当主様はハッピーエンド以外認めない

 レイジが作っている炊き込みご飯の匂いがする。
 ヒュースが食べたらどんな感想を言っただろうかと、天井を見ながら考える。
 彼がアフトクラトルに帰ってもう一年以上が過ぎた。
 迅はそれなりに忙しい日々を過ごしていたが、暇があるとヒュースのことを考えてしまう。
 ヒュースがいなくなった直後はまだわかる。しかし、一年経っても、その癖はなくならない。彼がいなくなった喪失感は、時間と共に過ぎ去ってはくれなかった。
「迅さん、またぼーっとしてる。考え事?」
「え? あー……うん、ごめん」
 空閑にそう言われて、顔を引き締める。こんな調子ではヒュースに怒られてしまう。いや、もう彼が怒ってくれることはないのだけれど。
 会いたい、どうしようもなく、彼が愛おしい。
 少しだらしなくしていたら彼がしゃきっとしろと言ってくれるんじゃないかと、どこかで期待している。
 でも、ヒュースはもういるべき場所に帰った。迅のところに現れることは、もうない。
 いい加減前に進まなければいけないのはわかっている。わかって、いるけど。
「はあ……」
 口から重いため息が零れる。この感情を処理する方法を、迅は知らなかった。
「ヒュースのこと?」
「へっ!?」
 空閑が真っすぐな瞳で問いかける。
「ヒュースに会えなくて寂しいんじゃないの?」
「い、いや、ヒュースがいなくなってもう一年以上経つよ? おれもそこまで引きずらないよ」
「はい嘘」
 びしっと指をさされる。空閑には嘘が通じないとわかっていても、思わず虚の言葉を並べ得てしまった。
「そんなに好きだったら、ずっとこっちにいてほしいって言えばよかったのに」
「……そんなの、無理だって。ヒュースはずっと帰りたがってたんだから」
 そうだ。彼の生きる場所はここではなかった。出逢えたこと自体が、奇跡のようなものだった。
 想いを確かめ合ってほんの少し一緒にいられただけで、満足しなければいけない。
 ヒュースはきっと、違う空の向こうで幸せに暮らしているはずだ。
「一緒にいたかったってのは本当だけど、ヒュースに無事に帰ってほしかったってのも、本当なんだ」
「一緒にいたいって、ヒュースには言ったのか?」
「言わないよ。困らせるだけだから」
 自嘲気味に呟いて、ふと笑みを浮かべる。
 互いの背負っているものを理解したうえで、それでも恋をした。
 別離の運命は決まっていたのだ。迅とヒュースが互いの譲れぬものを持つ以上、仕方のないことだった。
「今は寂しいけど、多分……そのうち、いい思い出になるさ」
「そう言って、死ぬまで引きずってそうだけどね」
 そんな会話をしていた時のことだった。
「ただいま戻りました……迅さん、いますか?」
 三雲が扉を開いて部屋に入ってきた。その顔に、困ったような汗が浮かんでいる。
「おーメガネくん、どうした?」
「あの、迅さんにお客さんなんですけど、その……」
「客?」
 今日は誰とも会う予定はないはずだ。ボーダーの誰かが訪ねてきたのだろうか。それにしては、三雲の困惑した表情が気になる。
「その、たまたまそこで会ったんですが……」
「おお、ここが玄界の屋敷ですか。狭いものですねえ」
 三雲の後ろからひょこりと人影が現れる。
 その姿を見て、迅は思わず立ち上がる。
 灰色の服、黒のマント、なにより特徴的な──頭に生えた、二つの角。
「アフトクラトル……!?」
 空閑がトリガーを起動する。迅もキッチンにいたレイジも戦闘態勢になる。
 アフトクラトルが攻めてくるような未来は見えなかった。どうして、何故このタイミングで現れた?
