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誰が海馬を殺すのか

 二宮が、頭を打ったらしい。
 学校から本部へ行こうとした時に、太刀川から二宮が病院に運ばれたと連絡があった。
「ッ、はあ、はあっ……!」
 病室までの道を走る。
 あの二宮が怪我をするなんて。しかも、頭を打つなんて。
「二宮さん……!」
 病室に入ると、目に入ったのは頭に包帯を巻いている二宮だった。
「……」
「アンタ、大丈夫ですか!? 頭打ったって……! 自分の名前とかわかりますか!?」
 二宮が、怪訝そうな顔で出水の方を見る。
「お前は──誰だ?」
「へ……?」
 二宮の口から出た言葉を、出水は理解できなかった。
 誰? 誰って、俺に向かって言ったの、この人?
「な、に、言ってんすか、出水公平ですよ。冗談キツいって……」
「悪いが、お前の顔に覚えがない」
 酷く冷静な声が、病室に響く。
 背筋が凍るような感覚がした。
「な、に…………」
 手が震える。うまく呼吸ができない。
 自分の体温が奪われていく感覚がやけにリアルだった。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。
 まさか、二宮が出水のことを忘れるなんて、そんなことがあるはずがない。
 あんなに大切だと言ってくれたのに、隣にいたのに。
 全て、忘れる、なんて────
「……ほんとに、覚えてねーの?」
「ああ。その服でボーダーの隊員だということは分かるが……」
「────」
 耳の奥にぐわんぐわんという音が響く。
 自分が二本の足で正常に立てているかわからない。
「っ、あ…………」
「出水、と言ったか。お前は──俺の何だ?」
「お、俺、は……あんたの、────」
 恋人です、とは言えなかった。
「後輩、です……」
 絞り出した声は、震えていた。
「すみ、ません。俺、失礼します」
 そう呟いて、病室を後にする。
「おい、待て」
 二宮の制止の声は、聞こえないふりをした。

 記憶障害。それが、二宮につけられた症状の名前だった。
 自分の名前や所属、ボーダーのこと、戦い方などの記憶に欠落は見られなかった。
 ただ、一つ。
 恋人である出水のことだけが、記憶から抜けていた。
 病室から逃げた次の日、太刀川経由でそう知らされ、出水は目の前が真っ暗になった。
「なんだよ、それ……」
「医者によれば、記憶に関連することに触れたり刺激を与えることで記憶が戻る可能性が高くなるらしい」
「……戻らない可能性も、あるんですか?」
「そればっかりはわからんとさ。出水、記憶を取り戻すために二宮となるべく一緒に──」
「無理です」
 出水は俯いて、きっぱりと告げた。
「出水……」
「今、あの人の前で笑える自信、ないです……」
「……そうだな、キツイな」
 太刀川が出水の肩を叩く。
「アイツのことだ。どーせすぐに思い出すさ。その時に土下座でもさせりゃいい」
「そ、っすね……」
 本当に、そんな日が来るんだろうか。
 出水は、痛んだ胸を押さえつけた。
 
