【同人誌再録】終わりのサナトリウム

終わりのサナトリウム

こつ、こつ、こつ。
快晴の朝、ヴァリアー本部の廊下にひとり分の足音が響く。
暇だ。暇すぎて死にそうだ。
どうせやることもないのだからゆっくりと惰眠を貪りたいのに、ここ最近はずっと眠りが浅く、横になっても眠ることができない。
ベルは頭にかかった霞を払うようにかぶりを振った。
「……はーあ」
それもこれも、全部あの馬鹿後輩のせいだ。
アジトの外へと続く荘厳な扉の前は、何人かの隊員が集まって談笑をしていた。
「まさか嵐属性も持ってるなんて思わなくてな、その場全員で大騒ぎだよ」
「お前はずっと嵐って言われてたもんな、むしろ雨属性なのが不思議だよ」
「ここまで来たら雷も使えるんじゃないか?ハハハハ!」
軽薄な笑い声が、不機嫌なベルを一層苛立たせる。
──どいつもこいつも、呑気にしやがって。
「あ……ベル様、どちらに」
そのうちのひとり、ベル直属の部下が声をかけてくる。
あと一時間で幹部会議が始まる時間だ。外出を止めたかったのかもしれないが、ベルにはそんなことどうでもいい。
「あ?うっせーよ」
「ッ……!し、失礼しました!」
睨んで殺気を出せば、男は顔を青くして頭を下げた。
談笑していた他の隊員たちも、同じように恐れをなして首を垂れる。
こんなくだらない奴らがいるのに、どうして。
「……邪魔。消えろ」
たった二言、それだけで隊員たちが蟻のように散っていく。
暇で、退屈で、周りのヘラヘラした人間が、酷くうざったい。
こんなことなら誰にも会わないように窓から出るべきだったと、ベルは小さく舌打ちした。

街の喧騒が耳に届く。
「らっしゃい!さっき採れたての野菜だよ!」
「そこのねえさん、ブランヅィーノ見ていかないかい!」
商店街は秋の収穫物と売り手の歓声で賑わっている。その誰もが、不機嫌な顔で道を歩く暗殺者を気にすることはない。
ああ、ここも、何も変わらない。
ベルはそこを足早に通り過ぎて、端にぽつんと佇むパン屋を目指した。
この店は、限られた時間帯にだけ店の外に小さな屋台を出し、手作りの菓子を販売している。少女がひとりで店番をしているそこで、くだらない話をしながら揚げたてのチュロスを買うのがたまの楽しみだった。
たまの──ふたりの楽しみ、だった。
「これ、いっこ」
「はい」
少女からシナモン味を受け取って、行きとは異なる人気のない道を歩く。
プレーン、チョコ、シナモンと三種ある味のうち、ベルはいつもチョコを買っていた。
シナモンは薬臭さのせいで少し苦手で、それを生意気に『オトナの味』などと抜かすくせに、実はコーヒーが飲めない後輩は───。
「──────……。」
後輩は、もういない。
ベルがシナモンを買っても、隣にいた後輩が消えても。
世界は何も変わらず、当たり前の日常が過ぎていく。
「……くだらねー」
作り物のように晴れ晴れとした空を見上げる。
くだらない。正体不明の苛立ちも、それをどうすることもできない、自分も。
口の中に残る甘ったるい粉砂糖の食感が、ひどく不快だった。


ヴァリアーの幹部・フランが失踪した。
ある日なんの前触れもなく姿を消し、その痕跡も遺体も、未だに見つかっていない。
幸い霧のアルコバレーノ・マーモンが復活したことで任務に影響は出なかった。
だが、フランはああ見えても六道骸の弟子であり、世界最高峰の幻術使いである。
彼が何処につくかでマフィアの勢力図が一気に塗り変わる可能性を否定出来ず、ヴァリアーは密かに捜索隊を出していた。
おかしな点は、彼の生きた痕跡が周囲の人間の記憶以外無くなっていたことだ。
まるでそんな人間が元々存在していなかったというように、私物も、彼の名前が書かれた書類も、それらすべてが消えていた。

そして、フランの私室だったはずのそこも、空き部屋と化していた。
「……あーあ」
埃が積もりつつあるテーブルを指でなぞりながらベルは小さくため息をつく。
──暇だ。
新品同然のベッドに寝転んで、もう投げる相手のいないナイフを眺める。
フランがいなくなってから、身体に溜まった気持ち悪さが抜けない。
ゲームをしても、殺しをしても、それが晴れることはなかった。
「…………暇」
口に出したところで時間の流れは変わらない。
ベルはふと、サイドテーブルに見覚えのない通信用端末が置かれているのに気が付いた。
それはかつて隊で支給されていたものと同じデザインだが、最近は無線機のほうが主流になっており、目にするのは久しぶりだった。
プルルル、という機械音が部屋に響く。
「あ?なんだこれ」
端末の画面に表示された文字は、化けていて受信先がわからない。
出所が不明のものは警戒するのが暗殺者の常だが、それに引っかかっても構わないと思えるほど、今は退屈を持て余している。
「……暇つぶしできりゃ、まあ、いーだろ」
ベルは期待をしないで、ボタンを押した。
『……もしもしー?』
気だるげな、抑揚のない音。
機械の先から聞こえてきたのは、失踪した後輩の声だった。
「な……!」
『あれ?そのクソムカつく声はベルセンパイじゃないですかー』
「ッお前、なんで急に消えやがった!つーか今どこに」
『うわうるさっ、電話口そんな怒鳴んないでくださいよー』
「てめーが勝手にいなくなるからだろーが!」
『それはミーの意志じゃないんでー』
数か月ぶりの、全く変わりない声色に毒気が抜かれていく。
フランだ。あの、馬鹿後輩の声だ。
ベルは頭を抑えて、逸りそうになる声をどうにか落ち着かせた。
「……お前さ、今どこにいんの。さっさと帰ってこい」
『多分この世じゃないとこですー』
「この世じゃないってなんだよ。そーゆーのいらねーから…」
くだらない嘘を適当にあしらって、早く帰ってこいと言葉を続けようとした。
『いや、マジですー。ミー、死んで魂だけになってますねー』
だが、フランはベルの言葉を遮ってさらりと衝撃的なことを言ってのけた。
「……は?」
自身でも驚くほど、間抜けな声が漏れる。
死んで──死んで、魂だけになった?
『いやー幽霊って電話使えるんですねーびっくりしましたー』
「わけわかんねー、なんなんだよ……」
基本おかしなことしか喋らない後輩だが、今回はいつにも増して荒唐無稽だった。
幽霊?もうすでに死んでいる?
フランが?何度ナイフで刺しても死ななかった、復讐者を欺くことすら可能な実力を持つ、あのフランが?
『いやいや、これが本当なんですってー。なんか周りの景色も天国みたいなんでー』
嘘だ。どうせいつもの、くだらないおふざけだ。
きっとすぐドッキリでしたーと、そこら辺の物陰から現れるに決まっている。
「てめ、マジでふざけんなって……」
「ベル、またここにいたの」
だが、開け放しにしていたドアの隙間から顔を出したのはマーモンだった。
「ボスが呼んでるよ。次の任務の話があるって」
「……あ、おう」
『センパイ?』
「また、連絡する。これに電話かけりゃお前出られんだろ」
『えーと……まあ、多分ー』
フランの言っていることがあまりにも馬鹿馬鹿しくて殺してやりたいが、とにかく生きていることはわかった。
安堵の息を漏らしたことは、ベル自身も気が付かない。
再会はそんな、あっけないものだった。


