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藍よ、藍よ。

藍よ、藍よ。
 
*
「なあ、まだ思い出さねーのかよ」
「思い出すも何も―、ミーは虫歯菌なんて知らないんですってー」
「だからいい加減その呼び方やめろっつってんだろ!」
 アルコバレーノの呪いが解けてから五年。
 ベルフェゴールが定期的に黒曜を訪れるのも、日常となりつつあった。
 フランが失った記憶は、脳への物理的な衝撃が原因である。
 何かの拍子に戻る可能性もあり、定期的に日本に赴き観察、もし記憶を取り戻したなら、もしくはヴァリアーに相応しい実力がつき次第、すぐ連れてくるように──
 それがベルに言い渡された命令だった。
「つーかお前、リンゴ頭どーしたんだよ」
 三ヶ月ぶりに見たフランは、いつものにリンゴの被り物をしていなかった。その代わりか、小洒落たニット帽を被っている。
「あ、あれですかー?校舎の玄関に引っかかるんでやめましたー」
「マジメにガッコー行ってんだ」
「師匠がいろんな経験しないと幻術のレパートリーが増えないとかなんとかー」
「へー」
 正式に入学していない時から黒曜の制服を着ていたせいか、その姿に新鮮味はない。言われなければ新入生と気づかない程だ。
 ──制服が似合うなら、まだまだガキだな
 ベルは心の中でそう思いながら、物足りないフランの頭をぽんぽんと叩いた。
「じゃーな、次来る時まで思い出せよクソガエル」
「二度と来んな虫歯菌―」
 五年間変わらない毒舌。
 それに苛立ちはするものの、そこまで不快ではないことを、ベルは少しだけ認めはじめていた。

