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いとしきうたのね


 それから、数日。
 風呂から戻り、自室の扉を開く。
 体に残る熱気を払うように、肩にかけたタオルでぱたぱたと風を作る。
 もう夜も遅い。他の人間が全員寝静まった空間は少し悲しいほどに静かだ。
 眠る前に音楽でも聴こうかとスマートフォンを手に取った時、コンコンと扉をノックする音がした。
「ん? だれ?」
「オレだ、迅」
 扉の向こうから、ヒュースの声がした。夜を共にしない限り、もう眠っているはずの時間だ。
「はいはい、どしたの?」
 扉を開けると、目線が定まらずに身体をそわそわとさせているヒュースがいた。
「ヒュース?」
「迅、未来視で確認しろ。しばらくこの部屋の前は誰も通らないかどうか」
「え? いや、こんな時間だから誰も通らないと思うけど……」
「いいから、確かめろ」
「わ、かった」
 ヒュースの真剣な声色に負けて、辺りを見回してみる。
 しばらくして、未来が見える。迅の予想通り、廊下は現在と変わらず静寂を保っていた。
「大丈夫。誰も通らないよ」
「わかった、ならいい」
 そう言って、ヒュースが部屋へと入ってくる。
 今のヒュースはなんだか変だ。妙にそわそわしているし、声色も固い。どこか、緊張しているような。
 ヒュースが後ろ手で扉を閉め、ベッドに座る。
 迅もその隣に座り、ヒュースが話を始めるのを待った。
「……迅」
「ん?」
「今でも、あの歌は好きか」
「え? あ、この前教えたやつ? うん、好きだけど」
 突然の質問に面食らう。今でも好きか、とはどういう意味だろう。
「…………」
「…………」
「…………すぅ」
 ヒュースが息をする音が、静かな部屋に響く。
 どうしたの、と言おうとした瞬間、ヒュースが目を閉じて口を開いた。
「────♪────♪♪……」
「……!」
 紡がれたのは、聴きなれたメロディ。
 それは、迅がヒュースに教えた、あのグループの曲だった。
「────♪、──♪─────♪♪」
 静かな清流のような歌声が、部屋を満たす。
 それは想像よりもずっと澄んでいて、柔らかく、迅の耳に届く。
 ヒュースに似ていると思っていた、頭の中で再生できるほどに聴いていた歌声が霞んでいく。
 ──本物のほうが、何倍も、何十倍も綺麗だ。
「…………────♪」
 一曲全てを歌い終わったヒュースが、ふうと息をつく。
「す、ごい」
 迅は、思わず手を叩いて賞賛を送る。
「すっごいうまかった。練習、したの?」
「音楽を聴きたいと言ったら、栞が使っていない端末を貸してくれたので、聴いて覚えた」
 ヒュースは飲み込みが早いからすぐに覚えられたのかもしれないが、音を覚えるのと歌えるようになるのは全くの別物だ。
 でも、どうして急に歌を、しかも迅ひとりに披露したのだろうか?
 それを聞く前に、ヒュースが迅、と口にする。
「歌なら、オレだって歌える」
「え? あ、うん」
「だから…………」
 だから、ひとりで音楽を聴くな。
 少し拗ねたような口調で、ヒュースがそう呟く。
「……えっ、と」
 言葉の意味を頭の中で必死に考える。
 ひとりで、音楽を聴くな。
 独りで、音楽を聴くな。
 音楽を聴いているとき、迅はいつもヘッドフォンをしていて、周りのことがいつもよりおろそかになっていた。
 まさか、迅がずっと音楽を聴いていたから、寂しかったのだろうか。
 耳を遮断して没頭する姿を見て、迅が独りの世界に閉じこもっているように見えたのかもしれない。
 だから、迅の好きな曲を練習して、自分で歌って、迅を振り向かせようとした?
 それは、紛れもない嫉妬だった。その対象は、音楽そのものか、迅が好きだといったボーカルに対してか。
「~~~~~~っヒュース!」
 がばりとヒュースに抱き着いて、力いっぱいに抱き締める。
 ああ、おれの恋人はなんて可愛いんだろう!
「きゅ、急に抱き着くな馬鹿者!」
「大丈夫、ヒュースのことしか考えてないよ。この曲好きになったのだって、ヒュースに声が似てるなって思ったからだし」
 拘束を解いて、ヒュースの顔を正面から見据える。
 白い肌が薄い赤に染まって、ヒュースが照れているのがわかった。
 その頬をそっと両手で包み込む。
「そう、なのか?」
「うん。ヒュースが歌ってくれたらどんなだろうって。でも、本当に歌ってくれるなんて思わなかった。ヒュースの方が何倍もよかった」
「……そう、か」
 ヒュースが、迅の手に手を重ねる。
「なら、もうあの曲を聴くことはないな?」
「うん。もうヒュースの歌しか聴かない」
「っ、オレはもう歌わん」
「えーなんで? 折角おれのために練習してくれたんでしょ? 聴きたいよ」
 ね、ヒュース。おねがい。
 子どもが甘えるような声で、そう懇願する。
 ヒュースがこのおねだりに弱いことはわかっている。
 実際、ヒュースは照れながら逡巡の表情を見せた後、観念したように迅の額にこつんと自分のそれを重ねた。
「……ふたりきりの、ときなら」
「うん、おれも他の誰にも聴いてほしくない。おれだけに、聴かせて」
 ねえ、もう一回歌ってよ。
 ダメもとで、そう囁く。
「……」
 ヒュースが目を閉じて、再びリズムを奏でる。
 サビだけ歌うと、もういいだろう、と歌が途切れる。
 歌を歌うのが恥ずかしいのではなく、迅の為だけにわざわざ曲を覚えて、それを披露するのが迅への想いを如実に物語っていて、恥ずかしいらしい。
 まったく、本当にこの恋人は可愛いことばかりする。
「ヒュース」
 名前を呼んで、そっと口づける。
 ヒュースはそれを拒むことなく、迅の肩に手を置いて、迅の欲を受け入れる。
「んっ……」
 息継ぎの合間の甘い声が耳に届く。その声がもっと聞きたくて、口づけを深くすると、ヒュースがあ、と声を漏らした。
「じ、んっ……」
 切なそうな声で名前を呼ばれると、ずくりと下半身が疼く。
 腰を引き寄せて、その鍛え抜かれた身体に手を這わせる。
「な、まて、」
「歌声もいいけど、おれ、別の声も聞きたいなあ」
 迅だけを求める、蜜のような声が、欲しい。
 男の欲を満たす、甘美な、夜だけの声が。
 欲望を隠さない声色で囁くと、ヒュースはぐぐ、と顔を歪ませる。
「……明日は、遊真と訓練をするから、一回だけ、なら」
「りょーかい、じゃあなるべく長くしようね」
 ヒュースの鎖骨に唇を当てて、服の中の素肌に手を這わせる。
 ぁっ、といつもより一段高い甘い声が漏れる。
(やっぱり、本物のほうがいいな)
 だって、画面の中のアイドルじゃこんな声は聞けない。
 迅は世界でいちばん愛おしい音を余さず聴くために、その身体を食み始めた。
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