「ししっ、お前が噂の幻術使い?」
埃とゴミの匂いで満ちた路地裏の奥で、ベルは若い男の前に立ちはだかる。
「ヴァリアーの、切り裂き王子……!」
男はベルの顔を見るや否や距離を取って、リングに霧の炎を灯した。
今日の獲物は、最近数多のファミリーから勧誘を受けているという将来有望の術士。
「王子暇してんだよね。な、遊ぼーぜ?」
遊び相手には充分だろう。ベルはニヤリと笑って、ナイフを構えた。
匣は任務に使う兵器としては悪くないが、遊びの殺しは手に馴染んだ武器でやるのがいい。
「悪いがお前に構っている暇はない!」
男は苛立ちの表情を浮かべ、匣兵器を開いた。
「ししっ、そう言うなって。どんくらい楽しめっか…………は?」
男が出した幻覚を見て、思わず顔を顰める。ベルの目の前に現れた無数の兵士たち。その身体の端は、陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。
「俺はヴァリアーのような暗殺稼業に手を染めるつもりはない!」
男の合図で襲い掛かってくる敵を躱しながら、ため息をつく。
幻術というものは、本来それが本物と見紛うほどリアルであることが求められる。
しかし、男の幻覚は術士ではないベルでも一目で幻であることがわかってしまった。つまり──期待外れだ。ナイフを使う価値もない。
「こんなの有望株扱いするくらい、霧の術士って数少ねーんだな……まじがっかり。ミンク」
匣を開けば、ミンクが鳴き声と共に術士の身体に嵐属性の炎を纏わせる。
「ギィッ!」
「なにを……!ひ、ぎゃぁああああああああ!」
炎の轟音と断末魔が路地裏を満たす。男の最期を見届けることなく、ベルは路地裏を後にした。
首元に戻ってきたミンクは小さな歯を見せて、キィと一鳴きした。
「終わった?つまんねーよなぁ、最近」
通信は繋がったものの、フランは頑なに居場所を教えようとしなかった。曰く、『死後の世界に具体的な位置情報はない』らしい。
どうせそのうち帰ってくるだろうが、直接虐められないせいでフラストレーションが溜まる一方だ。
「キー!」
「ん。お疲れ」
喉を軽く撫でてから相棒を匣にしまう。
「……アイツ、起きてっかな」
端末の電源を入れて数コール待てば、眠たげな声が返ってきた。
『ふぁー……ぁい、こちらの電話番号は現在使われておりませ』
「思いっきり使われてんだろーが。電話番号でもねーし」
返ってきたのは寝ぼけた声。いつ連絡してもフランは眠たそうにしていることが多い。
『冗談ですよー…で、何の用ですかー』
「殺しがつまんなくて暇してんだよ、なんか話せ」
『うっわー横暴の極みー。寝てる人起こして用件それですかー?』
「死んでる設定なら寝てんじゃねーよ」
『設定じゃないですってー』
ベルは裏路地を抜け、人の群れに身を委ねた。
ざわざわとした人々の話し声が雑音に変換され、冷え始めた空に消えていく。
「……フラン」
『はーい?』
「お前、いつ帰ってくんの?」
何度も繰り返した質問を、また繰り返す。
『……もう死んでるから、帰れないですよー」
そして、フランの回答も、ずっと変わらない。
「まあたそれかよ。イジめるやついねーと暇なんだけど」
『死人相手に暇つぶし要求しないでください―。前任帰ってきたでしょーが』
「うるせえ、王子が本気でキレる前に帰れ」
『だから、もー無理なんですってー』
呆れたような声が通信機から届く。
呆れたいのはこっちのほうだ。今ここで、フランの声が聞こえているのだから、死んでいるはずがない。
「とにかく早く顔見せろ。じゃーな」
『はいはーい。おやすみなさーい』
「また寝んのかよ!……ったく」
そう思っているのに、通信を切った後は、舐め終わった飴の棒を噛んでいるような気持ち悪さが残り続けていた。