「出水」
 ボーダーの廊下で、呼び止められる。
「……二宮さん」
 二宮はもう包帯を巻いていなかった。
「もう、退院したんですか」
「ああ」
「……俺に、何か用です?」
 二宮はスーツのポケットから手を出して、出水の前で開いた。
「俺の家に置いてあったものだ」
「……!」
 それは──ガチャガチャの景品の、ハンバーグの食品サンプル。
 ふたりでデートをした時にたまたま出水が見つけたのが、喫茶店のメニューを模したガチャガチャだった。
 最初はエビフライあるんだ、と何気なく見ていただけだったが、二宮が欲しいならやるか、と勝手に百円玉を入れてしまった。
 一回目はハンバーグ、二回目にエビフライが出た。
 ──じゃあ、二宮さんハンバーグね。
 ──俺はいらん。
 ──そんなこと言わないでさ、家にでも飾っておいてくださいよ。
 そんなことを言って、二宮に似つかわしくないハンバーグの玩具が飾られることになった。
「……これが、何なんですか」
「俺の記憶にないということは、お前関連のものだろう」
「…………だから?」
「俺とお前の関係を教えろ。ただの後輩からもらったものを飾る趣味はない」
「っ……!」
 言えば、信じるのか。
 俺はアンタの師匠で、恋人です、と。
 きっと信じない。きっと酷く不快な顔をして、冗談を言うなと言われる。
 二宮の口から否定の言葉を聞くのは、嫌だった。
「ふつーに、仲いい先輩後輩でしたよ、俺ら」
「……本当か」
「はい。その玩具、いらないんなら俺がもらいますね」
 二宮の手から、玩具を取る。
 どうして。
 なんで忘れちゃったんですか、二宮さん。
 一緒にガチャガチャのコーナーにしゃがみこんで取ったやつじゃん、これ。
 いい歳した大人がそんなことするの珍しいから、俺が写真撮ったらちょっと不機嫌な顔したじゃん。
 エビフライ出るまで回すっていうから、俺めちゃくちゃ焦ったんだよ。
 二回目で出た時、嬉しいよりもよかったって気持ちの方が大きかった。
 俺が大事にしますねって言ったら安い奴だなって、アンタ笑ってたよ。
 なのに、なんで、どうして。
 普通、こういう思い出の物見て、思い出したりするんじゃねーの。
「こんなもん、二宮さん持ってても困るでしょ。それじゃ」
 踵を返して、二宮の前から立ち去ろうとする。
「出水」
 それを、二宮が引き留める。
「仲が良かったってんなら、どうして俺の目を見ない」
 そんなの。
 目を見たら、絶対泣いてしまうから。
「……俺、人と目合わせんの苦手なんで」
 そんな嘘をついて、駆け足で廊下を去った。
 太刀川隊の隊室に駆けこむ。
 幸い、部屋は無人だった。
 ドアにもたれかかって、ずるずると座り込む。
「っ、う……」
 視界が歪む。
 安っぽい食品サンプルは、出水の手の中で、その存在を主張していた。
 確かに、ここにあったはずなのに。そう、言っているようで。
「う、ああっ……うああああああああああっ……!」
 ない。もう、居ない。
 二宮の中には、出水を愛した記憶も、出水に愛された記憶も、ない。
 それがどうしようもなく悲しくて苦しくて。
 出水は、ずっと泣き続けた。

「おい二宮」
 いつもへらへらとした声が、怒りをはらんでいるのがわかった。
 二宮が振り返ると、太刀川が笑いながら、その顔に怒りを滲ませていた。
「何だ」
「お前、出水に何した」
「……お前に関係あるか」
「出水はウチの隊員なんだよ。あいつに、何した?」
 口調はいつものように軽いが、決して相手を逃がすつもりはないような、冷たい声。
「記憶を失くす前の関係を聞いた」
「へえ。……それで、アイツはなんて?」
「ただの先輩後輩だと言われた」
「で? お前はそれを馬鹿正直に信じたわけ?」
「……出水が何かを隠しているのはわかってる。だが、無理に聞くこともないと思っただけだ」
「お前、ほんと最低だな」
「……お前にそんなことを言われる筋合いはない」
「いやいや、すげーよマジで。アイツにどんだけ悲しい思いさせてるかわかってねーんだから」
「……何だと?」
「そりゃ出水も泣くわ。もー思い出してもお前に出水はやらん」
「待て、俺に忘れられてどうして出水が泣く」
 その言葉に、太刀川が動いた。
 二宮のスーツの胸元を掴んで、怒りを露わにした。
「惚れた相手に忘れられて、泣かない奴いるわけねーだろーが!」
「……惚れた相手?」
「そーだよ、お前出水に惚れてたんだよ! そりゃもうキモいくらいデレデレだったわ!」
「待て、出水は男だろう」
「それでも惚れてたんだよ! 出水がどんだけ泣いてるか知ってっか、毎日だ毎日!」
「……」
「家で泣いてるだけなら俺も放っておいた。けどな、いつでも空気読むアイツが隊室で、ひとりで大泣きしてたんだよ、お前のせいで!」
「…………」
「……これだけ言ってもまだ思い出せねーのかよ」
「……出水は、何処に」
「誰が教えるか。思い出せないなら、これ以上出水に近づくんじゃねえ」
 太刀川の手が離れる。
 何も、思い出せない。
 それなのに、出水を泣かせてしまったという事実が、コールタールのように胸の中で渦巻いていた。

