灰谷蘭・竜胆
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階段を下りても下りても底に辿り着かない大江戸線六本木駅は、地上の喧騒が嘘みたいに遠い。
残業を終えた足を引きずって改札をくぐり、長い長いエスカレーターに乗ったところでポケットのスマホが震えた。
画面には「今どこ」の三文字。
地下特有の湿った冷気が、ストッキング越しの足首を撫でていく。
今日おろしたばかりのパンプスが右のかかとを少しずつ擦っていて、歩くたびにそこだけ熱を持つ。
返信を打とうとした親指が液晶に触れる前に、画面が着信に切り替わった。
「……なに」
「明日休みだろ? 今日、兄貴いねぇから来いよ」
あくび混じりの、気の抜けた声だった。
「いや、もう改札入ったし無理」
「待ってるから」
「ちょっと、人の話――」
通話は、そこで一方的に切れた。
エスカレーターは、まだ私を下へ運んでいる。
真っ暗になった画面を数秒睨んでから、下りきったところで踵を返した。
地上へ戻る道は、下りてきた分だけ長い。
呼ばれたら会いに行って、求められるままに過ごして、朝には何事もなかった顔で別れる。
この関係に名前をつけるなら、セフレというのが正しいんだろう。
わかっていながらも、ちゃんとマンションの方向へ歩いていってしまう自分に嫌気がさす。
◇
玄関には竜胆の靴が片方だけ裏返って転がっていた。
洗面所で手を洗う。
鏡の横の棚には、見慣れた白いキャップのボトルが並んでいた。
リビングの照明は落とされていて、テレビの青白い光だけがソファを照らしている。
竜胆はそこで足を組んで、スマホをいじっていた。
「遅ぇよ」
「改札まで入ってから戻ったんだけど」
「ああ、知ってる」
目は画面に向いたままだった。
バッグを床に落として、隣に沈み込む。
スマホをガラスのローテーブルに置いたとき、その端に小さな箱があるのに気づいた。
絆創膏だ。
蓋が開いていて個包装がひとつ、すでに端を切られている。
「これ」
「あ? ああ、使えば」
「……なんで靴擦れしてるって知ってんの」
「先週、新しい靴おろすって言ってたろ。かかと絶対やるって」
「言ったっけ、そんなの」
「言った」
竜胆はスマホの画面から視線を動かさない。
私は抱え込んだクッションに顔を埋めた。
何か言おうとしても、うまく言葉にならなかった。
「こんな時間に急に呼びつけて、最近の扱い雑すぎない?」
「明日休みなんだし、別に良くね?」
「そういう問題じゃ――」
竜胆はスマホをソファに放り投げると、私の肩を抱き寄せた。
髪の先が頬をかすめ、重たい視線が至近距離で刺さる。
肩を押し返そうとした手は、背中に回った腕に固定されて、途中で止まった。
「……なに」
「急に呼ばれて、機嫌悪りぃの?」
「悪いに決まってんじゃん」
「■■■は、オレに会いたくねぇわけ?」
「は? なにそれ」
「オレは、■■■に会いたいから呼んだんだけど」
いつもなら笑いながらからかってくるはずの口が、一ミリも緩んでいない。
「……なんか言えよ」
「いや……だって、私たちってそういうんじゃないでしょ」
「そういうのって、どういうのだよ」
手首を掴まれて、ソファの背もたれに押しつけられた。
「ちょっと、力強い。手首痛いってば」
「うるせぇ、逃げようとすんな」
「待ってよ、来て早々なんなの!?」
頭の横に手がつかれて、竜胆の顔が影になる。
そのとき、ローテーブルの上で私のスマホが光った。
通知のプレビューが、暗い部屋にくっきり浮かぶ。
『来週の飲み会、隣の席取っとくね』
竜胆の視線が画面に落ちた。
手首を掴む指が一段きつくなる。
「……誰」
「会社の人。ただの同僚」
「ただの同僚、ね」
低い声が、耳元に落ちてきた。
「オマエさ、好きな奴でもできた?」
「は? 何、急に」
「じゃあ、こういうことしてんのも、オレだけ?」
口を開きかけたものの、言葉が出てこなかった。
喉がからからに乾いていた。
竜胆は、その沈黙を見下ろしていた。
やがて舌打ちをひとつ落とし、掴んでいた手首を乱暴に解放する。
私は乱れた服を引っ張って整えながら起き上がった。
