男子、三日会わざれば刮目して見よ
先のとんがった三角形の実。薄いオレンジ色の皮をスルスルとひたすらに剥いていく。よく研がれた小型のナイフは次郎の大きな手にすっぽりと収まり、まるで空を割くように何の引っ掛かりもなく薄皮一枚を一定の厚さで下に敷いた新聞紙に落としていく。
園家に顔を出した次郎を、美里が夕飯を準備する手を止めてもてなそうとするのを静止して、むしろ大量に積まれた渋柿を発見し干し柿作りの手伝いを始めてから三十分ほどが経とうかという頃だった。
いつもはどんな話も穏やかに受け止めてくれる美里に甘えて、一方的に止まることなく話を繰り広げることが多い次郎であったが、今日ばかりは刃物を扱っているので、おしゃべりは二の次にして手元に集中しており、リビングには夕飯の準備をする美里と柿を剥き続ける次郎の二人の間で穏やかな空気が流れていた。
「真一さんの実家の方でな、毎年ぎょうさん柿が採れるみたいで、昔はお義母さんが干し柿にしとったんやけど、もう歳やからとても無理や言うて山ほど送ってくれるんよ」
「去年は美里さん一人でやったの?大変だったんじゃない?」
「大和が庭で素振りする度に、かびてへんかよう見とってくれたんよ。今年はジロくんも手伝ってくれてホンマに助かるわぁ」
これだけの量の柿を家事の合間に仕込むのは骨が折れるだろうと思ったが、暗に大和に刃物は持たせられなかったと言う美里にそれはそうかと納得する。
いかに丹念に研がれた切れ味の鋭いナイフであっても、使い方が悪ければ無意味、むしろよく切れる分脅威と言って良いだろう。
もちろん頼めばやる気十分に手を貸してくれるだろうが、リビングを殺人現場の様相にするくらいなら自分でやると言うのは次郎も同じ意見だ。
その次郎とて、これから秋季キャンプが控えている身だ。もしも呑気にナイフを扱う姿を見られたら、非常に愛情深く、非常に口煩いパンサーズファンの皆様から大変貴重なお言葉をいただく羽目になるだろうことは明白だった。
もちろん馬鹿正直に教えることはないので何の支障も無く柿の数もあと残りわずかとなった頃、玄関からの物音が耳に入った。
音の主人は玄関に置かれた靴から次郎の来訪を察知したのか、荷物も下ろさずリビングへ、のしのしと一直線に向かってくる。
「おかんただいま。綾さんいらっしゃい」
「おかえり大和」
「おー、ちゃんと練習してきたのかよ」
「おん、隅っこ使わせてもろてしっかりやってきたわ」
先日のドラフト会議で無事に指名を受けた大和は、国体も終わり部活を引退した後であったが、未だ野球部の一員のような顔をして高校の設備を借りて遅くまで練習に励んでいる。
今日もおそらく時間も気にせず練習に打ち込んでいたところを、とっとと片付けをしたい下級生に追い出されるようにして帰ってきたのだろう。
「綾さん、刃物使うてる時によそ見したらあかんやん」
「うるせー、お前もパンサーズファンかよ!」
「何の話や」
目敏く次郎の手にしたナイフに気がついた大和がなにをしているのかと近くに寄ってきたので、邪魔されないように最後の一つを手早く剥き切ってしまう。
あとは紐に括ってから熱湯に潜らせて殺菌すれば、干して渋みが抜けるのを待つだけだ。
「今年もえらい沢山やなぁ。綾さん、去年送ったの食べ切れたん?」
「うん、冷凍してたから結構保ったよ」
干しているのだから当然長期保存が出来るのかと思ったが、食べ頃になった干し柿は意外と頃合いが過ぎるのが早いらしく、いつまでも放っておいてはあっという間にカラカラに干からびてしまうそうだった。
ひとりで食べるには多過ぎるほどのお裾分けを頂いたので、寮の小さな冷凍庫には一時大量の干し柿が居座っていたほどだ。
次郎は役目を終えたナイフを片付けようとして、俄かに悪戯心が湧いて柿の実のかけらを小さく切り取る。
「大和、あーん」
言われるがままに口を開けて、差し出されたかけらを素直に受け取った大和は、舌に触れたタンニンの渋みに普段動かない表情筋をフルに稼働して顔を顰めた。
まるで親鳥から餌を受け取る雛のような疑いの無さで、分かりきったトラップに引っかかる大和に次郎は声をあげて笑う。
「あやひゃん、ひおい」
