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春を待つ




 ──ヒュース、ヒュース。
 声がする。自分を呼ぶ、声が。
 優しい声色。当主様だろうか。
 まどろみの中で、ぼんやりと考える。
 ──ヒュース、そろそろ起きてよ。
 待ってください、今、とても眠くて。
 身体が何重もの繭に包まれているような感覚。
 ──おれ、寂しいよ。
 おれ? 違う、当主様じゃない。
 この、声は。何度も自分を呼んだ、この声は。
 ──ヒュース、起きて。おれの名前、呼んでよ。
 迅、迅だ。迅の声がする。
 そんな甘えた声を出すな。オレより年上だろう、貴様。
 ああ、でも、オレにだけ甘えるお前は、見ていて気持ちがいい。
 迅がどんな顔をしているか気になる。そうだ、オレは確か、迅に伝えたいことがあって。
 そう思って、ゆっくりと瞼を開いた。
 ひらひらと、カーテンが舞う。
 そこには、窓から見慣れた玄界の青い空が見えた。
 そして、ベッドの脇に、空色の服の男が在った。
「……おはよ、ヒュース」
 迅が、くしゃりと笑みを浮かべる。
 まだ眠気の残る頭で、その頬に手を伸ばす。
 ひどく、あたたかい。触れていると、安心する。
「……迅」
 迅がなあに、と答える。
「……好きだ」
 倒れる前にも言った気がするが、もう一度言いたかった。
「ずっと、好きだった。貴様のことが」
 迅が目を見開く。この未来は見えていなかったのだろうか。
「……ほんとに?」
「嘘をついて、どうする」
「だって、おまえ、一回も好きって」
「捕虜だったからな。だがもう一度アフトクラトルに戻った身だ。好きに言わせてもらう」
「……そっか」
 迅の顔が歪む。それは見たことのない、初めての表情だった。
「……貴様、そんな顔をするんだな」
「どんな顔?」
「泣きそうな、顔をしている」
 迅がこんな顔をするなんて。涙なんて縁のない男だと思ったのに。
「おまえしか、おれにそんな顔させないよ」
 迅がヒュースの手に手を重ねる。
「おれも好きだよ、ヒュース。もう、おれから離れないで。ずっと傍にいて」
 子どもが甘えるような声で、懇願される。
 誰からも頼りにされる男が自分にだけそんな姿を見せるのは、ひどく心地が良かった。
「貴様がオレを捨てなければな」
「そんなことしないよ。一生、大切にする」
 迅がゆっくりと顔を近づける。
 もう二度とできないと思っていた行為に、胸が温かくなる。
 唇が、触れて。互いの体温を分け合う。
「……迅、好きだ」
「うん。もっと、言って」
「……すきだ」
 もう一度、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「何回でも、言って」
 もう一度、唇が触れる。
 それはもう、別れを告げる悲しいものではなく。
 愛を確かめ合う、生ぬるくて、泣きそうなほどに甘い誓い。
「迅、愛してる」
「……おれも、愛してるよ、ヒュース」
 白いシーツの上で、手を握り合う。
 もうこの手を離さなくていい。ヒュースの居場所は、ここにある。
 新しい人生のはじまりに、ヒュースは穏やかに微笑んだ。

 これは、ここから始まる、幸せな恋の物語。
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