*
「師匠、戻りましたー」
「おやフラン、遅かったですね」
「まーた虫歯菌に捕まっちゃったんですよー」
 もーそろそろ諦めてくんねえかな、とフランは心の中で毒を吐く。
 骸は己のテリトリーに入ってきた人間を把握している。勿論、ベルがフランの観察に来たのも知っている筈だ。
「クフフ、そう言いながら楽しそうじゃないですか」
「師匠実は目見えてないんですかー?めんどーなことこの上ないですー」
「素直じゃありませんね。お前はどう思ってるんです?ヴァリアーに行く気が無いわけではないでしょう。実力もそれなりについてきた。今後記憶が戻らなくても充分やっていけるはずです」
「……給料が出るのは嬉しいですけどー、あの虫歯菌と同じ職場ってのはちょっとー。それに……」
「知らない自分を勝手に知られているのが怖い、ですか?」
「っ……」
 骸の鋭い眼光に、思わず身体が竦む。
 自分も知りえない本心すら、全て見透かされるような──
「……そもそもあいつ、ミーのこと『カエル』とか『クソガエル』とか呼ぶんですよー?なーんでミーがカエルなんですかー」
 視線を振り切って会話を逸らそうとした瞬間、端に積まれた瓦礫の一部が、フランの足を掬った。
「──おわっ」
 バランスを崩した身体はそのままもつれ、一段低くなっている天井に、勢いよく衝突する。
「いでっ!」
 ぐわんぐわんと頭が揺れる感覚がして、フランはその場に蹲った。
「ってー……」
 ふざけんな、今日は厄日か。
 痛みをこらえながら立ち上がろうとした、その瞬間。
 突然、見覚えのない映像が頭に流れ込んだ。
 カエルの帽子を被った、幾分か年を取った自分が気だるそうに、ヴァリアーの隊服に身を包んでいる。
「え、あ……?────なんだ、これ」
 ミルフィオーレ、イタリアの主力戦、ベルフェゴールそっくりの六弔花、死んだアルコバレーノ、復讐者の牢獄。十年前から来たボンゴレ十代目とその守護者。
 知らない、なんだこれ、ミーはこんなの、こんなこと覚えてない──
 フィルムが擦り切れた映画のように、いろんな映像が断片的に現れては消えていく。
「あ、あ────」
「フラン?」
 フランの異変に気づいた骸が、フランの顔を覗き込む。
「っ、あああああっ…………!」
 ズキ、と頭痛が一層ひどくなる。
 耐え切れなくなって、フランはその場に倒れこんだ。
「フラン!」
 未来の記憶は、白蘭が倒されアルコバレーノが復活し、ボンゴレ十代目達が過去に戻った時点で一度途切れた。
 そして、追憶はもう一度、フランの頭に流れ込む。
「っ───」
 思い出してはいけない記憶──否、思い出したくない記憶がある気がする。
 それはいつかの、ありふれた殺しの場面。
 血と、炎と、宙を舞う銀と、上機嫌な笑い声。
「センパイ……」
 地獄のような場所で踊るように駆けているのは、金色の────────
「ベル、センパイ────」
すうと頭が冷えていく感覚が、打ちつけた痛みを消していく。
「……師匠」
 フランは骸を振り切って、何事も無かったように立ち上がった。
「何ですか、フラン」
「思い出しましたー……多分、全部」
「……おや」
「頼み事があるんですけどー」
 己の声は、驚く程に抑揚が無かった。
 *
 ────おかしい
 あからさまに、避けられている。
 ここ半年ほど、ベルが黒曜に赴いても、フランは姿を現さなかった。
「っざげやがって、あのクソガキ」
 ──五年。あの未来に至る半分の月日をかけて、フランの心に入り込んで、やっと最近可愛げが出てきたと思っていたのに。
「ぜってー捕まえてやる……」
 錆びついた扉を前に、ベルは苛立ちを隠すことなく呟いた。
「……まずは、保護者にクレーム入れてやらねーとな」
 扉を蹴り飛ばすと、複数の殺気が肌を焼く。
「誰だびょん!」
 かつて映画館だったそこには六道骸と、その手下達が揃っていた。
「ヴァリアー……!」
「いきなり何の用!?」
 骸以外は突然の侵入者に、殺気を放っている。
 だが、ベルはそれらを意に介さず、骸に視線を向けた。
「よう六道骸、フランどこにいんだよ」
 骸は一切顔色を変えず、ベルの問いに応えた。
「おやおや、ヴァリアーの切り裂き王子ですか。さて……僕は何もしてません。おチビも中学生になりましたからね、忙しいのでは?」
「しらばっくれんな。あいつ一人の力でオレから隠れられる訳ねーだろ」
「ちょっと、いきなりなんなの!急に来て骸ちゃんにその態度、何のつもりよ!」
 派手な髪色の女が、ベルの前に立ちはだかる。
 確か未来でも黒曜の連中と一緒に行動していて、フランが『ネーサン』と呼んでいた──
「……何だっけお前……W・W?」
「M・Mよ!やっぱりアンタあのガキのセンパイね!」
「そうだびょん、そんなんだからフランに『ベルセンパイになんか会いたくない』って言われんだびょん!」
「──────!」
 犬の言葉に、ベルは思わず手を握り締める。
 『ベルセンパイ』、その呼び方をしていたのは、ヴァリアーに入った後のフランだけだ。つまり──
「……犬」
「あっ」
 M・Mと犬がしまった、という風に慌てだす。恐らくフランから口止めされていたのだろう。
「もう一回だけ聞いてやる。あのクソガエルどこにいる」
 懐から取り出したナイフの切っ先を、静かに骸に向ける。
「何処かは知りませんよ。ふむ……ですがいい頃合いですね」
 骸がリングに炎を灯し、言葉を続けた。
「フラン、聞こえていますね?お前の実力を試します。ベルフェゴールから逃げてみなさい。但しエリアは黒曜ランド内のみ。制限時間は三時間。その結果次第でお前の進路を決めましょう」
「…………」
「いつまでも隠れられる訳では無いと、お前も分かっているでしょう。……では、ゲームスタートです」
 骸はベルに向き合い、小さく笑む。
「今言った通りです。さあ、弟子を探してください。ヴァリアーの幹部なら簡単でしょう?」
「……ムカツクんだよ、てめーのその澄ましたツラ」
 どこまでも人を見下した薄っぺらい笑みが未来のフランに重なって、余計に苛立ちが増す。
 ──変なところで師匠に似やがって
 ベルは踵を返して、映画館を後にした。