「あっはは!渋柿に決まってんじゃん!」
「むっちゃざらざらすう」
柿を乗せられた舌を他の場所に触れさせたくないのか、とても舌っ足らずな音で次郎を非難して慌てて洗面所に駆け込む大和の姿を見送りながら、次郎は柿の実に触れた指をぺろりと舐める。
直接口に含んだ大和ほどで無いにしても、僅かに舌に残る違和感。
こんなにも強烈な渋みを持った柿が、たった数週間天日に晒されるだけであんなにも甘い干し柿になるのが、俄かには信じられなかった。
「舌の上が砂漠になったんかと思ったわ」
口を濯いできた大和が、懲りずに次郎の隣に腰を下ろしたので、そこに座るなら手伝えと適当な長さに切った紐をいくつか押し付けると、大和は既に次郎が作業したお手本をまじまじと見つめながらぎこちない手つきでせっせと紐と格闘し始めた。
「去年はジロくん忙しい言うてなかなかうちに来れへんかったから冷凍したのを送ったけど、大和は今年はまだ平気かしら」
キッチンで美里が独り言のように呟いた言葉に、次郎はハッとした。
来年の今頃は、今日のように美里の手伝いをしながら大和が帰ってくるのを待つことはないだろう。そして、何もそれは一年も先の話ではない。
大和はまだ高校三年生の秋、これから寒さが本格化していくような時期だ。普通の学生であれば、卒業の三月まで十分過ぎるほどのモラトリアムがあるはずだった。
しかしドラフトで指名された選手を、プロの世界は悠長に待ってはくれない。
「入寮は年明けやから、今年は平気やと思う」
「……もう寮入るんだ」
「綾さんやって、一昨年そうやったろ」
他球団の事情をわざわざ根掘り葉掘り聞くことはしないが、今だって入団に向けて球団との交渉を進めている最中だろうし、ひと月もすれば入団発表の記者会見をして、そうして年明けにはこの家を出ていくのだろう。
一昨年の自分がそうであったように、信じられないようなスピードで周囲を取り巻く環境が変化し、現在進行形で高校生であるにも関わらず、あっという間に一人の自立した大人として振る舞わなければならなくなる。
遂にだ。遂に、大和がプロの世界に来る。その時が間近に迫っているのだ、と次郎は初めて実感した。
「なんだよ、プロなんて言ってる場合じゃ無いとかなんとか言ってたくせに」
「去年の話よお覚えとるなぁ。そんなら、甲子園優勝してドラフトで指名もろてプロに行くって言うとったんも覚えとるやろ?」
昨年は不調に終わった金惶大阪も、今年は強豪の意地を見せ夏の甲子園で二年ぶりの優勝を果たした。
めざましいほどの躍進には大和の貢献も大きく、ドラフトにも大いに反映された。
打撃に能力を全振りして守備が怪しい大和がDH制のないセ・リーグの球団からも指名されたのには、同じセ・リーグで暴れ回る次郎への対抗策の意味合いが大きいかもしれないが、何はともあれ対戦機会の多い同リーグが交渉権を勝ち取った事は二人にとって願ってもない事だった。
「……まあ、口だけじゃなくて安心したよ」
「おん、安心してや。僕のプロ一号のホームランも、ちゃんと綾さんからもらったるから」
「ほんっとにクソガキ!!」
今年の干し柿ができる頃には、大和は入団会見をして、プロとしての一歩を踏み出す。
今年もたくさん送られてくるだろうお裾分けを次郎が消費し切る頃には、合同自主トレや、もしかしたら春季キャンプも始まっているかもしれない。そうなれば次のシーズンなんてあっという間だ。
前回対戦したのは二年前の夏。相変わらず足は遅くて肩も弱くて守備も下手で運動神経も悪いが、球種を見抜く嗅覚の鋭さと小柄なくせに憎たらしいほどに豪快に飛ばす強打には磨きがかかるばかりだ。
大和がさらに強くなっていることは、誰よりも理解している。
実際に対戦しなくても、試合の映像やスコアからひしひしと伝わってくるそれが、プロの環境でさらに加速することも想像に難くない。
けれどこの二年で成長したのは何も大和に限った話ではない。当然、この生意気な後輩を完璧に抑えるべく、徹底的な研究もフォームの改善も体づくりも、打てる手はなんだって打ってきたのだ。
「プロ一年目だからって容赦はしねぇぞ。さっさとお前に三タコ五回くらわせて引退してやるよ」