 出水は、太刀川に頼まれて書類を届けに風間隊の隊室に赴いた。
 用事が終わり、早く戻ろうと足を進めた時だった。
「出水」
 世界で一番大好きな、けれど今は最も会いたくない人の声がした。
「……二宮さん」
「俺がお前に惚れていたというのは、本当か」
「──!」
 突然の言葉に、絶句する。
 本当か、ということは、まだ記憶を思い出していないということだ。それなのに、何故。
「太刀川から聞いた」
「……は、あの人余計なこと……」
「答えろ。本当か、出水」
 本当か、なんて。
 ──出水。
 ──出水、好きだ。
 ふたりきりでいた時の、甘やかな声を思い出す。
 同じ声、同じ言葉なのに、あまりにも温度が違いすぎて、悲しかった。
 俺が恥ずかしくて嫌になるくらい好きって言ってたのは、アンタなのに。
「……アンタが、それ言います?」
 笑った、つもりだった。
 なのに、涙が一筋、零れてしまった。
「……!」
「俺のこと、全部忘れて、でもアンタは普通に生活送れてて、俺、アンタにとって何でもなかったんだって思い知らされて」
 そうだ。それが一番悲しかった。
 君がいなければ生きていけない、なんて口説き文句があるけれど、そんなのは嘘だ。
 ふたりは、同じ隊の人間でもなければ、同棲していたわけでもない。
 出水のことを忘れても日常生活に支障などなく、それはつまり、いてもいなくても変わらないということで。
 出水は二宮に忘れられて、毎日悲しくて、食欲もなくなって、二宮と幸せだったころの夢を見ては涙を流して、ずっと、ずっと、苦しいのに。
 そんなことお構いなしに、二宮の世界はいつも通りに回る。
 酷い。人をこんなに好きにさせておいて、傷つけて。
「出水」
「もう、いい。俺に構わないでください」
「出水!」
 二宮が出水の手を取る。
「ッ離せ!」
 出水は、それを振り払った。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 こんなみっともない姿を、もう見られたくない。
「俺のことなんか忘れたままいりゃいいだろ、それで困ってねーんだから!」
 そう言い捨てて、走り去る。
 二宮は、追いかけてこなかった。

 人の涙というものを、久しぶりに見た。
 二宮は隊室で出水のことを思い出していた。
「……出水」
 口に出した言葉が、酷く耳に馴染む。
「え? 何か言いました?」
 犬飼がこちらを向く。
「……何でもない」
「そうですか。そういや二宮さん、昨日遅くまで残ってましたけど大丈夫だったんですか?」
「……何がだ」
「いや、前から大事な用事があるから早く上がるって言ってたのによかったのかなって」
「用事……?」
 スマートフォンを開いてスケジュールを確認しても、特に予定は入っていない。
「いや……」
 大事な、用事。
 それがやけに引っかかる。
 スマートフォンに表示された数字の羅列を見てると、頭がツキリと痛んだ。
「……?」
 ──付き合って、もうすぐ一年じゃないですか?
 ──そうだな。
 ──じゃあ、記念日にデートしましょ。
 ──平日だから遊びには行けないだろう
 ──いいです、二宮さんの家で一緒にいたいです!
 そんな言葉が、頭の中に響いた。
「っ……」
 頭の痛みがひどくなる。
 思わず頭を押さえた。
「二宮さん、大丈夫ですか?」
 犬飼の心配の声が、やけに遠くに感じた。
 ズギリ、ズギリ。痛みの中で、出水の声がする。
 ──二宮さん、二宮さん。
 ──何度も呼ばなくても聞こえてる、出水。
 そうだ、出水は事あるごとに二宮の名前を呼んでいた。
 アンタが応えてくれるのが好きなんです、そんな事を言っていた。
 ──じゃあ、二宮さんハンバーグね。
 ──俺はいらん。
 ──そんなこと言わないでさ、家にでも飾っておいてくださいよ。
 ショッピングモールの一角で、一緒にガチャガチャを回した。
 ──二宮さんが、すき、です。
 真っ赤な顔で、告白をされた。
 そうだ。昨日は、昨日は。
 出水に──告白された日だった。
「出水……」
「二宮さん、頭痛いんですか? もしかしてこの前の後遺症とか……」
「……違う。出水のことを、思い出した」
「えっ」
「行ってくる」
「え、ちょっと二宮さん!?」
 二宮は立ち上がって、急いで部屋を出た。
 早足で、太刀川隊の隊室へと向かう。
 記憶を失くしていた時の自分を殴りたい。
 出水を泣かせた。悲しませた。寂しい思いをさせた。
「チッ……」
 二宮とすれ違った人間はのちに、二宮が人を殺しそうな形相で歩いていたと噂した。

