をしながらこの道を歩くのだと、私は疑いもしなかった。
あいちゃんが隣にいる。それが世界の絶対的なルールなのだと、本気で思っていたのだ。
――あの言葉を聞くまでは。
「あ、そういえばさ」
アイスを買って、防波堤のコンクリートに二人で腰掛けた時だった。
ソーダ味のアイス棒を咥えながら、あいちゃんがどこか遠くを見るような目をして言った。
「ん? なあに?」
「今日ね、お昼休みに……同級生の鈴木くんに告白されたの」
ソーダアイスの爽やかな甘味が、急に口の中で消えた。
ミンミンと鳴き叫ぶ蝉の声が、一瞬で遠のく。
「……え?」
思わず間抜けた声が出た。
「鈴木くん。ほら、サッカー部の。クラスが一緒で、たまに話すんだけど……お昼休みに体育館の裏に呼び出されて『好きです』って」
あいちゃんは照れくさそうに、でもどこか困ったような微笑みを浮かべて、ソーダアイスの端っこを削るように噛んだ。
その横顔を見た瞬間、私の胸の奥で、ドクンと嫌な音が弾けた。
胸が痛い。冷たい鉄の塊を直接心臓に押し当てられたような、息が詰まるほどの激痛と、マグマより熱いドロドロとした黒い感情が内側から溢れ出してくる。
(鈴木くん? 誰それ。なんであいちゃんに触ろうとしてるの……?)
「……で?」
「え?」
「あいちゃんは、なんて答えたの?」
自分でも驚くほど、詰問するような強い口調になっていた。
あいちゃんが驚いたように目を丸くして、私を見る。
「あ、いや……急だったから、びっくりしちゃって。『少し考えさせて』って言っちゃった。
でも、鈴木くんすごく真面目な人だし、断る理由も別にないかなって……」
断る理由がない?
嫌だ。絶対に嫌だ。
あいちゃんが誰か他の男の子と手を繋ぐ? 私に向けられるはずのあの柔らかい笑顔を、誰か他の人に向ける? 誰かの「特別な人」になる?
(ダメ。あり得ない。絶対に嫌……!)
激しい嫉妬の波が、猛烈な勢いで私の中に押し寄せてきた。
女の子同士だからなんて関係ない。幼馴染だからなんてどうでもいい。
私は、あいちゃんが好きだ。
頼れるお姉ちゃんとしてでも、大好きな幼馴染としてでもなく。
一人の女性として、佐藤綺星のことが、狂おしいほど大好きなんだ。
カシャン、と音を立てて、私の中で何かの鍵が外れた。
ずっと近くにいたのに、こんな感情は初めてだった。
発見したんだ。ずっとずっと昔から胸の奥に眠っていた、けれど幼馴染という境界線の影に隠していた本当の気持ち。
私は、ずっとあいちゃんに恋をしていたんだ。
「あづ……? どうしたの、そんな怖い顔して」
あいちゃんが心配そうに顔を覗き込んできた。
真夏の強い太陽の光が、あいちゃんの髪を、濡れたような瞳を、薄い唇を黄金色に照らしている。
目を細めてしまうほど、ハッとするほど綺麗だった。
息を飲むほど美しくて、尊くて、触れることすら躊躇われるほどに眩しかった。
「……ねえ、あいちゃん」
私は膝を抱えていた自分の腕を、白くなるほど強く握りしめた。
「鈴木くんのこと、好きなの?」
「えっ……いや、好きとかそういうのは、まだよく分かんなくて……」
「じゃあ、付き合わないで」
口から出た言葉は、自分でも驚くほどワガママで、ストレートだった。
同性だからとか、幼馴染だからとか、そんなことは一瞬で吹き飛んでいた。
あいちゃんは「え……?」と声を漏らし、きょとんとした顔で私を見つめている。
「あづ……?」
「なんでもない! ほら、アイス溶けちゃうよ。早く食べなよ」
これ以上何かを言えば、自分を抑えきれなくなって「私の方が好き」と叫んでしまいそうだった。
私は立ち上がり、防波堤から海を見下ろした。
視線の先で揺れる海は、いつもの見慣れた優しい青ではなかった。
太陽の光を吸い込んで、底が見えないほど深く、濃く、重たい青。
それは、私の胸の中に芽生えた――ううん、ずっと前から育っていた愛という名の感情そのものに見えた。
ずっと近くにいたのに。同性だからって、何でも言い合える一番近い場所にいたはずなのに。
私は今日、初めて佐藤綺星という人に恋をした。
押し寄せる波の音が、私の激しい鼓動と重なって、うるさいほどに響いていた。
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