「したらその分綾さんからホームラン打ったりますわ」
「キリないだろバカ!」
「ええやん。僕らそうやって、おじいちゃんになるまで一緒に野球してような」
園家に顔を出した次郎を、美里が夕飯を準備する手を止めてもてなそうとするのを静止して、むしろ大量に積まれた渋柿を発見し干し柿作りの手伝いを始めてから三十分ほどが経とうかという頃だった。
いつもはどんな話も穏やかに受け止めてくれる美里に甘えて、一方的に止まることなく話を繰り広げることが多い次郎であったが、今日ばかりは刃物を扱っているので、おしゃべりは二の次にして手元に集中しており、リビングには夕飯の準備をする美里と柿を剥き続ける次郎の二人の間で穏やかな空気が流れていた。
「真一さんの実家の方でな、毎年ぎょうさん柿が採れるみたいで、昔はお義母さんが干し柿にしとったんやけど、もう歳やからとても無理や言うて山ほど送ってくれるんよ」
「去年は美里さん一人でやったの?大変だったんじゃない?」
「大和が庭で素振りする度に、かびてへんかよう見とってくれたんよ。今年はジロくんも手伝ってくれてホンマに助かるわぁ」
これだけの量の柿を家事の合間に仕込むのは骨が折れるだろうと思ったが、暗に大和に刃物は持たせられなかったと言う美里にそれはそうかと納得する。
いかに丹念に研がれた切れ味の鋭いナイフであっても、使い方が悪ければ無意味、むしろよく切れる分脅威と言って良いだろう。
もちろん頼めばやる気十分に手を貸してくれるだろうが、リビングを殺人現場の様相にするくらいなら自分でやると言うのは次郎も同じ意見だ。
その次郎とて、これから秋季キャンプが控えている身だ。もしも呑気にナイフを扱う姿を見られたら、非常に愛情深く、非常に口煩いパンサーズファンの皆様から大変貴重なお言葉をいただく羽目になるだろうことは明白だった。
もちろん馬鹿正直に教えることはないので何の支障も無く柿の数もあと残りわずかとなった頃、玄関からの物音が耳に入った。
音の主人は玄関に置かれた靴から次郎の来訪を察知したのか、荷物も下ろさずリビングへ、のしのしと一直線に向かってくる。
「おかんただいま。綾さんいらっしゃい」
「おかえり大和」
「おー、ちゃんと練習してきたのかよ」
「おん、隅っこ使わせてもろてしっかりやってきたわ」
先日のドラフト会議で無事に指名を受けた大和は、国体も終わり部活を引退した後であったが、未だ野球部の一員のような顔をして高校の設備を借りて遅くまで練習に励んでいる。
今日もおそらく時間も気にせず練習に打ち込んでいたところを、とっとと片付けをしたい下級生に追い出されるようにして帰ってきたのだろう。
「綾さん、刃物使うてる時によそ見したらあかんやん」
「うるせー、お前もパンサーズファンかよ!」
「何の話や」
目敏く次郎の手にしたナイフに気がついた大和がなにをしているのかと近くに寄ってきたので、邪魔されないように最後の一つを手早く剥き切ってしまう。
あとは紐に括ってから熱湯に潜らせて殺菌すれば、干して渋みが抜けるのを待つだけだ。
「今年もえらい沢山やなぁ。綾さん、去年送ったの食べ切れたん?」
「うん、冷凍してたから結構保ったよ」
干しているのだから当然長期保存が出来るのかと思ったが、食べ頃になった干し柿は意外と頃合いが過ぎるのが早いらしく、いつまでも放っておいてはあっという間にカラカラに干からびてしまうそうだった。
ひとりで食べるには多過ぎるほどのお裾分けを頂いたので、寮の小さな冷凍庫には一時大量の干し柿が居座っていたほどだ。
次郎は役目を終えたナイフを片付けようとして、俄かに悪戯心が湧いて柿の実のかけらを小さく切り取る。
「大和、あーん」
言われるがままに口を開けて、差し出されたかけらを素直に受け取った大和は、舌に触れたタンニンの渋みに普段動かない表情筋をフルに稼働して顔を顰めた。
まるで親鳥から餌を受け取る雛のような疑いの無さで、分かりきったトラップに引っかかる大和に次郎は声をあげて笑う。
「あやひゃん、ひおい」
「あっはは!渋柿に決まってんじゃん!」
「むっちゃざらざらすう」