「待って!ヴァリアーの人……!」
 建物を出たところで、か弱い声が耳に届いた。
「あん?」
 ベルが振り向くと、先程映画館にはいなかったはずのクローム髑髏が息を切らしていた。
「……クローム髑髏」
「フランの、こと、伝えたくて……」
「あ?」
「未来の記憶、まだ、断片的にしか思い出してないの……本人は、全部思い出したつもりで、説明しようとしたら、逃げたりして、聞いてくれなくてきっと混乱してるから……」
 すぅ、と息を整えて、クロームはしっかりとベルを見据える。
「──ちゃんと話を、してあげて」
 六道骸とは正反対の、か細いながらも強さを秘めた、祈るような表情。
 こちらは苛立つほど、沢田綱吉にそっくりだ。
「……言われなくてもするっつーの」
 ベルは再び森に足を向ける。
 ありがとう、という小さな声は、聞こえないふりをした。


*
 感覚を研ぎ澄ませて、黒曜ランドの森を駆け抜ける。
 下手な建物の中より鬱蒼と木々が生い茂る場所の方がm姿を隠しやすいものだ。こんなにもおあつらえ向きの場所があるのなら、それを活用しない手はないだろう。
 そう当たりをつけて、ベルは周囲を見回した。
「さっさと出てこいよあの野郎……!」
 苛立ちながら木々を飛び移っていくと、緑の髪が視界の端に映る。
「待てコラ!」
 それを追いかけて、ベルは更に森の奥深くへと進んでいく。
「待てっつってんだろクソガエル!」
 ナイフを投げると、人影は霧となって消えた。
 幻覚か、と舌打ちした瞬間、先ほど投げたナイフが空中でくるりと向きを変え、ベルに襲いかかる。
「──!」
 それらを回避し、地面に降り立つ。
 だが、着地した瞬間、ぐちゃりと気味の悪い音がした。
「なっ!?」
 それと同時に、足元のバランスが崩れる。
 下を見ると、ベルが立っている場所だけが底なし沼に変貌していた。
「あんにゃろ……!ミンク!」
 匣から取り出したミンクは、名前を呼んだだけで意図を理解し、沼のヘドロを燃やし尽くす。沼の形が再生する前に勢いよく抜け出せば、沼は一瞬のうちに消え、何の変哲もない地面だけが残った。
「……ちっ」
 小さな舌打ちと共に、人影が森の奥へと走っていく。
「こんくらいで足止めできると思ってんなよ、ガキ」
 ベルは人影を睨んで、再び地面を蹴った。


*
 それからの幻覚攻撃は凄惨の一言に尽きる。
 ゾンビの大群、蛆虫とゴキブリの山。果ては未来の記憶にあったジルの姿──これは本当にいろんな意味で最悪だった──まで現れた。
 それらをどうにか全て倒し続け、とうとう森の最奥まで辿り着いたのは、日が暮れそうな時間だった。
「マジで、いい加減にしろよ……!」
 ぜえぜえと荒い息が口から漏れる。
 幻覚のオンパレードに、いい加減体力も精神も摩耗していた。
 でもそれは、相手も同じことだ。
「おいカエル、いんだろ!」
 そう言いながらベルは何も無い空間にナイフを二本、投げつける。
「……」
 ナイフは空中で受け止められ、幻術を解いたフランが現れた。
「てめー、逃げまくった挙句に幻覚でお迎えなんてご挨拶じゃねーの?」
「…………」
「どーゆーつもりだよ。ヴァリアー行く気失せたとか?」
「うるさい……」
「あん?」
 フランが手をかざすと、ボタボタという気持ち悪い水音が耳に響く。
「もう、どーでもいいんですよ」
 頭上からコールタールのような黒い雨が降り注ぎ、地面が汚れ、うごめき、形をなしていく。
「黙って死ね、堕王子!」
そう叫んだフランの瞳には、よく知っている人間しかわからないほど微かに、怒りが滲んでいた。
「────────」
 フランの叫び声は、これまでも、未来の記憶でも聞いたことがない。
 それくらい、未来のフランは無感情で、無表情だった。
 いつも何を考えているかわからなくて、気に食わなくて、生意気で。
 どうにかその抜けた顔を歪ませてやりたくて、近づいて、その仏頂面すらも、愛おしいと思うようになって。
「…………」
 幻術はどろどろとした大きな人型になり、表情のない顔でベルを見下ろす。
「……オマエさあ、オレのこと舐めんなって」
 静かに、標的を見据えてナイフを構える。
「こーんなでくのぼうに、天才が負けるわけないじゃん」
 ベルは、地面を蹴った。


