泡だらけの告白
綾瀬川次郎はこの一年、大層機嫌が良かった。
普段ならば耳障りなスタンドからの野次もまるで小鳥の囀りのように愛おしく感じるほどに浮かれていた。
理由は単純。園大和がプロ入りした、最初のシーズンだったからだ。
次郎が所属するパンサーズと同リーグに属するギガンテスが、競合の末大和との交渉権を獲得したのが大体一年前の事、その時からずっとご機嫌で過ごしてきた。
バッテリーを組むベテラン捕手の平沢は、むしろ扱い難いと難色を示したし、いまだに昭和の空気を色濃く纏うパンサーズが誇る名監督の大木は、ヘラヘラした顔を少しは引き締めろと檄を飛ばしたほどだ。
けれど次郎の成績は相も変わらず絶好調だ。むしろ野次に気を散らされない分自慢のコントロール力には磨きがかかるばかり。
唯一著しく成績を落としたのは被本塁打率だろうか。
こちらも原因は大和に他ならないが、次郎とて何度も大和を三振に打ち取っているので、勝負は一進一退といった所だ。
そんな非常に楽しいシーズンを終えて、次郎はやはりご機嫌なまま、自宅の掃除に勤しんでいる。
駅の近辺にぐーんと聳り立つ超高層マンション、ホーム球場へのアクセスも良好な4LDK。これが次郎が去年から暮らしている住まいである。
一番大きな洋室にキングサイズのベッドを置いて、その他必要な家電類をリビングやキッチンをメインに配置すれば、ガラガラな余りの部屋を三つ抱えた城の完成だ。
入団早々に一軍に定着した次郎は、二年目のシーズンを終えたあたりでひとり住まいの家を探し始め、パンサーズの独身寮を卒業した。
かなりの短期決戦での部屋探しということもあり、すぐに入居できる部屋は使い道のない余分なスペースが多数あったものの、セキュリティ面やアクセスを重視すると選択肢は限られていたのだ。
入居前は、部屋が余る分には問題ないだろうと深く考えていなかったが、いざ住み始めると使わないからと言って全く掃除をしないわけにもいかず、全ての部屋に定期的に掃除機をかけることすら一仕事だった。
そんな面倒な掃除も今日ばかりは苦にもならない。
理由は当然、園大和だ。
昨年この家に引っ越したばかりの頃は諸々の手続きや、取材やテレビ収録の仕事に忙しく、大和も入寮に向けた準備がありなかなか予定が合わなかった。
そのため今日はこの家に大和を招く初めての日なのだ。
リトルの頃から対戦を重ねてきたライバルであり、年齢も所属も越えた大切な友人であり、そして次郎が密かに思いを寄せている相手でもある。
そんな相手が、今日と明日はこの家にいて、思う存分一緒に過ごせるのだ。
嬉しくて嬉しくて歌でも歌い出しそうなほど上機嫌に、手抜かりなく掃除を終えた次郎は次いで大和のために揃えたお泊まりセットを点検する。
歯ブラシ良し、タオル類良し、着替え良し、コップ良し、箸良し、エトセトラ。
今日来てそのまま暮らせる程度には完璧な準備に満足気に頷いて待ち人の到着を待つのだった。
◇◇◇
「大和、いらっしゃい」
「綾さん、お邪魔します」
玄関を開けると、冷たい外気と共に厚手のダッフルコートでもこもこに膨らんだ大和が待ち構えていた。
ご丁寧にバットケースを担いで来たようだが、賃貸の部屋での素振りを許す気はないのでそうそうお目にかかることはないだろう。
「外寒かった?」
僅かに赤くなった鼻先を見れば聞くまでもない。秋は瞬く間に過ぎ去りあっという間に最高気温が一桁台を叩き出す日々の始まりだ。
豪雪地帯に比べれば大したことはないのだろうが、それにしたって人類が快適に過ごせる気温の範囲は狭いのだ。
「駅から近いからまだマシですわ。今の時期東京も寒いけど、こっちの方がもっと寒いんやな」
「一年前までこっちいただろ」
「もうすっかり東京に馴染んでもうて。こっちのパンサーズファンの人らにどつかれてまう」
確かに関西、特に大和の地元大阪でのパンサーズ人気はかなり根強く、大和がよりにもよって東京の球団に取られたときの阿鼻叫喚具合は相当なものであった。
もしかしたら次郎がご機嫌になったのとは裏腹に今年一年のパンサーズファンは悲嘆に暮れていたのかもしれないと思いながら、部屋を一通り案内して客人をリビングに通した。
「むっちゃええ部屋ですね、球場にも近いし」
「そうだろ。ちょっと仰々しいかなって感じだけどセキュリティとかちゃんとした所にしろってうるさいし、年俸も去年結構あがったしさ」