柿を乗せられた舌を他の場所に触れさせたくないのか、とても舌っ足らずな音で次郎を非難して慌てて洗面所に駆け込む大和の姿を見送りながら、次郎は柿の実に触れた指をぺろりと舐める。
直接口に含んだ大和ほどで無いにしても、僅かに舌に残る違和感。
こんなにも強烈な渋みを持った柿が、たった数週間天日に晒されるだけであんなにも甘い干し柿になるのが、俄かには信じられなかった。
「舌の上が砂漠になったんかと思ったわ」
口を濯いできた大和が、懲りずに次郎の隣に腰を下ろしたので、そこに座るなら手伝えと適当な長さに切った紐をいくつか押し付けると、大和は既に次郎が作業したお手本をまじまじと見つめながらぎこちない手つきでせっせと紐と格闘し始めた。
「去年はジロくん忙しい言うてなかなかうちに来れへんかったから冷凍したのを送ったけど、大和は今年はまだ平気かしら」
キッチンで美里が独り言のように呟いた言葉に、次郎はハッとした。
来年の今頃は、今日のように美里の手伝いをしながら大和が帰ってくるのを待つことはないだろう。そして、何もそれは一年も先の話ではない。
大和はまだ高校三年生の秋、これから寒さが本格化していくような時期だ。普通の学生であれば、卒業の三月まで十分過ぎるほどのモラトリアムがあるはずだった。
しかしドラフトで指名された選手を、プロの世界は悠長に待ってはくれない。
「入寮は年明けやから、今年は平気やと思う」
「……もう寮入るんだ」
「綾さんやって、一昨年そうやったろ」
他球団の事情をわざわざ根掘り葉掘り聞くことはしないが、今だって入団に向けて球団との交渉を進めている最中だろうし、ひと月もすれば入団発表の記者会見をして、そうして年明けにはこの家を出ていくのだろう。
一昨年の自分がそうであったように、信じられないようなスピードで周囲を取り巻く環境が変化し、現在進行形で高校生であるにも関わらず、あっという間に一人の自立した大人として振る舞わなければならなくなる。
遂にだ。遂に、大和がプロの世界に来る。その時が間近に迫っているのだ、と次郎は初めて実感した。
「なんだよ、プロなんて言ってる場合じゃ無いとかなんとか言ってたくせに」
「去年の話よお覚えとるなぁ。そんなら、甲子園優勝してドラフトで指名もろてプロに行くって言うとったんも覚えとるやろ?」
昨年は不調に終わった金惶大阪も、今年は強豪の意地を見せ夏の甲子園で二年ぶりの優勝を果たした。
めざましいほどの躍進には大和の貢献も大きく、ドラフトにも大いに反映された。
打撃に能力を全振りして守備が怪しい大和がDH制のないセ・リーグの球団からも指名されたのには、同じセ・リーグで暴れ回る次郎への対抗策の意味合いが大きいかもしれないが、何はともあれ対戦機会の多い同リーグが交渉権を勝ち取った事は二人にとって願ってもない事だった。
「……まあ、口だけじゃなくて安心したよ」
「おん、安心してや。僕のプロ一号のホームランも、ちゃんと綾さんからもらったるから」
「ほんっとにクソガキ!!」
今年の干し柿ができる頃には、大和は入団会見をして、プロとしての一歩を踏み出す。
今年もたくさん送られてくるだろうお裾分けを次郎が消費し切る頃には、合同自主トレや、もしかしたら春季キャンプも始まっているかもしれない。そうなれば次のシーズンなんてあっという間だ。
前回対戦したのは二年前の夏。相変わらず足は遅くて肩も弱くて守備も下手で運動神経も悪いが、球種を見抜く嗅覚の鋭さと小柄なくせに憎たらしいほどに豪快に飛ばす強打には磨きがかかるばかりだ。
大和がさらに強くなっていることは、誰よりも理解している。
実際に対戦しなくても、試合の映像やスコアからひしひしと伝わってくるそれが、プロの環境でさらに加速することも想像に難くない。
けれどこの二年で成長したのは何も大和に限った話ではない。当然、この生意気な後輩を完璧に抑えるべく、徹底的な研究もフォームの改善も体づくりも、打てる手はなんだって打ってきたのだ。
「プロ一年目だからって容赦はしねぇぞ。さっさとお前に三タコ五回くらわせて引退してやるよ」
「したらその分綾さんからホームラン打ったりますわ」
「キリないだろバカ!」
「ええやん。僕らそうやって、おじいちゃんになるまで一緒に野球してような」
1/1ページ