*
「……っ」
 巨人の拳を、間一髪で避ける。
 ナイフがいくつか突き刺さっても、巨体のせいか動きを止めるほどにはならない。
「なら、これで死ぬか?」
 十、二十とまとめて放ったナイフは、巨人の腕にあっさりと弾かれる。
「……さっさとやられろっての」
 ──いつだったか、マーモンから聞かされたことを思い出す。
 幻術は、術士の心を映す鏡。術士の在り方、感情、意志、それら全てを表すもの。
「なーんだ。あいつ、すげー頭ン中ドロドロじゃん」
 やっぱり、ただの生意気な子供じゃつまらない。
 残虐で、趣味が悪くて、最高に汚いのが、ベルが求めてやまないフランだ。
「──そろそろか」。
 ベルが手元のナイフを投げると、連鎖的に仕込んでおいたワイヤーが牽引され、ベルを押しつぶさんとしていた怪物に食い込んでいく。
「…………!」
 フランが姿を現した時から仕込んでいた罠は、あっという間に怪物の身体を切り刻む。
「ほい、完成」
 仕上げにワイヤーに死ぬ気の炎を伝わせれば、巨人は赤い炎に包まれ、塵になった。
「フラン」
「っ……!」
 名前を呼ばれて、フランは一目散に逃げだした。
 だが、ベルはフランの足元にワイヤーを張り、逃げ道を塞ぐ。
「──あ、」
 それがフランの足を攫い、バランスを崩す。ほんの一瞬、一秒にも満たない怯み。
「つーかまえた」
 ベルは、それを見逃さず、フランに馬乗りになる。
「オレの勝ち、だな」
「…………」
 フランの眼前にナイフを突きつけて、不敵に笑った。
「おい、逃げてた理由言えよ。クソガエル」
「……────」


*
「未来の記憶を消すことは許しません」
「……なんでですかー」
 骸の決定に、フランは顔を歪ませた。
「未来のお前の力を失うのは痛手です。……永遠に記憶が戻らなければ、切り裂き王子が通い続けてくれるとでも?」
「そんなんじゃないですよー」
 ただ、重すぎただけだ。
 未来の自分が持て余していた感情を、まだ未完成な幼い状態で受け止めきれるはずがない。フランはひどく冷静に、そう理解していた。
「師匠言ってましたよねー。幻術は相手の知覚のコントロールを奪って精神を乗っ取るものだって」
「ええ」
「今のミーにはこれをどうにかする技量がないんです。自分の感情のコントロールができないなら、そのうち幻術のコントロールもできなくなりますってー」
「確かに一理あります──が、地獄を見てこそ術士はより強くなる。己がおぞましいと思うもの、恐怖を感じるものを幻覚で再現出来たら、これ以上ない力になる」
 地獄を見て学べ。
 前世で文字通りの地獄を回ってきた六道骸だからこそ言えることだろう。
 でも。
「じゃあ、どうすればいいんですかー……」
 フランは俯いて、拳を握りしめる。
「……すぐ受け入れろというのも難しいですか。暫くベルフェゴールから匿ってあげましょう。その間に解決方法を探しなさい」