「私はただ、竜胆が呼ぶから来てただけで……」
「嫌なら無視して帰ればいいだろ」
「……っ」
「なんだよ」
竜胆の言葉に、私は拳を握った。
爪が手のひらに食い込んだところで、声が出た。
「断ったら……もう、呼ばれなくなると思ったから」
語尾が途中でちぎれた。
冷蔵庫のモーターが唸る音が、やけに大きく聞こえる。
竜胆は動かなかった。
私は膝に手をついて、立ち上がろうとした。
その瞬間、腕を強く引かれた。
「――っ、」
バランスを崩した体が、ソファに倒れ込む。
背中がクッションに沈んだときには、竜胆が上から覆いかぶさっていた。
両手首を頭の横に押さえつけられ、竜胆の膝が私の脚の外側に落ちた。
体は一ミリも動かない。
「ちょっと、離してよ」
「嫌だね」
「なんなのホントに! 意味分かんない!」
「オマエが変な勘違いしてっからだろ!」
怒鳴り声が、頭上から降ってきた。
見上げると、竜胆の顔がすぐそこにあった。
いつも口の端を歪めて余裕ぶっている男の眉が、見たことのない角度で寄っている。
「オレがわざわざ兄貴がいねぇ日を選んで呼んで、何とも思ってねぇわけねぇだろ」
「……」
腕の力が、骨が鳴るほど強くなる。
「オマエの終電の時間も知ってるし、靴の話も思い出して絆創膏も買った。……風呂場のシャンプーも、洗面所の化粧水も、元からあったと思ってんだろ。あれ全部、オマエが前に使ってるって言ってたメーカーのやつだ。オレが用意した」
さっき手を洗ったとき、鏡の横の棚に並んでいた白いキャップのボトルを思い出す。
いつも私が使っているものと同じだった。
胸越しに、竜胆の鼓動が速くなっているのを感じた。
「……あのさ、苦しいんだけど」
「今離したら逃げるだろ」
「……今までそういうこと、一回も言わなかったくせに」
「言えるかよ」
腕の力が、そこで少しだけ緩んだ。
「言ったらオマエ、来なくなんだろ」
私がその胸元に手を添えた途端、竜胆の体がぴくりと揺れた。
しばらくして、頭上から深いため息が聞こえた。
「……ほんっと、腹立つ」
「それ、こっちのセリフなんだけど」
竜胆は体を起こして、私の腕を引いた。
ソファに座り直させると、何も言わずに足首を掴む。
かかとの赤くなったところに、親指が触れた。
皮がめくれて、ストッキングの繊維が傷に貼りついている。
「ちょ、」
止める前に、竜胆の指がストッキングの縫い目に引っかかった。
かかとのところだけ、ぷつりと小さな穴が開いて、そのまま裂け目が広がっていく。
「え、新しいやつなんだけど」
「あとで買ってやる」
竜胆はローテーブルから絆創膏を一枚引き抜いて、包みを破った。
絆創膏の粘着面が、赤くなった皮膚に貼りついた。
親指が端を押さえて、ぐるりとなぞった。
「オレのこと、どう思ってんの」
「……改札まで入ったのに戻ってきた時点で、分かってよ」
「ちゃんと言葉で聞きてぇんだよ」
「竜胆から言ってよ」
「あ?」
「私だって、直接聞きたい」
絆創膏の端を撫でつけていた親指が止まった。
竜胆は私の足を掴んだまま、俯いている。
髪の隙間から覗く耳が、テレビの光の中でもわかるくらい赤い。
「……好きだ」
声が、かすれていた。
「最初からオマエだけだ」
互いの呼吸だけが、静かな部屋に残った。
「……竜胆って、意外と不器用なんだね」
「なんだよ急に」
「というか、結構重い男だったりする?」
「はぁ?」
「シャンプーとか絆創膏とか用意するくせに、肝心なことは言わないじゃん」
「……うるせぇ」
「今までずっと、都合よく呼ばれてるだけなんだと思ってた」
竜胆は返事をせず、私の腰を抱く腕に少しだけ力を込めた。
「……好きだって言っただろ」
「今、初めて聞いた」
「……そうだな」
竜胆は私の足を離し、腰に腕を回して抱き寄せた。
額が首筋に押しつけられる。
「明日休みだろ。帰さねぇから」
「……うん」
「うん、じゃねぇよ。オマエもちゃんと言え」
「私も、竜胆が好き」
腕の力が、さらに強くなった。
ローテーブルの上で、私のスマホが日付の変わった時刻を表示していた。
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