「ああ、どうか警戒を解いてください。戦う意志はありません」
「……嘘は、ついてない」
 空閑が目を細める。どうやら本当に敵対の意志はないらしい。
 それならば、一体何の用でこちらの世界にやってきたのだろうか。
「ジン、という人間がこちらにいると聞きました。どなたですか?」
「……おれだけど、どうしておれのこと知ってるんだ?」
「おお、貴方が」
 男は一歩踏み出し、迅をじろじろと見定めるように観察する。
「……あの子の話を聞く限り意地の悪い人間だと聞いていたんですが、案外見た目は優男ですねえ」
「はい?」
「ああ、申し遅れました。私はアフトクラトルのエリン家で当主をしているものです」
「エリン家……って、ヒュースの!?」
 ヒュースが命に代えても守りたいと言っていた、主君。それがどうしてこちらの世界に?
「貴方の噂はかねがね。今日は貴方に渡したいものがあってこちらに来た次第です」
 そう言って、当主と名乗った男は懐から何かを取り出す。
 それは──ヒュースを模した、手のひらサイズの人形だった。
「ヒュースの、人形……?」
「まあ見ててください」
 男が人形を持ち上げ、掲げる。そして、トリオンを人形に注入した。
 するとぼふん、という音がして、人形があったはずの場所に、首根っこを掴まれたヒュースがいた。
「ヒュース!?」
「迅!?」
 ヒュースが驚いた表情で当主の方を向く。
「当主様、これはいったい……!?」
「お前がジンに会いたくて仕方ない様子だったから、玄界に来たんですよ。まあ惑星の距離が遠くて三か月もかかってしまいましたが」
「な、勝手に遠征に行くなど、上になんと言われるか……!」
「お前が素直になればもっと簡単に済んだんですがねえ、それっ」
 そう言って、当主はヒュースを迅に向かって投げる。
「っ!?」
「ヒュース!」
 咄嗟にヒュースの身体を抱き止める。一年ぶりの体温は、ひどく温かかった。
「ジン、その子は貴方にあげます。せいぜい大事にしてください」
「は!?」
「当主様!? 何を仰るんですか!?」
 どうやら、ヒュースも事態を飲み込めていないらしい。
「いえね、お前が帰ってきてから一年経ちましたが、未練たらたらなんですもん。我が子から毎日惚気られるこっちの身にもなってください」
「惚気っ……!?」
「私も神に選ばれることは回避できましたし、お前がいなくてもどうにかなりますから」
「待ってください、当主様!オレはエリン家のヒュースです! 貴方に一生仕えることこそ、オレの生きる意味で──」
 ヒュースの言葉に、当主の目が細められる。それを見て、ヒュースはたじろいだ。
「ではヒュース。お前、今死ぬとしたら、誰のことを思い浮かべますか?」
「それはもちろん当主様です!」
「嘘だね」
 空閑の冷静な声が部屋に響く。
「遊真っ、貴様……」
「嘘っていうか、嘘も混じってる」
「ええ。きっと私のことを思い浮かべるでしょう。でも──それだけじゃない、きっとお前は、ジンのことを考える」
「…………」
 ヒュースは、否定しなかった。
「今のお前がアフトクラトルの兵士として生きると言っても、私が納得できませんよ。私は大丈夫だから、お前は好きな人と一緒に生きなさい」
「当主様……」
「あーあ、手塩にかけて育てた可愛い子が、いつの間にか他の男に毒されてるなんて!」
 当主がはあ、とため息をつく。
「ジン」
「は、はい」
 名前を呼ばれて思わず姿勢を正す。
「この子を泣かせたらアフトクラトルから飛んできますよ。殺しますからね」
「は、はい……」
 柔和そうな瞳が迅を睨む。脅しではなく、本気で言っているのがわかった。背筋に汗が一筋流れる。
「では私はこれで。あ、そうだ」
 当主が小さな端末をヒュースに投げ渡す。
「これは……?」
「それでたまには連絡するように。ただし、惚気はほどほどにね。すみません黒髪の方、さっき私と出会った場所まで案内してくれませんか」
