コートでは誰でもひとり
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さとりが髪を切った。
山吹中テニス部において、それはなかなかの大事件であった。朝練に肩より上までの結構なショートヘアになった彼女を見て、皆心の中でざわついていた。表に出すと睨まれるからだ。
ことの発端はその前日のミーティングである。
珍しくやってきた亜久津仁の特性:威嚇によりみんな、通常より多めの汗をかいていた。多分、攻撃力も下がっていただろう。南が話題を普段の生活態度から地区予選の話に切り替えたとき、亜久津が漫画を読みだした。ちょっと前に流行っていた登場人物全員ヤンキーの漫画だ。ヤンキーがヤンキーのマンガ読むとかギャグかよ、なんか美学が合うとかあんのかな……とさとりは思ったのだが、南が少しムッとした顔で「お前も地区予選出るんだから、この話くらい真面目に聞いてくれ」と彼を注意した。意気込みとか決意表明が主だが、注意事項もあるから、レギュラーなら聞いておくべきだ。南の注意はもっともである。
――― ああ? 誰に言ってんの? 俺に指図すんじゃねーよ!
湯沸かしケトルを凌ぐ速度でキレた亜久津はゆらりと立ち上がり、みんなの前にいた南の胸倉を掴んだ。そして、流れるような動作でその頬を拳でぶん殴ったのである。驚いた一年生が目を覆う暇もなかった。勢いでロッカーにぶつかった南の方へ正気に返った東方が駆け寄る。いきなり部長を殴られて非難するような目を他の部員たちは亜久津に向けた(千石だけは面白そうだったが)。居心地が悪くなったのか、チッと舌打ちをすると荒々しくドアを開けて部室を出ていく。その衝撃で部室のドアが倒れて、窓ガラスがガシャーンッと音を立てて割れた。
ガラスが割れた音を皮切りに緊張の糸が切れた一年生が泣き出した。北野も泣いている。壇は美術部に用事があると言って、この場にはいなかった。壇がこの姿を見てしまわなくてよかった――さとりはなんとなくそう思った。
それよりも殴られた南と泣いている一年生、そして割れた窓ガラスである。南が東方から渡されたアイシング用のアイスノンで頬を冷やしながら、室町ら二年生に指示を出して、窓ガラスを片付けるように指示を出した。東方と新渡米が泣いている一年生をフォローしている。錦織は伴田を呼びに行った。
これまで茫然と一連の事件を見ているだけだったさとりだが、急に予備のラケットとボールを引っ掴むと開けっ放しのドアから外へ飛び出した。今すぐにでもあの不良にわからせてやらねばならない。その一心だった。南が「さとり!」と呼び止める声も聞こえないふりをした。
しばらく走ると亜久津はテニスコートの近くでタバコをふかしていた。その煙が一層、さとりをブチギレさせた。ボールをぽん、と上に投げると跳びはねながら、亜久津の後頭部にサーブをぶち込む。彼も相手が女だからと完全に油断していたのか、直撃だった。ボールをぶち当てられた後頭部を撫で、「テメェ……」と殺意のこもった声でそう言いながら、さとりを睨みつけた。小動物くらいは殺せそうな気迫だったが、さとりは怯まずにラケットで亜久津の方を指す。
――― 今すぐ南に土下座して謝ってよ!
――― テメェ、潰す!
にじり寄ってきた亜久津がさとりの胸倉も掴むが、変なアドレナリンが出ているのかまったく怖くない。それどころか、彼女も睨み返している。「お、おい! 何やってんだ! 亜久津!」といつの間にかやってきた南が叫ぶ。めちゃくちゃ青い顔をしていた。南以外の部員たちもぞろぞろコートの方へやってきていた。
――― テニスで決着つけようよ。わたしが勝ったら、亜久津が頭丸めて南に謝る。亜久津が勝ったら、わたしが坊主になる。それでいいでしょ。
――― 勝っても負けても俺にメリットがカケラもねえじゃねえか。アホくせえ。
――― へえ~、不戦勝で坊主にして南に全裸で土下座して謝ってくれるんだ。
――― ア? 俺への要求が増えてんじゃねーか! テメェ、ふざけんなよ!
ようは南に謝罪してほしいさとりの要求に亜久津はツッコむ。要求以外はクソ真面目なさとりはそのまま亜久津にガンをとばしていた。観念したように亜久津が長いため息を吐いた。
さとりは南への謝罪を求めて、果敢にも亜久津に挑んだ結果、見事に散った。近年稀にみる惨敗だった。さすがの亜久津も坊主は勘弁してくれたのだが、きっちり一つくくりにしていた髪だけは持って行った。
試合に負けた上、女子だからと対応を甘くされたのはさとりにとってとても屈辱的で帰り道に寄った美容室で坊主にするよう要求したのだが、これも南と東方に止められて(心配してついてきていた)、雑に切られた髪をきれいに整えてもらう程度にとどまった。ペラペラ自分の学生時代についてしゃべる美容師の話を右から左に流しながら、ずっとさとりは涙をこらえていた。
「おはよ~! さとりちゃ~ん、ショートヘアも似合ってるね!」
不機嫌を通り越して真顔で作業しているさとりに声をかけたのは、朝練時間もあとわずかというところで現れた山吹中テニス部シングルスのエース・千石清純だった。世の中の女子を愛しているという女子限定博愛主義者の彼だが、彼も昨日の経緯を見ているはずだ。それでこの挨拶はさすがにないだろう。
「ああ、おはよ、千石」
「西広、朝ごはん食べてないの? 大丈夫そ?」
「普通に食べてきたから大丈夫。ていうか、千石、普通にめちゃくちゃ遅刻してるよ。ほら、南に怒られてきな」
ぺらぺら軽口を叩く千石に対し、さとりは今すぐ怒られて来いとばかりに南を指さした。
女子限定博愛主義者の千石だが、割と普段から話している女子への対応は普通だった。だから、さとりを呼ぶときもからかうときだけ「さとりちゃん」で普段は「西広」と苗字だ。これでもし普段からさとりちゃん扱いだったら、舐めた口を利くな、とさとりもキレていたことだろう。
「ええ~……西広が代わりに怒ってくんない?」
「千石もこのボールペンみたいになるけどいい?」
とんだ軽口を叩かれたのでさとりは持っていたボールペン(百十円十本入りのうちの一本)を片手で折った。とんだパワータイプである。真っ二つに折れたボールペンを見て、さーっと千石の血の気が引く。
「俺が悪かったよ……南に怒られてきます」
「南は優しいから生命まで取りはしないもんね。口うるさいけど」
「まあ……そうだね」
件の南がラケットで肩を叩きながらこちらを睨みつけている。はあ、と深いため息を吐きながら、千石は南の方へ行った。千石なりに気を遣ってくれたのだろうとすぐにさとりは察した。おかげで、極限までテンションが下がっていたさとりも少しながら気持ちが回復した。ありがとう、の気持ちを込めて千石の背中を見つめた。
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