ライバル模様、恋模様
昇り始めた陽の光が、夜の間に冷えた空気をだんだんと温めはじめる頃、大和は玄関先で膝を深く曲げて体を入念に解してから、門扉に手を掛け外に走り出した。
毎朝の走り込みは、温暖な季節に入って随分楽になった。ついこの間までの厳しい寒さの中では、いくら体を解しても関節が固まっているような気がしたし、走り出して体がほぐれたかと思うと今度は肺がキンキンに冷たくなってとても大変だったのだ。それに比べれば今は天国とも言える環境だ。
平日であればいくらか人の活動する気配を感じられる時間帯だが、休日の今日はもっと静かで、大和の耳に入るのは衣擦れと呼吸音、自分が発する音ばかりだ。
そうしてしばらく走ると、呼吸は次第に大きくなっていく。大和は意識的に呼吸のリズムが一定になるように努めた。
今みたいに苦しいトレーニングをしている時に大和のモチベーションとなるのは当然の事ながら野球に関するものばかりだ。例えば前日の夜にテレビで観たプロの試合に刺激を受けたり、次こそ試合に出してもらえるようにと意気込んだりといったことだ。中でも此の所ほとんどを占めるのは綾瀬川次郎という同い年の少年についてだ。彼は野球歴数ヶ月でU12の日本代表に選出され、初登板で大和の先輩に当たる枚方ベアーズのシニアチーム相手にノーヒットノーランを記録し、日本代表をU12カテゴリでの初の世界大会優勝に導いた凄腕のピッチャーだ。
未だ背番号すら貰えていない大和にとって、対戦するということすら高いハードルを伴う。今はまだライバルにもなれないが、いつか彼と対戦したい。それが最大の目標であり心の支えとなっていた。
「ふぅ……」
いつものコースの折り返し地点まで来て、スピードを緩めた大和は小さく息をつく。来た道を同じ時間かけて戻れば、母のお手製の朝食が待っている。それをたらふく食べてお弁当を用意してもらえば、その後は枚方ベアーズの練習場に行き、午後の全体練習の前に壁当てやティーバッティングといった個人練習をする予定だ。
みっちり詰まった野球の予定の前に休んでいる暇はない。大和は踵を返して再度走り出す。その加速し始めた足元にドスリ、衝撃が走った。
「わっ、なんや」
驚いて視線をやった先にいたのは毛玉。いや、一匹の子猫であった。
クリーム色の毛並みは空気をはらんでふわふわと身体を大きく見せているが、大和の足首のあたりしかない小さな姿だ。猫の知識に乏しい大和には正確な年齢はわからないが、一歳にも満たないのではないだろうかと思った。
子猫は澄ました顔で大和のことを見上げていたが、大和が手を伸ばすとひらりと身を翻して逃げてしまう。身軽な身体はすぐに路地の向こうへと消えてしまった。
「行ってもうた……」
一瞬の出来事にしばし呆気に取られていた大和であったが、すぐに自分が走り込みの途中であったことを思い出した。
黙々と帰りの道を走れば、脳内はこの後の練習のことでいっぱいになる。先ほどの奇妙な乱入者のことはすっかり頭から消え去ってしまった。
翌る日また同じように、大和は朝の澄んだ空気の中走り込みをしていた。
いつものルートの折り返し地点まで来て、そのまま方向転換して戻ろうかという時、視界の端で何かが動く。
「昨日と同じ子や」
ふわふわと揺れるクリーム色の毛並みに、すぐに昨日のことを思い出した。
大和は子猫を驚かせないように、そっと距離を詰める。子猫はこちらを見つめて存在を認識しているようだが、今度はすぐには逃げなかった。大股で三歩分ほどの距離を空けてゆっくりとしゃがみ込んで視線をあわせ手を伸ばして手招きするように呼んでみる。
「……」
来ない。
そんなものだろうと、大和は早々に諦めて道を戻る。すると自分の足音に混ざって、もっと軽くて小さな音がする。スピードを上げれば同じように走って、緩めれば距離を取るように相手も緩める。
「一緒に走ってくれるん?」
思わず笑って問いかけると、子猫は肯定とも否定とも取れるような素振りでふいっと顎をあげて答えた。
それから時々、大和と子猫は一緒に走るようになった。
疲れが溜まった復路のコースということもあり、時には追い抜かされたり、はたまた持久力のない子猫が止まればペースを合わせたりと、一人っきりの走り込みに小さなライバルが出現したのだった。