「今年の契約更改もニュースになっとんの見たで」
「うん、あんまり金額とか気にしてないんだけど、待遇とか含めてちゃんと交渉するとこしとかないと良いように使われるぞって平沢さんが脅してくるからさぁ、妙に気疲れした」
そもそもごく一般的な家庭で生まれ育った次郎にとってプロ野球選手が得られる金銭は最早正確に感知できる範囲を超えているのだ。
真っ先に目にする契約金の桁が九つを数えた時点で物差しは正常に機能しなくなっている。
とはいえ自己責任の個人事業主の身としては、先輩のありがたい助言は聞くに限る。
「お前も沢山ホームラン打ってんだから、いくら守備がヤバいからって遠慮すんなよ」
「それはまあ……頑張りますわ」
守備を頑張るのか交渉を頑張るのかは知らないが、次郎はテレビの電源をつけて録画のデータを呼び出す。
大和にも先輩のありがたい助言を授けてやろうと言うのだ。
「大和が守備エラーした試合見ようぜ」
「あかん、ホームランまとめ動画とかないんですか」
◇◇◇
「着替えまで用意してくれとったん?」
明らかに新品の寝巻きや下着を渡せば、それがこの日の為にあらかじめ用意されたものだと言うことはすぐに分かっただろう。
シーズン中の互いの試合や動画サイトに転がっているような昔の試合の映像を観ながら大和が買ってきてくれた食事を摘んでひとしきり会話に花を咲かせた後、さてそろそろ風呂を済ませて寝ようかと言う段になって、ようやく次郎は、余りに入念に施された準備が相手を引かせる可能性に思い立った。
既に大和用のカトラリー類もコップもスリッパもお披露目しているので今更過ぎる気づきだったかも知れない。
「うるせぇな……ほら、こっちがボディソープでこれがシャンプーとトリートメント!あとボディタオル!洗顔!とっとと入れよ!」
一人で浮かれているのがバレてしまうのは気恥ずかしく、深く追及されないように急いで浴室内の説明をして大和用のボディタオルを押し付けて脱衣所に押し込む。
けれど、そのまま扉を閉めようとした次郎の腕を、グッと引っ張る不届者の手があった。
「一緒に入らへん?」
「……は?」
「お風呂むっちゃ広いやん。二人で入っても平気やで」
「え、なん、なに?一緒に入りたいの?」
それはかなり、想定外の一言だ。
独身寮や遠征先のホテルの大浴場でみんなと一緒に汗を流しましょうと言うのは次郎にも理解できる。けれどいくらスペースに余裕があるからといって一般家庭の浴室に男二人で入るというのはいかがなものか。
これが大和以外の人間であったなら、次郎とて「きしょい」の一言で平然と断ることもできた。
けれど過剰に反応して、もしも大和に自分の気持ちがバレてしまう様なことがあれば、風呂に一緒に入るどころの話ではない。それなら今日は別に宿を取りますと出て行かれても文句は言えないはずだ。
「オフになってやっと綾さんとゆっくり過ごせるようになってんねんで。ちょっとでも一緒におりたい……」
袖を引いて甘えるように訴えかける姿に次郎の良心がチクリと痛む。
普段パンサーズで諸先輩方のガサツで豪快な関西弁や汚い野次に晒されていると、大和の紡ぐそれが特別柔らかい響きを持っているように思えてならないのだ。
だからこれは次郎が特別大和に甘いというよりは、大和側の作戦勝ちというか、とにかく次郎に非はない所である。
「は、まあ……い、いいけど」
「え?ほんまにええん?綾さんの着替えこれでええの?早よ行きましょ気が変わらんうちに」
「お、おいそれもお前の部屋着だよ。先入ってろちゃんと後から行くから!」
珍しいほどに俊敏な動きで、先ほど大和の着替えを取り出したウォークインクローゼットからもう一セット分の着替えを物色しだしたが、ここに詰めてあるのは上から下まで全て大和のお泊まり用の着替えだ。
そうとは言えず今度こそ大和を脱衣所に閉じ込めて、次郎は主寝室に自分の着替えを取りに行く。
三つも歳下の後輩は、もしかしたらお泊まりという状況に非日常的な魅力を感じているのかも知れない。
高校も自宅から通っていた大和は、プロ入りして寮に入っても周りは先輩だらけで、年功序列の世界ではなにかと気を使うことのほうが多いだろう。
次郎だって年上の先輩だが、今更敬語も使わない間柄であるし、ここは大人の自分が調子を合わせてやるしかないだろう。そう覚悟を決めて浴室へと乗り込んだ。