「出水、休憩したい」
「駄目です。十分前に取ったばっかでしょ」
「えー」
 出水は太刀川隊の隊室で、太刀川のレポートを手伝っていた。
 正直、手を動かしていたほうが気が紛れて有難い。
 だが、レポートを出さなければいけない本人がやる気を出していないというのはどういうことだろうか。
「ほらやりますよ。あとちょっとですから」
「うー……」
 今日は帰るの遅くなりそうだな、なんて思って時計を見ていた時だった。
 ノックもなしに扉が開く。
 そこにいたのは、二宮だった。
「二宮、さん?」
 二宮がノックをしないなんて珍しい。しかも、額に汗がにじんでいる。よほど急ぎの用だろうか。
「何だよ二宮、今レポートやってるから用事なら後──」
 太刀川の声を無視して、二宮がソファに座っていた出水の方に向かう。
「あの、二宮さん?」
 どうしたんですか、と声をかけようとした瞬間、抱き締められた。
「え、えっ!?」
「……出水」
 二宮の口から漏れたのは、小さな呼び声。
「昨日の約束、すっぽかして悪かった」
「え……」
「今からでも、取り返せるか」
 昨日の、約束。
 付き合って一年の、記念日。
 それを知っているということは、まさか。
「思い……出したんですか?」
「……ああ」
 二宮の腕の力が強まる。
 じわりと、視界が滲んだ。
「……っ、ふ、ふざけ、んな」
 ぼろぼろと涙を零しながら、言葉を口にする。
「忘れられて、俺が、どんだけ傷ついたと、思って」
「……悪かった」
「全部、全部忘れられて、すげえ、寂しくて、本当に、死ぬかと、思ったんだからな!」
 二宮の胸をどんどんと叩く。
 酷い男だ。本当に。どれだけ出水が悲しんだか知らないだろう。
「悪かった、出水。一生かけて償う」
「やだ、一生許さねえ! 事あるごとに掘り返してやる!」
「……ああ。それでいい」
「っ、う、馬鹿、二宮さんの、大馬鹿野郎……」
 出水の少ない語彙では、それが精いっぱいの罵りだった。
 二宮の背中に腕を回して、胸に体重を預ける。
「うう、うああっ……!」
 久しぶりの体温が懐かしくて、嬉しくて、涙が止まらない。
「出水」
 胸に顔を押し付けたままの出水の髪に、二宮の唇が触れる。
「にのみや、さん」
 くすぐったいそれは、二宮が出水を甘やかす時の癖だ。
 ようやく戻ってきてくれたのだと、出水は実感する。
 軽いキスの後、二宮の手が出水の頬に触れた。
 それはふたりの間の、キスをする合図。
 目をつむって、出水は唇が触れるのを待った。
「はーい、そこまでー」
「へっ!?」
 突然降った声に、出水は目を開けた。
「あのさ、俺がいるの忘れないでくんない?」
「た、太刀川さん……」
「イチャつくなら後は家でやってくんねーかな。俺いたたまれないんだけど」
「……そうだな。出水、帰るぞ」
「あ、でも俺のレポート終わってないから出水は置いていってくれると助かる」
「レポートくらいひとりでやれ。出水、行くぞ」
 二宮が隊室から出ようとする。
「え、あっ、ちょっと待ってください!」
 出水は急いで荷物をまとめて、二宮の後を追った。

 二宮の家に着いて玄関の扉を締めた途端、二宮に抱き締められる。
「わ、ちょっと二宮さん?」
「……出水」
 ひどく、疲れた声だった。
「……へへ、イチャつけるの、久しぶり」
「……本当に、悪かったと思ってる」
「うん、一生許さないけど、それはわかった」
 二宮の胸に耳を当てれば、とくとくと心臓の音がした。
「……よかった、思い出してくれて」
 もう、この腕の中に帰れないかと思った。
 世界で一番安心する、出水の居場所。
「出水、あのハンバーグの玩具、まだ持ってるか」
「え? あ、はい」
 ポケットの中から、食品サンプルを取り出す。
 二宮はそれを受け取り、大事そうに握り締めた。
「もう忘れないでくださいね?」
「……ああ」
「次忘れたら、マジで殴るから」
「そう、だな。それくらいしてくれ」
 握り締めた手に、そっと手を重ねる。
「……昨日の仕切り直し、何がしたい?」
「とりあえず、ソファでイチャイチャしましょ。そんでそのあとベッド行って、思い切り可愛がってください」
「わかった。……出水」
「ん?」
 二宮の唇が、出水の唇に触れる。
「ただいま」
「……うん。お帰り、二宮さん」
 出水は、心からの笑顔で、世界で一番大好きな人の帰りを受け入れた。
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