毎朝の走り込みは、温暖な季節に入って随分楽になった。ついこの間までの厳しい寒さの中では、いくら体を解しても関節が固まっているような気がしたし、走り出して体がほぐれたかと思うと今度は肺がキンキンに冷たくなってとても大変だったのだ。それに比べれば今は天国とも言える環境だ。
平日であればいくらか人の活動する気配を感じられる時間帯だが、休日の今日はもっと静かで、大和の耳に入るのは衣擦れと呼吸音、自分が発する音ばかりだ。
そうしてしばらく走ると、呼吸は次第に大きくなっていく。大和は意識的に呼吸のリズムが一定になるように努めた。
今みたいに苦しいトレーニングをしている時に大和のモチベーションとなるのは当然の事ながら野球に関するものばかりだ。例えば前日の夜にテレビで観たプロの試合に刺激を受けたり、次こそ試合に出してもらえるようにと意気込んだりといったことだ。中でも此の所ほとんどを占めるのは綾瀬川次郎という同い年の少年についてだ。彼は野球歴数ヶ月でU12の日本代表に選出され、初登板で大和の先輩に当たる枚方ベアーズのシニアチーム相手にノーヒットノーランを記録し、日本代表をU12カテゴリでの初の世界大会優勝に導いた凄腕のピッチャーだ。
未だ背番号すら貰えていない大和にとって、対戦するということすら高いハードルを伴う。今はまだライバルにもなれないが、いつか彼と対戦したい。それが最大の目標であり心の支えとなっていた。
「ふぅ……」
いつものコースの折り返し地点まで来て、スピードを緩めた大和は小さく息をつく。来た道を同じ時間かけて戻れば、母のお手製の朝食が待っている。それをたらふく食べてお弁当を用意してもらえば、その後は枚方ベアーズの練習場に行き、午後の全体練習の前に壁当てやティーバッティングといった個人練習をする予定だ。
みっちり詰まった野球の予定の前に休んでいる暇はない。大和は踵を返して再度走り出す。その加速し始めた足元にドスリ、衝撃が走った。
「わっ、なんや」
驚いて視線をやった先にいたのは毛玉。いや、一匹の子猫であった。
クリーム色の毛並みは空気をはらんでふわふわと身体を大きく見せているが、大和の足首のあたりしかない小さな姿だ。猫の知識に乏しい大和には正確な年齢はわからないが、一歳にも満たないのではないだろうかと思った。
子猫は澄ました顔で大和のことを見上げていたが、大和が手を伸ばすとひらりと身を翻して逃げてしまう。身軽な身体はすぐに路地の向こうへと消えてしまった。
「行ってもうた……」
一瞬の出来事にしばし呆気に取られていた大和であったが、すぐに自分が走り込みの途中であったことを思い出した。
黙々と帰りの道を走れば、脳内はこの後の練習のことでいっぱいになる。先ほどの奇妙な乱入者のことはすっかり頭から消え去ってしまった。
翌る日また同じように、大和は朝の澄んだ空気の中走り込みをしていた。
いつものルートの折り返し地点まで来て、そのまま方向転換して戻ろうかという時、視界の端で何かが動く。
「昨日と同じ子や」
ふわふわと揺れるクリーム色の毛並みに、すぐに昨日のことを思い出した。
大和は子猫を驚かせないように、そっと距離を詰める。子猫はこちらを見つめて存在を認識しているようだが、今度はすぐには逃げなかった。大股で三歩分ほどの距離を空けてゆっくりとしゃがみ込んで視線をあわせ手を伸ばして手招きするように呼んでみる。
「……」
来ない。
そんなものだろうと、大和は早々に諦めて道を戻る。すると自分の足音に混ざって、もっと軽くて小さな音がする。スピードを上げれば同じように走って、緩めれば距離を取るように相手も緩める。
「一緒に走ってくれるん?」
思わず笑って問いかけると、子猫は肯定とも否定とも取れるような素振りでふいっと顎をあげて答えた。
それから時々、大和と子猫は一緒に走るようになった。
疲れが溜まった復路のコースということもあり、時には追い抜かされたり、はたまた持久力のない子猫が止まればペースを合わせたりと、一人っきりの走り込みに小さなライバルが出現したのだった。
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