普段ならば耳障りなスタンドからの野次もまるで小鳥の囀りのように愛おしく感じるほどに浮かれていた。
理由は単純。園大和がプロ入りした、最初のシーズンだったからだ。
次郎が所属するパンサーズと同リーグに属するギガンテスが、競合の末大和との交渉権を獲得したのが大体一年前の事、その時からずっとご機嫌で過ごしてきた。
バッテリーを組むベテラン捕手の平沢は、むしろ扱い難いと難色を示したし、いまだに昭和の空気を色濃く纏うパンサーズが誇る名監督の大木は、ヘラヘラした顔を少しは引き締めろと檄を飛ばしたほどだ。
けれど次郎の成績は相も変わらず絶好調だ。むしろ野次に気を散らされない分自慢のコントロール力には磨きがかかるばかり。
唯一著しく成績を落としたのは被本塁打率だろうか。
こちらも原因は大和に他ならないが、次郎とて何度も大和を三振に打ち取っているので、勝負は一進一退といった所だ。
そんな非常に楽しいシーズンを終えて、次郎はやはりご機嫌なまま、自宅の掃除に勤しんでいる。
駅の近辺にぐーんと聳り立つ超高層マンション、ホーム球場へのアクセスも良好な4LDK。これが次郎が去年から暮らしている住まいである。
一番大きな洋室にキングサイズのベッドを置いて、その他必要な家電類をリビングやキッチンをメインに配置すれば、ガラガラな余りの部屋を三つ抱えた城の完成だ。
入団早々に一軍に定着した次郎は、二年目のシーズンを終えたあたりでひとり住まいの家を探し始め、パンサーズの独身寮を卒業した。
かなりの短期決戦での部屋探しということもあり、すぐに入居できる部屋は使い道のない余分なスペースが多数あったものの、セキュリティ面やアクセスを重視すると選択肢は限られていたのだ。
入居前は、部屋が余る分には問題ないだろうと深く考えていなかったが、いざ住み始めると使わないからと言って全く掃除をしないわけにもいかず、全ての部屋に定期的に掃除機をかけることすら一仕事だった。
そんな面倒な掃除も今日ばかりは苦にもならない。
理由は当然、園大和だ。
昨年この家に引っ越したばかりの頃は諸々の手続きや、取材やテレビ収録の仕事に忙しく、大和も入寮に向けた準備がありなかなか予定が合わなかった。
そのため今日はこの家に大和を招く初めての日なのだ。
リトルの頃から対戦を重ねてきたライバルであり、年齢も所属も越えた大切な友人であり、そして次郎が密かに思いを寄せている相手でもある。
そんな相手が、今日と明日はこの家にいて、思う存分一緒に過ごせるのだ。
嬉しくて嬉しくて歌でも歌い出しそうなほど上機嫌に、手抜かりなく掃除を終えた次郎は次いで大和のために揃えたお泊まりセットを点検する。
歯ブラシ良し、タオル類良し、着替え良し、コップ良し、箸良し、エトセトラ。
今日来てそのまま暮らせる程度には完璧な準備に満足気に頷いて待ち人の到着を待つのだった。
◇◇◇
「大和、いらっしゃい」
「綾さん、お邪魔します」
玄関を開けると、冷たい外気と共に厚手のダッフルコートでもこもこに膨らんだ大和が待ち構えていた。
ご丁寧にバットケースを担いで来たようだが、賃貸の部屋での素振りを許す気はないのでそうそうお目にかかることはないだろう。
「外寒かった?」
僅かに赤くなった鼻先を見れば聞くまでもない。秋は瞬く間に過ぎ去りあっという間に最高気温が一桁台を叩き出す日々の始まりだ。
豪雪地帯に比べれば大したことはないのだろうが、それにしたって人類が快適に過ごせる気温の範囲は狭いのだ。
「駅から近いからまだマシですわ。今の時期東京も寒いけど、こっちの方がもっと寒いんやな」
「一年前までこっちいただろ」
「もうすっかり東京に馴染んでもうて。こっちのパンサーズファンの人らにどつかれてまう」
確かに関西、特に大和の地元大阪でのパンサーズ人気はかなり根強く、大和がよりにもよって東京の球団に取られたときの阿鼻叫喚具合は相当なものであった。
もしかしたら次郎がご機嫌になったのとは裏腹に今年一年のパンサーズファンは悲嘆に暮れていたのかもしれないと思いながら、部屋を一通り案内して客人をリビングに通した。
「むっちゃええ部屋ですね、球場にも近いし」
「そうだろ。ちょっと仰々しいかなって感じだけどセキュリティとかちゃんとした所にしろってうるさいし、年俸も去年結構あがったしさ」
「今年の契約更改もニュースになっとんの見たで」