「ベルセンパイは、恋ってなんだと思いますかー?」
「あ?」
深い、湿った夜。
その中で、フランは窓の外を眺めながら問いを投げてきた。
「なに中学生のくっせーポエムみてーなこと言ってんだよ」
「まあまあ、ピロートークの一環ですー。とりあえず答えてくださいよー」
「……しらねーけど、好きんなってセックスしたくなったらじゃねーの?」
「うわ、情緒もクソもないですねー」
「あ?」
返答を鼻で笑われ、ベルは振り向きざまにナイフを放つ。
この世で一番情緒がない顔をしている人間に言われたくない。
それを難なく避けてから、フランは言葉を続けた。
「恋はですねー、元々男女の情だけじゃなくて、なにかに寄せる『思い』を示す言葉なんですー。季節の移り変わりとか、自然への感動とかですねー」
「ふーん」
起き上がってペットボトルの水を飲みながら、ベルはフランの言葉に耳を傾ける。
日常的に使われる言葉というよりも、和歌という詩を嗜む昔の文化から生まれた概念だと、フランは語った。
「それに加えて、『一緒になれない人や亡くなった人に強く惹かれて切なく思うこと』を指すんですよー。なので、基本叶わないのが前提だったらしいですー。ま、主に日本での使い方ですけど、ヨーロッパはそういう考え薄いですよねー」
「宗教の違いだろーな。……そういや日本って宗教あんの?」
「なくなはいですねー。八百万…万物に神様が宿ってる自然信仰プラス多神教って考えベースで、そこに仏教とかいろいろなもんがごちゃまぜになってる感じですー。多分」
「お前そういうの詳しいよな。趣味?」
「師匠の影響ですー。ほら、あの人前世で六道輪廻廻ったらしいんで、そういうの勉強させられたんですー」
そういえば、六道骸の持つ能力は死後の世界を全て廻って得たものだと聞いている。前世や輪廻といった考えは、イタリアで過ごしてきたベルにとってはあまり馴染みがない。
そもそも、死後の世界なんてものが本当に存在しているのかも怪しいと思っている。
「へえー」
「あ、あと恋は孤悲、ってのもありますねー」
「こひ?」
「孤独で悲しい、で孤悲ですー。これも叶わなかったり、伝えられない思いがあるってところかららしいですー。昔の日本の当て字ですねー」
「どっちにしろ無理なこと前提なんだな。めんどくせー。駄目ならさっさと諦めて別の奴探せばいいじゃん」
人間なんてこの世にごまんといる。代えのきかない、例えばXANXUSのような唯一の存在なんて、そうそう見つかりはしない。
「そういうこと言ってるとモテませんよー。さっさと諦められるなら苦労しないんでしょー、きっと。知りませんけどー」
「は?お前王子にベタ惚れのくせに」
「うっわ自意識過剰。ミーは恋するならクロームネーサンのような可憐な人がいいんでー、センパイは対象外ですねー」
そう言いながら、フランはベルの体温が移ったベッドに潜り込んでくる。
「あー、本当夏って寝にくいなー」
「ししっ、さっきまで素直に抱かれてた奴が何言ってんだか」
好きじゃないと言いながら隣に戻ってくる、言葉とは裏腹の態度ももう慣れた。
「ホント、可愛いんだか可愛くないんだか、わかんねー奴」
ベルはペットボトルを適当に部屋の隅に投げ、猫のように丸まったフランの身体を、抱きしめて​───────────────────


──────────ひたり。
冷たいシーツが、手のひらに吸いつく。
「……フラン?」
夜のしじまが耳を包む。
もぬけの殻、ではない。元々、ベル以外の誰もこの部屋にはいなかった。
「…………」
このベッドをひとりで使うようになってから暫く経つのに、隣を空けて寝る癖が直らない。
ベルは小さく息を吐いて、空寂に満ちた空気を吸い込む。
寒い──ずっと、いつでも、いつまででも。
身体は休眠を求めて重たくなっているのに、夢の感覚がリアルだったせいで目はしっかり冴えてしまった。
どこからが夢で、現実だろう。
「…………アイツと、どーてもいい話しかしてなかったな」
それでも、そのくだらない話が日々の退屈を消していたのだと気づいてしまう。
「……通信機」
そうだ、あれがある。
ベルは端末の電源を入れて、呼びかけた。
「フラン、……なあ、起きてるか」
黒色の機械は何も言わずに、手の中で沈黙したまま。
「おい、……起きろよ、クソガエル。声聞かせろって」
ぽつりぽつりと言葉を続けても、返ってくるのは静寂のみ。
「なんでこういう時に繫がんねーんだよ……」
疲れが取れないままの頭を抱えて、息を吐く。
ここにいる。アイツは、ちゃんと、ここにいるはずだろ──。
けれどそう願うことが、終わりの始まりとなることを、誰も知らない。
縋っているぬくい化けの皮が剝がれ始めていることに気づかないまま、ベルは目を閉じた。


「なあ、お前さあ、そろそろ戻ってこねーと籍消されるぞ?」
『籍ってなんのですかー?』
「ヴァリアーの籍に決まってんだろ」
フランと通信機越しに繫がってから、季節をひとつ越えた頃。
ベルはいつものように、通信機越しに催促をしていた。
無断で日本に遊びにいく程度のサボりならベルも何回もやっているが、流石に半年以上音信不通でいるのは脱退と見なされかねない。ただでさえ、何故かフランは入隊時の書類が消えてしまっている。そろそろ帰ってきたときに拳骨だけでは済まされないだろう。
『センパイ、もう…───ミー────ほう───が──────』
──それは呆気なく、突然だった。
端末の音がやけに遠く、ノイズ混じりに聞こえる。
「?なんか音聞こえねーんだけど」
『音?…れ、こっちも───が……』
「おい、カエル?」
もう一度問いかけたその時。
ピシリと、耳元で、何かが割れる音がした。
「……え?」
『セ───なに────』
手の中の端末は、画面の中央に大きな亀裂を作っていた。
「待、てよ」
これは、フランと繫がる唯一の。
「なに壊れてんだよ……フラン!聞こえるか、おい!」
背筋がぞわ、と凍る感覚がする。
壊れてはいけない。
これが無くなったら、もう、二度と声が聞けなくなる。そんな予感がした。
ベルは勝手に震える手を抑えながら、端末に向かって叫び続けた。
『なにも───な────、センパ──────』
「フラン!今、どこにいんだ!おい!フラン!」
『……───………────────────────────────』
それを嘲笑うように、ブツンと機械的な断絶音が届く。
端末は、役目を終えたかのようにサラサラとほどけて、黒い塵になった。
「──────フラ、ン」
もう何も聞こえない。音も、声も、何もかも。
手のひらの塵は、風に攫われてどこかへ飛んでいく。
ベルは、そこに立ち尽くすことしかできなかった。


