現在編
「じゃあキー君とディープキスとかどう?」
「はい?」
「へ?」
仕事終わり、唐突に放たれたロイさんの一声にアッシュだけでなくキイトも一緒になって目が点になる。
よく行われるペナルティというか罰ゲームというか。
ロイさんはその日の気分でよく罰ゲームと称してアッシュに無理難題を押し付けてくる。
困っているのを見るのが面白いとこぼしていた事があるので、多分単純に困らせたいだけなんだろう。
今日はたまたまキイトが犠牲になったというわけだ。
「何で俺!?」
「だってみんな帰っちゃったじゃない?あと僕しかいないし」
突然名前を呼ばれ驚いたキイトが抗議の声を上げるがロイさんはどこ吹く風である。
「それにキイト君今日花瓶割っちゃったし」
「……うぐ!」
ロイさんの言う通り、今日キイトは花瓶を割ったらしいのだ。それも二つ。
後出勤がくるよりも前、カフェ時間に出勤している時に盛大にこけてしまったらしい。
成る程、これはキイトにとっても罰ゲームであるらしい。
しかし何故にディープキスなのか。
よくよく思い返してみれば、そういえばロイさんが接客していたあたりのお客と彼がそんな話をしていたような気がする。
アッシュやキイトはウェイター役だ。フロア全体が担当なのでひとつの所には留まらない。なのでうろ覚えではあるがそんな事を話しているのを小耳に挟んだ気がする。
どちらにせよ、単なる思いつきで言っているに違いない。
現になんて返事を返してくるのかロイさんはニコニコしながらカウンターの前で頬杖をついている。
あまりまともに取らなくても良いだろうとアッシュは呑気に構えていたが、キイトはアッシュに向かい合う。
「ちょ、キイト?」
「考えるよりしちゃった方が早いっス」
「待て待て待て!」
慌てて止めに入るが聞く耳を持たない。というか、既にする態勢に入っている。
顎と一緒に首の後ろを掴まれる。
「冷た…」
思ってもみなかった冷たい感触にビクつく。どうやらキイトが良くつけている指輪が当たったらしい。
そんなことお構い無しにグッと身体を近づけられ、思わず怖気付いた。顔を後ろへと引くがそれを押さえ込まれるように体を寄せられる。
首だけ後ろに沿ったせいで仰け反るような態勢になってしまった。正直苦しい。
それに無理に首を引っ張られるからか指輪が当たるところが痛い。
スリ、と唇と撫でられ本格的にヤバいと早鐘が鳴る。
「キイトま、」
抗議の声を出そうとしたのと口が重なったのはほぼ同時だった。
身長はアッシュよりキイトの方が僅かに低い。が、キイトの方が力は強いのだ。
後ろに下がろうとするが、直ぐ背中に壁がぶつかる。これだけがっちりと抱き込まれると横には動けないし、男同士なので腰を寄せられると際どいのだが。
というか何故にこいつはその気になったんだ。普通もうすこし躊躇しないのか。5つくらいしか違わない筈だが、キイトの思考はよく分からない。
「ん゛、ぅ」
するりと舌が差し込まれる。びっくりして口を閉じるがもう遅かった。
ぬるりとした感触に嫌悪感を抱くよりも早く、せり上がって来たのは吐き気の方だった。
アッシュはもともと大口を開けてものを食べる習慣がない。物をたくさん詰め込むのも苦手だ。
ちまちま食べて腹が膨れてしまい、残してはよく怒られる。
そんなタイプの人間なので口の中に自分のものじゃない、いわば異物が侵入してきて反射的にえずきそうになるのだ。
正直ディープキスにはろくな思い出がない。
昔いた彼女とそういう雰囲気になった時も、相手がキスを求めて来たので応じればそのまま深くされた。
結果、盛大にえずいてしまいその場で思いっきり引っ叩かれたのだった。
あれは本気のビンタだった……結構痛かったなぁ。
元々淡白でなかなかその気にならない彼氏を振り向かせようと頑張ったのに吐かれたのではそら怒るわけだ。
今思えば相手の子には可哀想なことをした気がする。
「……っはぁ、」
「アッシュさん下手っスね」
「ん、るさい」
Q.現実逃避でしょうか
A.はいそうです。
思わずそんな事を思い出して気をやらないとどうにかなりそうだ(吐きそう)
しかも変に吹っ切れたキイトは遠慮がない。
その分色々とせり上がってくるのが早かった。
あ、無理吐くかも。
物理的な気持ち悪さに勝てず何度もえずいては我慢するを繰り返す。最早男同士だと気にするとかそういう次元の問題ではなかった。
今問題なのはここで吐くかどうか、それだけだ。
状況が違うにしても二の轍は踏まない。
いやむしろこの場合は踏んだ方が良いのか?