*
 そして、今。
 解決方法は見つけられず、逃げることすら許されなかった。
 目の前の男の金髪が、夕陽に反射して目に痛い。
 ──ああ、あの時と同じ。憎らしいほどに綺麗で、愛おしい色。
「……別に、もうよくないですかー?」
「あ?」
「なんでここまでミーをストーキングするかわかんないんですけどー。ヴァリアーには霧のアルコバレーノがいるじゃないですかー」
「は?……別に術士なんて使える奴は何人いてもいいだろーが」
「…………」
「お前、何か隠してんだろ。オレと会おうとしなかったのもそれが原因か?」
「………………」
「さっさと言え。なーに隠してんだよ」
「……嫌ですー」
「さっき、本気出してなかっただろ。オレが幻覚の相手してる間に逃げときゃ、時間まで粘れたよな?」
 ベルの指摘は正しかった。
 フランが本気でカモフラージュの幻覚を複数出して逃げ続けたなら、ベルはフランを捕まえられなかっただろう。
 だがフランは幻覚だとわかるものばかりを出して、それをベルと戦わせた。
 それは、きっと。
 記憶の果てに味わった苦悩を、地獄を、目の前で少しでもこの男に、味わってほしくて──
「…………」
「言わねーと切り刻むぞ。お前でもこれじゃ逃げらんねーだろ」
「…………チッ」
 気に食わない。この男の表情が、声が、匂いが、全てが。
 未来の自分の葛藤も知らないで。いや、いっそ知らないほうがいいのかもしれない。
 もうどうでもいい。何をしても報われないなら、いっそ。
 フランはそっぽを向き、いつも通りの気だるい様子で喋る。
「……自分でもドン引きしたんですけどー、どうやら未来のミーはベルセンパイが好きだったらしくてー」
「…………は?」
 間抜けな声を洩らしたベルを見て、フランはやっぱりかと鼻で笑った。


*
 ────とある記憶が頭に流れ込んだ。
 それはヴァリアーに入ってすぐ、ベルとコンビを組まされた任務の一場面。
 ナイフを操り、炎を奏で、敵を血の海に沈めていく。
 その中で輝く金の髪が、不気味な程に赤に映えて。
 大嫌いで大嫌いで、仕方のないセンパイ。訳の分からない被り物を被せてきて、すぐにナイフを投げてくる。
 本当にいつか殺してやるとさえ思っていた。
 それなのに、鮮やかな殺しの手つきと、血に塗れた姿が綺麗だと感じた時──フランの胸の奥に、何かが生まれてしまった。
 この男の頭の中が全て虚構だらけの自分で埋まって、息ができなくなれば愉快だと思った。
 ──けれどそれは、一瞬のうちに無駄だと思い知らされる。
 自分の頭に重くのしかかる被り物。
 死んだ霧のアルコバレーノ──ベルフェゴールの相棒とも言うべき存在。
 十八年という長すぎる月日、ひとりだけ『部外者』の自分。
 更に未来ではいなかった前任も健在している。
 今、ヴァリアーに行ったら、もう被り物を強制されることも、ないかもしれない。
 そう懸念したことが余計に腹立たしかった。
 この世の全てがどうでもいいなんて達観していたくせに、後任の座に甘んじてまで、あの男を求めてしまっている。
 そんなの、ただの地獄だ。
 だからフランは逃げ出した。
 逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。
 彼が帰った後、その場に微かに残った香水の残り香で、視界が勝手にぼやけた。
 追いかけてほしかった。求めて欲しかった。前任が、ふたりのだれもがいない場所で。
 こんな厄介な感情に振り回されてしまう自分が嫌で、それでも傍にいたくて、でも、会いたくなくて。
 矛盾する感情にさいなまれて、フランは自分自身がわからなくなっていった。
 ──ああ、もしこれが恋という感情で、世界が美しいと謳うものなら。
 そんなものを礼賛するこの世界こそが、地獄なのかもしれない。