──知っている。
彼がいても、いなくても。この世はなに一つ変わってくれない。
太陽は東から昇り、街は活気に満ちた声に溢れ、あの店のチュロスは甘ったるい。
そんなことは、とっくにわかっていた。
「なあ、マーモン。お前、本当に一回死んだ?」
ベッドの縁で俯きながら、足元に浮く赤ん坊に問う。
「…ベル」
フランが消えた理由の検討はついている。未来の改変だ。
過去が修正されて、死んだはずの人間が戻ってきたなら、その補充で現れた人間は同じ場所に居られない。
フランは帰らないのではなく帰れなかったのだと、ずっと頭のどこかで理解しながら気づかないふりをした。
「マーレリングでやったこと全部ナシになって、フランがどこにもいないならさ」
冷えたままの拳を、強く握り締める。
「──アイツって、本当に『居た』ことになんの?」
「……」
マーモンは何も答えなかった。
「もしかしたらさ、俺も明日にはフランのこと全部忘れてっかもしんねーし」
過去の修正が、今の自分たちの記憶に影響しないという保証はない。
そうでなくても、人の記憶は色褪せるものだ。
誰の記憶からもいなくなって、記録も残らないなら、それは存在していなかったことと何が変わらないのだろう。
くだらない会話も、甘ったるい菓子の味も、少し冷たい体も、全部、全部、全部。
幻覚だったと言われても、それを『嘘』と断じられるだろうか?
「キミが信じないと、フランは本当にいなくなるよ」
澄んだ声が、言葉を遮る。
ベルは顔を上げて、目の前にいる声の主を見つめた。
「ベル、『フラン』は本当に『いなかった』のかい?」
「……だってさ、マーモン、」
「目に見える証拠も、記録も、なにもなくても、幻だと笑われても、フランは『在る』と。そう言えるのは、彼を望んでいる君だけだ」
それは、上っ面の慰めでも、激励でもない。
マーモンがそういうことをしないのは、ベルが一番よく知っている。
「それでも君は、もう彼はいないと認めてしまうんだね?それどころか、その存在すら否定するんだね」
静止した水面を動かすひとしずくのように、その音は静かに──けれど、確かに耳に届く。
急にいなくなって、声が聞けたと思ったら、もうすでに死んだなどと抜かして、そして、また突然消えてしまった。
大嫌いで、面倒で、馬鹿で、阿保で、毒舌で、可愛くなくて、子どもで、誰よりも頭のおかしい後輩は。
フランは────隣に、いた。
「……いないわけ、ねーだろ…………あんなキャラ濃いやつ、忘れねーし……死んだとか、嘘ばっか抜かしやがって……」
口から漏れた言葉は、なぜか震えていた。
未来が変わってフランがいなくなるなら、この執着も、一緒に忘れさせてくれればよかった。
そうしたら、こんな、こんなに気持ち悪い思いをせずに済んだのに。
マーモンは呆れた顔で、うつむいたままのベルの膝の上に座った。
小さな慣れた温もりが、じんわりと伝わってくる。
「君がフランは死んでいないと抗っていたから、彼は消えずに済んでいたんだろうね。チープな三文小説みたいだけど、ベルの意地の強さは相当なものだよ」
その言葉を聞いて、ベルは頭の中の霧が晴れていくのを感じた。
──気づいてしまえば、なんて単純で愚かしい。
「……ああ」
ベルフェゴールは、ただ、フランの死を、彼が世界から消えたことを受け入れられなかった。
目の奥が、熱い。
このままフランを失ったまま生きていけば、きっとフランと過ごした時間より長い時を経て、いつかその日々を忘れていく。
息を吸うだけで違和感を覚えることさえ日常になって慣れるのか。
それとも、いつかこの気持ち悪さすらも忘れて、楽しく生きていけるのかもしれない。
それが、それがどうしようもなく──嫌だった。
『こひ?』
『孤独で悲しい、で孤悲ですー。これも叶わなかったり、伝えられない思いがあるってところかららしいですー』
───孤悲。
叶わない、伝えられない思い。一緒になれない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく想うこと。
想い人と添い遂げることが出来ない、孤独と悲しみ。
あの時フランが語っていた言葉の意味が、ようやく理解できた気がした。
「っ、あ……?」
喉から嗚咽が漏れる。
目の奥だけじゃない、頬も、喉の奥も、血が通っているところが熱を帯びていく。
ぽたぽたとこぼれる雫を見て、ベルは自分が泣いているのだと気づいた。
「くそ、ふざけんなよ、あのアホ……」
「ベルも人の子だね」
「る、せぇ」
顔を逸らして涙の跡を乱雑に拭う。
王子が無様に人前で泣くなんて、あってはならない。
「それで、ここから君はどうするんだい?」
「……決まってんだろ。マーモン、あいつの居場所わかるか」
死んでいない。死んでいるなど、そんなことは許さない。
抗うことでフランが消えていなかったなら、そして、死んだはずのフランと繫がることが出来ていたのなら。
まだ、フランを取り返す方法はあるはずだ。なかったとしても、作り出してやる。
「わからないけど、見つけることはできるかもしれないよ。報酬は──」
「Sランク三倍にしてやるよ。成功したら追加で五倍分」
「いいね、乗った」
悪友は懐が重くなるのを想像したのか、小さな口元を上機嫌に歪ませた。