「うん、あんまり金額とか気にしてないんだけど、待遇とか含めてちゃんと交渉するとこしとかないと良いように使われるぞって平沢さんが脅してくるからさぁ、妙に気疲れした」
そもそもごく一般的な家庭で生まれ育った次郎にとってプロ野球選手が得られる金銭は最早正確に感知できる範囲を超えているのだ。
真っ先に目にする契約金の桁が九つを数えた時点で物差しは正常に機能しなくなっている。
とはいえ自己責任の個人事業主の身としては、先輩のありがたい助言は聞くに限る。
「お前も沢山ホームラン打ってんだから、いくら守備がヤバいからって遠慮すんなよ」
「それはまあ……頑張りますわ」
守備を頑張るのか交渉を頑張るのかは知らないが、次郎はテレビの電源をつけて録画のデータを呼び出す。
大和にも先輩のありがたい助言を授けてやろうと言うのだ。
「大和が守備エラーした試合見ようぜ」
「あかん、ホームランまとめ動画とかないんですか」
◇◇◇
「着替えまで用意してくれとったん?」
明らかに新品の寝巻きや下着を渡せば、それがこの日の為にあらかじめ用意されたものだと言うことはすぐに分かっただろう。
シーズン中の互いの試合や動画サイトに転がっているような昔の試合の映像を観ながら大和が買ってきてくれた食事を摘んでひとしきり会話に花を咲かせた後、さてそろそろ風呂を済ませて寝ようかと言う段になって、ようやく次郎は、余りに入念に施された準備が相手を引かせる可能性に思い立った。
既に大和用のカトラリー類もコップもスリッパもお披露目しているので今更過ぎる気づきだったかも知れない。
「うるせぇな……ほら、こっちがボディソープでこれがシャンプーとトリートメント!あとボディタオル!洗顔!とっとと入れよ!」
一人で浮かれているのがバレてしまうのは気恥ずかしく、深く追及されないように急いで浴室内の説明をして大和用のボディタオルを押し付けて脱衣所に押し込む。
けれど、そのまま扉を閉めようとした次郎の腕を、グッと引っ張る不届者の手があった。
「一緒に入らへん?」
「……は?」
「お風呂むっちゃ広いやん。二人で入っても平気やで」
「え、なん、なに?一緒に入りたいの?」
それはかなり、想定外の一言だ。
独身寮や遠征先のホテルの大浴場でみんなと一緒に汗を流しましょうと言うのは次郎にも理解できる。けれどいくらスペースに余裕があるからといって一般家庭の浴室に男二人で入るというのはいかがなものか。
これが大和以外の人間であったなら、次郎とて「きしょい」の一言で平然と断ることもできた。
けれど過剰に反応して、もしも大和に自分の気持ちがバレてしまう様なことがあれば、風呂に一緒に入るどころの話ではない。それなら今日は別に宿を取りますと出て行かれても文句は言えないはずだ。
「オフになってやっと綾さんとゆっくり過ごせるようになってんねんで。ちょっとでも一緒におりたい……」
袖を引いて甘えるように訴えかける姿に次郎の良心がチクリと痛む。
普段パンサーズで諸先輩方のガサツで豪快な関西弁や汚い野次に晒されていると、大和の紡ぐそれが特別柔らかい響きを持っているように思えてならないのだ。
だからこれは次郎が特別大和に甘いというよりは、大和側の作戦勝ちというか、とにかく次郎に非はない所である。
「は、まあ……い、いいけど」
「え?ほんまにええん?綾さんの着替えこれでええの?早よ行きましょ気が変わらんうちに」
「お、おいそれもお前の部屋着だよ。先入ってろちゃんと後から行くから!」
珍しいほどに俊敏な動きで、先ほど大和の着替えを取り出したウォークインクローゼットからもう一セット分の着替えを物色しだしたが、ここに詰めてあるのは上から下まで全て大和のお泊まり用の着替えだ。
そうとは言えず今度こそ大和を脱衣所に閉じ込めて、次郎は主寝室に自分の着替えを取りに行く。
三つも歳下の後輩は、もしかしたらお泊まりという状況に非日常的な魅力を感じているのかも知れない。
高校も自宅から通っていた大和は、プロ入りして寮に入っても周りは先輩だらけで、年功序列の世界ではなにかと気を使うことのほうが多いだろう。
次郎だって年上の先輩だが、今更敬語も使わない間柄であるし、ここは大人の自分が調子を合わせてやるしかないだろう。そう覚悟を決めて浴室へと乗り込んだ。
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