*
「それで、気まずくなって逃げてましたー。……もうヴァリアーに行く気はないんで、さっさと退いてもらっていーですかー?」
 フランの言葉に、ベルは大きく溜息を吐いた。
「お前がオレに惚れてんのなんてとっくに知ってんだけど」
「え」
「はー……クローム髑髏が言ってたの、こういうことかよ」
「ネーサンが、なに……」
「お前が、思い出したの、ほんの一部分だけなんだよ」
「……じゃあ、未来のミーが、センパイのことすきだって、知って」
「おう。つーかお前から告白してきたぜ?ベロベロに酔っぱらってた時に」
「え、な……」
 フランは、あからさまに狼狽えた。
「知らないです、そんなのー……」
 嘘だ。未来の自分があんなに墓まで持っていこうと躍起になっていたのに、酒の、勢いで?
 だが、思い返せば、確かに未来の記憶は断片的に戦いの場面を見ただけで、その前後は虫食いになっていた。
「そのうち思い出せば嘘か本当かわかんだろ」
「────」
 声が出ない。なら、半年も悩んでいたのは一体───
「つーか未来のこと関係なしに、五年かけて口説いてたのに全然気づかないお前もどーかと思うんだけど」
「……告白された覚えないんですがー」
「王子はカンタンに好きとか言わねーんだよ」
「いや、それ察しろは無理ゲーですってー……」
「つーか、そうじゃなくても王子がここまで追いかけてやってんだよ、いい加減分かれ」
「──────」
 フランは改めてベルの姿を見る。
 泥だらけで、ボロボロで、血こそ流していないが、満身創痍と言っても過言ではない。
 余裕ぶった雰囲気はどこにもなくて、口調はいつも通りだけれど、隠しきれないほどに疲弊しながら、必死に──フランだけを、追っている。
「……ここまでするほど、ミーのこと好きなんですかー?」
「だから簡単に言わねえっつってんだろ」
 フランの額に、渾身のデコピンが炸裂する。拗ねたベルの声は、妙に子供じみていた。
「いでっ」
 ────ああ、そういえば。
 デコピンは未来の『センパイ』の照れ隠しの合図だったと、今更ながらに思い出す。
 もう訪れない未来で一人前になった自分が鼻で笑って捨てたがった感情は、確かに報われていた。
「……は、」
 思わず、笑いが零れる。
「ははは……」
 既にバレていた恋心を必死に守ろうとする弟子の姿は、師匠からしたらさぞ滑稽に映っただろう。
「ミーの悩みごとで遊びやがって、あのクソ師匠……」
「……なあ、フラン。王子のとこに来いよ」
 ベルの腕が、フランの身体をきつく抱き締める。
「……ベル、センパイ」
 冷酷な殺し屋のはずなのに、温もりはしっかりと人間のもので。
 フランは覚束ない手つきでそれに応えた。
「ベルセンパイ……」
 ──ああ、気に食わない。
 この男の体温も。それに安堵してしまっている、自分も。


 *
「じゃあ荷物まとめろ。すぐヴァリアー行くぞ」
「え、ミーまだ中学生なんで、卒業してからそっち行きますー」
「……はぁ!?」
 ベルの大声に、辺りの鳥たちが一斉に逃げていく。
 そんなに驚くことだろうか。いや、義務教育も受けずにヴァリアーに入った人間からしたらそうなのかもしないけれど。
「師匠も就職は義務教育終えてからにしろって言ってたんでー」
「お前今いくつだよ」
「年齢はナイショですけど、学年的には一年生ですねー」
「ふっざけんな、何年も待てるか!すぐに来い!どーせトモダチもいねーんだろ」
「失礼ですねー。確かに友達はいないですけどー、これでもミーモテるんですよ?この前も三年生の先輩に呼び出されましたしー、ラブレターも貰いましたしー」
「それ、超絶イケメンの彼氏がいるからって断れよ」
「…………」
「なんだよその顔」
「……記憶戻った時に思ったんですけどー」
「?」
「未来のミー、男の趣味サイアクですねー」
「どーゆー意味だクソガキ!」
 ナイフを避けながら、フランは薄暗くなった空を見上げた。
 ──ああ、今日は、よく月が見える。
「……綺麗な、空だなー」
 小さな呟きは、森の空気に溶けて、静かに消えていった。
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