晴れ渡る空、鳥のさえずり。
川のせせらぎ、さわさわと揺れる木々。
永遠の春の中でフランはひとり、死を迎えた端末の画面を眺め続けた。
これが壊れてから、どれだけの時が経ったのだろう。
「…もう、ここらで潮時ですかねー……」
自分の感情が少しずつ薄れている気がする。
それに続いて、身体の感覚も。
ここは苦痛なく、老いもなく、退屈で、穏やかで、優しくて、永遠で、眠くて、独りで───全ての、終わりだ。
「師匠宛ての伝言とか、頼むの忘れたなー……」
風の音が、ゆっくりと眠りを誘う。
いや、眠りというよりも意識を失うといった表現の方が正しいかもしれない。
あとどれくらい自分を──自我を保っていられるだろうか。
たまに頭の中に流れてくる自分ではない何かの声にも、もう慣れてしまった。
「いよいよ化け物じみてきましたねー……あーあ」
フランは自分の手のひらを見て、鼻で笑った。
邪魔になった存在が『処理』されるのは当然のことだ。多少の理不尽なら逆らったかもしれないが──相手は世界の機構そのものだ。抵抗する気すら起きない。
むしろ最後にあの世界と繫がれたことが恩情だったのかもしれない。
楽園の最奥、生命を看取る大樹の下。
如何なるものもここから出ること叶わず。
人の営みから排除された──世界の果てのサナトリウム。
「在るべきものは、在るべき場所へ。かー……」
そこで『終わる』ことの意味は、もうとっくに理解できていた。


「…こういうのは僕じゃなくて、六道骸の専門だと思うけどね」
そう言いながら、マーモンは小さな手のひらをベルの拳に重ねた。
「恐らく、フランは今精神だけの存在になってるんだろう。そういう存在が長くいられるのは、いわゆる精神世界と呼ばれる場所だ」
「……そこ簡単に行けんの?」
「常人にはまず無理だね。精神だけなんて不安定な存在、力がある人間じゃないと一瞬で消えるよ」
「マジかよ……」
「僕の力でフランがいる世界への道を作る。けど、道標はフランが君の呼びかけに応えないと作れない。更にこういうことに慣れてない君がたどり着けるかは五分五分だ。失敗したら死ぬけど、それでもやるかい?」
「ったりめーだろ」
「……いいよ、じゃあ目を閉じて、深く息をして」
マーモンの言う通り、ゆっくりと瞼を閉じる。
「君の手元には、彼に繫がる道標がある。ずっと、ずっと遠く──魂だけの世界にいるフランへ君を導く、アリアドネの糸だ。君の意志で、それを編んで」
糸、糸。繋がるもの。フランに、届くもの。
念じながら頭の中のイメージを、手のひらに伝わせていく。
「──ああ、君らしい。いいよ、目を開けて」
ゆっくりと目を開けると、手のひらには赤い糸が置かれていた。
少し引っ張ればちぎれてしまいそうな、細く、脆い線。
「……これ、が?」
「そうだよ。強く握って、彼を呼ぶんだ。フランが応えれば糸がそこに辿り着く」
ほんの数センチしかない小さなそれは、意志を持つようにするすると編まれていく。上へ、空へ、ここではない、どこかへ向かって。
「ほら、この子は待ちきれないみたいだよ。早く」
「っ、────おい、クソガエル!!」
腹の底から、スクアーロに負けないくらいの大声で叫ぶ。
今度こそ、絶対に。
意地の強さなら、誰にも負ける気がしなかった。
「聞こえてんなら返事しやがれ、フラン!」
『……ベル、センパイ?』
どこからか、微かな声が届いた。
「……!マーモン!」
「ああ、まだ存在は消えてないようだね。」
その声を辿るように、空を漂っていた糸がピアノ線のように張り詰め、ベルの腕を引いていく。
「『道』ができたよ。それを離さないように」
「おう。……いってくる」
か細い糸を、ありったけの力を込めて握り締める。
「そうだ、ひとつ餞別をあげるよ。……まあ、そっちの世界で本当に使うかはわからないけど、君は血の気が多いしちょうどいいだろう」
そう言ってマーモンは、手元で何か編み始めた。
だがそれについて問う前に、ぐわりと視界が揺れる。
「──いってらっしゃい、ベルフェゴール」
穏やかな声が耳に届いて、ベルは意識を失った。


『おいクソガエル!』
「……え、」
閉じかけの目蓋を開かせたのは、かすかな声だった。
『聞こえてんなら返事しやがれ、フラン!』
「……ベル、センパイ?」
幻聴だ。もう通信機は壊れていて、向こうから声が届くはずがない。
わかっているのに、どうして、いつも。
あの人は、人が眠い時に無理やり起こしてくるんだ。
悲しくもないのにこぼれたぬるい雫が、頬を伝う。
「セン、パイ」
永遠に出られないなら。要らないものとして処理されるなら。
耳も、目も、声も、記録も、記憶も、感情も、全部消してからここに入れてくれればよかったのに。
そうしたら、何者でもないまま、何も思うことないまま、死ねたのに。
あの人の残滓が、終わっていくことを許さない。
「───ベルセンパイの、くせに」
でも、願ったところでどうにもならない。
死後の世界を全て巡った術者や、魂のみを別の世界に移動させられる巫女なら、この世界に辿り着く可能性は充分にある。
 だが、ベルフェゴールはその資格も方法も持ち得ない。
「なんで……こんな綺麗な死に場所用意されたし、もうほっといてくださいよー…」
届くはずのない文句が口から零れる。
元々期待なんてしていない人生を静かに終わらせることすら、あの性悪は許してくれないのか。
しゅるしゅると、フランの手元にか細い糸が垂れ下がる。
血で染めたように赤いそれの先は遠すぎて、どこにあるかわからない。
フランはほとんど感覚を失った右手を動かし、糸を手に取った。
「これ、は……?」
何の変哲もない、余りにも脆く儚い糸だ。
「…センパイ?」
先程の声と、突然現れた糸。
ありえないけど、それでも、
もしかしたら、もしか、したら。
────センパイに、繫がるかもしれない。
フランはわずかに残った力を込めて、糸を引っ張った。
「……ベル、センパイ」
ここに、ここに、いるから。
だが──糸はその場で沈黙するだけで、何も応えない。
「……はは、」
一瞬でも期待したのが馬鹿だった。希望を持たせて蜘蛛の糸を切る。自分も幻術で散々使った手にあっさりと引っかかってしまった。
最後の夢が赦されるほど、正しい生を生きてきたわけでもないのに。
糸を握ったままの手が、ぽとりと地面に落ちた。
──無理、無理だよ。
──もう、帰る場所なんてない。
──終わろう、眠ろう。可哀そうな仔。
ヒトではない声が、背後から聞こえてくる。
「そーですよねー……もうすぐ消えるのに、何してんだか……」
再び瞼を閉じた、その瞬間。
フランの身体は、温かい闇に引き込まれた。