「え、あ、はい!」
 当主は三雲を連れて出ていく。
「当主様!」
 ヒュースの呼び声に、当主が立ち止まる。
「……もう、オレを、必要としてくれないのですか」
「──ええ。私は貴方を捨てます。どこへなりと行ってしまいなさい」
 それは子の旅立ちの為に背中を押す親の、愛だらけの言葉。
 そうして、当主は振り返らずに歩みを再開する。
 ヒュースはいつまでも、その後ろ姿を見つめ続けていた。
「当主様……」
 迷子になった子どものような声が部屋に落ちる。
 信じていた当主に別れを告げられたことが相当ショックなのだろう。
「つまり、ヒュースはこっちで暮らすってことか?」
 空閑が顎に手を当てながら質問を投げかける。
「そういうことになるんじゃないのか、当主とやらが好きな人と──迅と、一緒に生きろって言ったんだからな」
 レイジが換装を解きながら答える。
 ヒュースは声を震わせて、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「オ、オレは……ずっと、当主様のために生きてきたのに……こんな、急に……」
「ヒュース……」
「これから、どうやって生きれば、いい……?」
 十数年当たり前だと思っていた生きる理由が突然無くなってしまったのだ。呆然自失になるのも無理はない。ヒュースの身体は震えていた。
「ヒュース」
 迅の声で、ヒュースが顔を上げる。
「ごめん、おまえは困惑してるかもしれないけど……おれ、嬉しい」
「迅……?」
「本当は、本当は──ずっと、おまえと一緒にいたいって、思ってたから」
「……!」
「生きる理由なら、これから見つけれればいい。ここで。だから、戻ってきてよ。玉狛の皆だって喜ぶ。ボーダーはおれが説得する、絶対おまえがここで暮らせるようにするから」
 必死に言葉を紡ぐ。自由になったヒュースに、どうしても自分を選んでほしかった。
「……そう、だな。今のオレには、行くあてがここしかない」
 ヒュースが決意を固めたように、拳を握り締める。
「当主様が、無理をしてまで作ってくださったチャンスだ」
「っ……!」
「迅、貴様の隣で、生きてやる」
「ヒュースっ……!」
 ヒュースの身体を強く強く抱き締める。
 もう二度と触れることができないと思っていた体温を、全身で感じる。
「ヒュース……」
 その薄くて柔らかな唇に口づけようとしたら、口を手で塞がれた。
「っ、人前で、そういうことをするなと言っているだろう!」
 そんなことを言われても、一生会えないと思っていた恋人が隣で生きてくれると言ってくれたのだ。嬉しさでどうにかなってしまいそうだ。
「一年ぶりなんだから、ちょっとくらいいいじゃん」
「貴様のちょっとは信用できん」
「ヒュース、とりあえず手を洗って着替えてこい。その服堅苦しいだろ。お前の部屋はそのままにしてあるから。昼飯は炊き込みご飯だぞ」
「たきこみごはん?」
「ごはんに味がついてるんだ、うまいぞ」
「……わかった、すぐに着替えてくる」
 ヒュースが迅の腕の中からするりと抜け出す。
 洗面所に向かおうとした手を引いて、頬に軽く口づけた。
「なっ!?」
「へへ、隙あり」
「おお、人がキスしてるの初めて見た」
「迅、人目を考えろ……」
「~~~~っこのっ……!」
「ヒュースの親代わりからもお付き合いの許可出たし、これくらいいいだろ?」
 な、と言ってヒュースを抱き絞め直す。
 数秒後に顔を真っ赤にしたヒュースにグーで殴られる未来が見えたが、それすらも嬉しかったので、あえて避けずにそれを受け入れることにした。
 ボゴッ! と鈍い音が部屋に響く。
 この愛おしい痛みを一生忘れることはないだろうと、迅は微笑んだ。
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