でもこんな所で吐いたらロイさんに何を言われるか分からない。
また休みの日の荷物持ちだけで済めばいいが。
そもそもあの人は持てるくせに何故大量の荷物を持たせて来るのか。
というか休みの日にいちいち呼び出してくるのやめて欲しい。
だんだん、ただのロイさんへの愚痴と化していく。思考をぐだぐだと巡らせていると急に横から声がかかった。
「アッシュ君」
「……?」
首は動かせないので視線だけでロイさんの方を向くと、彼はじぃーっと此方を見たあとで爽やかに言い放った。
「吐いちゃダメだよ」
顔は笑ってるけど目が笑ってない。
あ、これ吐いたら終わるやつだ。
さぁーっと血の気が引くのが自分でも分かる。
「ん゛……ぁ、」
「うん、いい子」
吐くわけにはいかないとせり上がって来たものを無理矢理飲み下した。
そこで気づいたキイトがぎょっとした雰囲気を醸し出すが、やめる気は無いらしい。
いやここまで反応があればむしろ止めろよ。
半泣きになりながらも止めてくれとロイさんの方を見るが、キョトンとした顔をした後にっこりと笑われた。
とてもいい笑顔である。美形は本当に得だな。
意訳するならば〝ホントにすると思わなかったけど面白そうだから続けろ〟という顔だろうか。
完全に面白がって傍観を決め込んでいる。
顔がいいと何でも許しそうになるがそもそもの原因はこの人である。
このやろうと思ったのが伝わったのか、ふわりと艶のある笑みをたたえたかと思うと――パシャリ
カメラのシャッター音が響いた。
「ん゛ぅー!!!」
「えー?何聞こえなぁい」
ニコニコしながら手を振られる。
諸悪の根源に助けは得られそうにない。
とりあえず画像は後でどうにかするとしてだ。目下の問題はキイトである。
諦めて後輩の方をどうにかすべく胸を押し返してみるが、全くどいてくれなかった。
そういえばあの花瓶、ロイさんがお客から貰った高級メーカーのヤツだったはずだ。
下手に請求されたらアッシュやキイトの給料など吹っ飛んでしまうだろう。
それでこんなに必死なのか。
納得はするが現状は変わらない。
最終手段で噛み付いてやろうと顔の向きを変えるが、上手い具合に避けられる。
それどころか何を思ったのかキイトの方も顔の向きを変え口付けが更に深くなった。
「ふ、ぁ゛」
くちゅり、と卑猥な音が響く。
――苦しい。
息が上手く吸えなくて押し返すがキイトには分かってもらえない。
ぐちゅぐちゅと口元の音が強くなるだけだった。
なんだか分からないまま押さえ付けられ生理的な涙が浮かぶ。
ぬるりとした舌の感触に首元どころか背中までぞわぞわと毛が粟立った。
ダメ元で今度はキイトの舌ごと押し返してみたがするりと避けられて絡めとられる。
こいつ絶対普段から遊んでやがる。そう思うくらいには割と上手い部類なのだろうが、されればされる程気持ち悪さ(物理)が勝った。
「んぐ、ぇ」
「ちょ、」
あ、もう無理と思ったところで声が漏れたのかキイトが慌てて口を離した。
「っ、は…ぁ」
離した舌の間に糸が引いて、ぷつりと切れる。
――やっと終わった。
アッシュは手の甲で口元を押さえてへたり込む。
「吐くほど嫌とかちょっと傷つくんスけど!!」
キイトが何やら騒いでいるが、それよりも息が苦しい。アッシュは肩で呼吸を繰り返す。キイトの方はというと、文句を垂れてはいるが何ともなさそうだ。それが更に腹が立つ。
しかし多少悪いと思っているのか、騒ぎながらも労わるように背中をさすってくれた。
そうしてもらうと少し楽だ。
吐き気から解放された安心感からまた更に涙が込み上げてきた。
「ちょ、泣かないでくださいっスー!」
「あーぁ、泣ーかせた」
「やれって言ったのロイさんじゃないっスかぁー!」
「いやー、ごちそーさま」
この人は反応を楽しんでるんだから間に受けなくていいと言おうとしたが声にならなかった。
ギャンギャンと騒ぐキイトの声と、とうとう笑い出したロイさんの声がお店の中に響く。
アッシュはへたり込んだまま家に帰りたいと切に思った。
もう、帰っていいですか。
いや、その前に画像を消してもらわねば。
あの人がタダで消してくれるとも思えないが。
この後のやりとりを思い、アッシュは遠い目をしたのだった。
おうち帰りたい。
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