──冷たい。
霞に撫でられた感覚を覚えて、ベルは目を開けた。
「……ここに、アイツいんのか」
魂だけの世界と聞いて地獄のような場所を想像していたが、目に映るのは幻想的な白い霧と、その先にある穏やかな陽の光、誇らしく咲く花、さわさわと葉を揺らす草木。
まさに、楽園と呼ぶのが相応しい場所だった。
「こっちか」
その風景にそぐわない人工的な赤い糸は、しゅるしゅると音を立てながら森の奥へと入っていく。
それ辿って歩を進めれば、辺りを覆っていた霧が晴れていく。
きっと童話なら、もうすぐお菓子の家か、小人の家があるはずだ。
暫く歩き続けると、一等大きな樹に寄りかかっている翡翠色を見つけた。
「───っと」
たった数か月ぶりなのに、酷く長い間会っていなかったように感じる。
「よお」
「──────……、」
「急に連絡切ってんじゃねーよ、アホ………」
ようやく見ることがその出来た顔は、珍しく驚愕の表情を浮かべていた。
しかし、驚いたのはベルの方だった。
最初はフランが大きな樹に寄りかかっているのだと思っていた。
だが、違う。
フランの肩や腕から枝が伸び、体の半分が、大樹に埋まっている。
まるで──大樹が、フランに寄生し、捕食しているような。
「……ああ、これ、驚きましたー……?」
ベルの表情に気づいたのか、フランはゆっくりと腕を伸ばす。
「おまえ、なに……」
「ほら見てくださいよー……養分になる人間がこんなでも、キレーな花とかちゃんと咲くんですよー……?」
開かれた手のひらには、白く小さな花が咲き誇っていた。
その根はフランの皮膚から生えている。植物と同化した皮膚は、硬く温度のない茶色になっている。
「ッ……!」
とっくに見慣れた血や屍肉とは異なる異形さに、思わず息を呑む。
目の前の光景は幻覚ではない。なら一体、何が起きているのか。
ズズ、という音と共に、フランの身体がより深く樹の奥に吞み込まれていく。
「あ……」
「おいっ!」
ベルは、一切動こうとしないフランの腕を掴んだ。
「なにしてんだバカガエル!抵抗しろよ!」
「…………センパイ、ここはゴミ捨て場なんですよ」
「はぁ!?」
「もう、自我とかだいぶ飲み込まれてるんでー……いまさら助けられても、意味ないっていうかー……」
そう言いながら、フランは目を閉じた。
──駄目。この仔は、ここで終わらないと。
「……あ?」
フランの背後から、温かくて無機質な声が響く。
──帰る場所なんてないでしょう。
──ここで終わったほうが幸せなのに。
──帰って、それで、どうする?
淡々と発せられる言葉は、慈愛に満ちているのに、どこか残酷さを孕んでいた。
「……誰だよ、てめぇ」
そう言いながら、ベルはこの声がヒトならざるものの声だと本能で悟った。
これはフランを呑み込もうとしている大樹の声だ。
──ここは、穏やか。ここは、魂を、終わらせる。
──この仔に、帰る場所は、ない。そも、お前たちの世界が、この仔を捨てたのに。
「……は?」
──海の魂が、世界を壊した。貝の魂がそれを諌め、払われた犠牲は全てなかったことにされた。
──七つの柱が世界を戻す時──この仔は、間違いだと認められた。
──だから、哀れな魂を我らが救う。我らと共になる。それの何が悪い?
やっぱり原因はそれかと、ベルは不快に顔を歪ませた。
 マーレリングによる世界の蹂躙と、その修正。
摂理が、世界が、フランの生きる道を許さない。
それでも樹はフランを優しく強く包み込む。それだけがフランを許し、危険な世界から子を守る、母のように。
「……」
フランが、目を開けて穏やかに笑う。
「……ほら、こう言ってますしー、……つじつまあわせで消されたミーが、どこに帰るってんですかー?」
大樹の囁きに促された言葉に眉を顰める。
らしくない。
そんな生ぬるい笑顔も、弱気な言葉も。
帰る場所?そんなもの、最初から決まっている。
世界が不要と言おうと、ベルはフランの為の席を空けてずっと待っていた。
「決まってんだろ、俺の隣」
「……、」
フランが、大きく目を見開く。
「お前だって帰りたいから、俺の声に応えたんだろーが」
「それ、は……」
「なんで変に拗らせてるわけ?帰りたいなら帰るでいいだろーが」
「……人類みんな、センパイほど、単純じゃないんですよー」
「うるせえ!つーか、お前に拒否権ねーし、何回も電話で言っただろ、帰って来いって。次言わせたら殺すぞ」
フランの瞳から、つぅと雫が落ちる。
翡翠は水に濡れるといっそう美しく映えるのだと、どこか他人事のように思った。
「……ほんと、ムカつきますー。ベルセンパイのくせに」
「あ?」
「はいはい、わかりましたよー。……なんか今の言葉で自我戻ってきちゃったし……帰れば、いいんでしょー」
その声色は気だるげで、でも、少しだけ、嬉しそうで。
諦めたように呟いたフランの声を遮るように、木々が大きくざわめいた。
──駄目!
──駄目、駄目!
──終われ、ここで、眠れ!
「うわっ、あ、ぐっ……」
突然、大樹の根がフランの首を絞めつけた。
「!」
駆け寄ろうとした瞬間、フランを幽閉するように樹の根が伸び、堅牢な自然の壁が作られる。
根は生物のように蠢きながら、ベルの行く手を阻んだ。
「チッ……!」
──お前は、去ね。
先程まで穏やかだった樹の声が、人ならざる本性を表す。
うごうごとうねる根は、いつかフランの部屋でやったゾンビゲームのラスボスを彷彿とさせる。
「こんなん全部切り裂いて……あ、」
ベルはナイフを構えようとして、ここが精神世界であることを思い出した。
ここには、匣も武器もない。
「クソ、ふざけんなよ……!」
『餞別をあげるよ』
ベルは瞬間、意識を失う前のマーモンの言葉を思い出した。
まさかと思いながら、ポケットに手を伸ばす。
「……ししっ」
『そっちの世界で本当に使うかはわからないけど、君は血の気が多いしちょうどいいだろう』
「アイツ、ホントに王子のことわかってんなー」
手に馴染んだそれを握って、ベルはニヤリと口を歪ませた。
──お前は、良くないモノだ。
──仔は、渡さない!
「あ?うっせーよ」
自然の触手が視界を覆う。
迫り来る異形のそれを目の前に、ベルは一歩も動かずに取り込まれた。
「良くないモノとか、当たり前じゃん?俺、悪魔だし」
触手の塊が、内側から弾ける。
たったナイフ一本で、摂理の体現の末端を切り刻んでいく。
ああ、久しぶりに手ごたえのある獲物だ。
──悪魔、悪魔!堕落したもの!
──ああ、汚らわしい!
血肉の代わりに樹液らしきものが撥ね、大樹の悲痛な叫びが脳に届く。
「っせーな、お前らが食おうとしてるそいつも大概汚ねー奴だぜ?」
切ったそばから再生を始めた根の合間を駆け抜けながらいつか戦った真六弔花を思い出して、ベルはししし、と笑い声を漏らした。
──来るな!
「おら、よっ」
真正面から伸びてきた根を踏み台にして、大樹の中心に辿り着く。
「っ、ぐっ……」
「いつまで囚われの姫やってんだっつーの」
ベルはフランの首と四肢に巻きついた根を音もなく切り裂いた。
「はっ、げほっ、げほっ……うぇっ……」
咳き込みながら首元を抑えるフランに、手を差し伸べる。
「ほら、フラン。さっさとこっち来いよ」
「……ホント、クソ最低な悪魔ですねー」
フランの痩せこけた手が、重なった。
ああ、ここまで来るのにずいぶん長かった気がする。
「しししっ、サイコーの誉め言葉♪」
引き寄せて抱き締めた身体は、生きているのが不思議なくらい軽かった。
「っし、早くこっから出るぞ」
「あ、ちょっと待ってくださいー、コレ……」
「うわ、なにそれどーなってんだよ」
ベルはフランが指さしたうなじを見て顔を顰めた。
フランの首の後ろは根が張られ、ドクドクと脈打っていた。
「これ切りゃいいんだな?」
──やめろ、やめろ!仔は我らのものだ!返せ!返せ!返せええええええええええ!
声の焦り方からして、きっとこれは大樹とフランを繋ぐ心臓部なのだろう。
我らのもの、だなんて面白い冗談だ。
「こいつ、元々王子のだから。勝手に持ってくんじゃねーよ」
──ア、アアアアア、アアアアアアアアアア!
それをスパンと切り裂くと、大樹は断末魔に相応しい絶叫を響かせる。
ぐったりとうなだれたそれが、もう二度と動くことはなかった。
「────セン、パイ」
フランが軽い身体を預けてくる。
「……フラン」
最後に見た時より幾分痩せた頬に残る涙の痕をなぞりながら、ベルは改めて、フランの顔をつめた。
「……面倒事に巻き込まれてんじゃねーよ」
「そもそもトゥリニセッテがもう少し上手く事象の修正してくれれば、ミーはこうならずにすんだんですけどー」
「はいはい」
ベルは減らず口を黙らせるために、フランの唇を自身の口で塞ぐ。
そのまま緩急をつけ、じっくりと深くしていけば、息継ぎの間にフランのほうから口づけが返ってきた。
それに応えて唇を離さないまま、フランの左の薬指に道標の赤い糸を巻き付ける。
もう二度と──死が、ふたりを分かつことがないように。
「……なんですかー、めちゃくちゃかっこつけちゃって。王子様気取りですかー?」
「気取りじゃなくて王子だっつーの。それより、さっさと帰んぞ」
「帰り方わかるんですかー?」
「あ?行きと逆のことすりゃいんだろ。ちゃんと手掴んどけよ」
赤い印を飾り終えた手を取って、ヘンゼルとグレーテルのように、糸を目印に森の出口を目指して歩き始める。
「行きはよいよい帰りはこわい、じゃないといいんですけどねー」
「あ?なんだそれ」
「なんでもないですー。……センパイ」
「ん?」
「絶対、ミーのこと離さないでくださいねー」
フランの手がほんのわずか、力を込めた。
「はいはい、ったくしょーがねーな」
こういう時だけ可愛いことすんだな、とため息をつきながら歩き出す。
森の出口は霧に包まれていて、一歩進むごとに重力がなくなる感覚に包まれる。
ベルは久しぶりの充足感を覚えて、手を強く握り返した。

こつ、こつん、こつ、こつん、こつ、こつん。
曇天の朝、ヴァリアー本部の廊下にふたり分の足音が響く。
「なんで自分の意思じゃなかったのに家出扱いにされたんですかー不条理ですー」
「むしろ殺されなかっただけマシだと思えよ、新人?」
「やっぱりブラックだなーこの暗殺部隊」
ベルは小さな欠伸をしながら、軽い足取りで歩を進める。
アジトの外へと続く荘厳な扉の前は、何人かの隊員が集まって談笑をしていた。
「まさかフラン様が復帰するとはな……」
「ミルフィオーレと内通してて殺されたってのは噂だったんだな……」
ベルの地獄耳は隊員たちの囁き声をしっかり捕まえる。
──こいつら、本当にくだらねー話しかしねーな。
「俺てっきり六道骸のところに戻ったんだと……あ、おい頭下げろ!」
幹部二人の姿を見るや否や、隊員たちは門番は畏怖の念を込めて深く頭を下げた。
「お疲れ様ですー」
「はっ!」
噂の本人を目の前にして気まずいのか、声が震えている。
「あ、噂話は本人の居ないところで、小さい声でした方がいいですよー。まあミーは気にしませんけどー」
「ひっ……!」
男たちの顔が一斉に青ざめる。
「しししっ」
それを見て、ベルは満足げにフランのカエル帽を撫でた。


街の喧騒が耳に届く。
「さあさあ今日は安いよ!最高に美味い自家製レモンだ!」
「フォカッチャ!焼きたてだよ、一個買ってくんな!」
商店街は新鮮な食材と売り手の歓声で賑わっている。その誰もが、上機嫌で歩く殺し屋と眠たげな術士を気にすることはない。
「なんか、ここ来るのも久しぶりの感じですー」
「そりゃお前はな」
ベルとフランは売られているものをゆっくりと吟味し、紙袋がいっぱいになる程買い込んだ。今日はフランの復帰パーティだ。
粗方の買い物を済ませてから、ふたりは端にぽつんと佇むパン屋を目指した。
屋台の店番は、いつもの通り無愛想な少女がしていた。
「ミーはシナモンでー」
「じゃ、シナモンとチョコと、プレーンいっこずつ」
「はい」
「え、」
「復帰祝い。食えんだろ?」
「まあ、いけますけどー……」
少女からチュロスを受け取って、人混みを離れて小道を歩く。
無駄に汗をかくこともない、ちょうどいい天気だ。
「ん」
「あ、どうもー」
フランは両手のチュロスを見比べてから、それらを一口ずつ頬張った。
「……あ、プレーンはプレーンでうまいですー」
「マジ?俺も食う」
横から一口かじると、生地と砂糖のシンプルな甘さがじゅわりと広がった。
今まで食べたことがなかったが、好みの味だ。
「……悪くねーな、次はプレーンにしてみるか」
「チュロス、うまいけど口の水分持ってかれますよねー」
「じゃ、どっか店入るぞ。これだけじゃ全然食い足りねーし」
「さーんせー。荷物重いしー、ミーは砂糖マシマシのココアが飲みたいですー」
ベルはフランが以前砂糖マシマシと言った時、既に甘いココアに砂糖を五杯も六杯も入れていたことを思い出した。
あれは──甘すぎて舌が痺れるかと思った。
「……お前、マジで太るぞ」
「どうせセンパイはかっこつけてコーヒーとか飲むんでしょー?砂糖入っててもニガイですよあんなの」
「ししっ」
フランの頭をぽんぽんと叩く。
「じゃ、その良さが分かるまで死ぬなよ」
「…いつもナイフ投げてくる人が何言ってんだが」
「お前が煽ってくるからだろーが」
フランがチュロスをかじりながら、カフェへの道を歩き出す。
隣にフランがいても、世界は何も変わらず、当たり前の日常が過ぎていく。
「……あ、カエル」
「はいー?」
フランの口の端についた粉砂糖を舐めると、フランがうげえと顔を顰める。
「……クッサイんで、そーいうこと往来でやるのやめてもらっていいですかー?」
「ししっ照れんなって」
「照れてないですー」
フランはずかずかと先に歩いていってしまう。──と思ったら、突然ピタリと足を止めた。
「そーいえば、前に恋がどうとかって話したの、覚えてますかー?」
「……おう、なんとなくな」
「あれって原義が『叶わない想い』を指すだけで、今じゃちょっと違うんですよねー」
「ふーん?」
ベルはチュロスを食みながら、フランの言葉に耳を傾けた。
「『特定の人に強く惹かれること』、『切ないくらい深く想いを寄せること』って意味らしいんで―、センパイにぴったりですねー」
「あ?」
「だって、ミーに会えなくて泣いちゃうくらいぞっこんなんですからー」
「ぶっ!」
予想外の言葉のせいで思わずふき出す。
ベルはげほげほと咳き込みながら、フランを睨みつけた。
「てめっ、それ誰から……マーモンか!あのクソチビ……!」
恐らくマーモンのことだ。おいしい情報があるとかなんとか言って、フランから金を巻き上げたんだろう。
あの時口止め料も払っておけばよかった。
「いやーセンパイって可愛いところもあるんですねー」
顔が熱くなるのを感じる。
こいつは、これだからこのクソ後輩は!
「お前だって迎えに行った時泣いてただろーが、ガキ!」
あの大樹の下で、フランは確かに泣いていた。
「あれはー……生理的なアレなんで、ノーカンですー」
少し言いよどんでから、フランは再びてくてくと歩き出した。
自分だけ都合の悪いことから逃げるなんて許さない。
「アレってなんだよ、アレって!嘘ついてんじゃねーぞ、わかってんだからな!」
それを追いかけて、すっかり肉づきを取り戻した体に蹴りを入れる。
「うわー暴力反対―」
どんよりとした空を見上げる暇もないくらい、目の前の後輩の減らず口は止まらない。
口の中に残った粉砂糖の食感は、もう気にならなかった。



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