乾青宗
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10月18日の夜から、乾くんの様子がおかしかった。
といっても、声を荒らげるわけでも、露骨に不機嫌な顔をするわけでもない。
ただ、返事がいつもより短い。
視線は、こちらに向きかけては、すっと手元へ逃げていく。
話しかけると短く頷いて、それきり黙ってしまう。
不機嫌というより、拗ねていると言ったほうが近いかもしれない。
◇
翌日の仕事終わりも、私は帰り道にそのまま乾くんの職場へ寄った。
乾くんはパイプ椅子に腰掛け、お気に入りの靴を膝の上に乗せていた。
磨きかけのそれを、布でゆっくりと撫でている。
つま先から踵まで、もう何往復したのか分からない。
その間、一度もこちらを見ようとしなかった。
「それ、十分ピカピカだと思うよ」
声をかけると、布を動かす手がぴたりと止まった。
「……そうか」
低い声だった。
短く答えただけで、布はまた同じ場所を撫で始めた。
「怒ってる?」
「別に」
「嘘だ」
「嘘じゃねぇ」
「じゃあ、なんでさっきから目を合わせてくれないの?」
答えないままパイプ椅子から立ち上がり、作業台へ移ったのは乾くんだった。
台の上に出ていたレンチとドライバーを一本ずつ手に取り、柄の向きを揃えて専用のラックに戻していく。
金属が触れ合う音は、ほとんど立たなかった。
「気のせいだろ」
「私、何か変なこと言った?」
「……言ってねぇよ」
乾くんは、ラックを見たまま答えた。
「じゃあ、なんでそんなに遠くにいるの」
いつもなら、狭い作業場のなかで、肩が触れ合うくらいの距離にいる。
工具を渡すときも、棚の上段に手を伸ばすときも、どちらかが動けば、どちらかの袖が触れた。
なのに今日の乾くんは、私から二歩分くらい離れた場所を、きっちり保ったままだった。
私が一歩近づくと、乾くんは一歩分だけ横へずれる。
もう一歩近づけば、背を向けて、足元の工具箱の蓋を開けた。
中身を探すように俯いて、こちらへ顔を向けない。
「オマエ、用がないなら帰れよ」
声は尖っていた。
最後の一言だけ、妙に投げやりだった。
「乾くんと話したいからここにいるの」
「……話すことなんてねぇだろ」
「あるよ。たくさんある」
乾くんは、工具箱の蓋を閉めた。
作業台に両手をつき、小さく息を吐く。
金髪がわずかに揺れ、火傷の痕がのぞいた。
「……オマエ、昨日が何の日だったか知ってるか」
低く呟かれた言葉に、私は首をかしげた。
「え? 昨日って10月18日?」
記憶を探りながら答えると、乾くんの背中がわずかに強張った。
「……ああ」
「うーん……」
何かあった気がして、記憶を探る。
けれど、手がかりになりそうなものは何も出てこなかった。
乾くんが、ゆっくりと振り返った。
眉尻が下がり、唇がきゅっと引き結ばれている。
何か言いかけて、結局は何も言わないまま息だけを吐いた。
「……もういい。帰れ」
「えっ、ちょっと待ってよ。なんで怒ってるの?」
「怒ってねぇ」
「絶対怒ってる!」
乾くんは返事をしないまま、棚から上着を引き抜いた。
袖に片腕を通し、もう片方へ通そうとして、一度空を切る。
襟が片側だけ折れ込んだまま、肩に引っかかっていた。
私は二歩分の距離を、ひと息で詰めた。
折れた襟へ指先が届く寸前、乾くんの肩がすっと引いた。
「触るな」
短い声だった。
伸ばした手が、行き場を失って宙に残る。
指先に触れたのは、作業場の冷えた空気だけだった。
「乾くん……」
呼んでも、返事はなかった。
乾くんの手が、引き戸の枠にかかる。
戸はレールの上を、低く鳴きながら滑っていった。
◇
外はもう薄暗かった。
路地の端に溜まった夕闇を、冷たい秋風が撫でていく。
乾くんの背中はどんどん遠ざかっていった。
私は小走りでその後ろを追う。
足音がアスファルトにふたり分、ばらばらに響いた。
10月18日。
何の日だっただろう。
締め日ではない。
給料日には、まだ早い。
燃えるゴミの日は、火曜と金曜だ。
それとも——。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
取り出して画面を点けると、通知がいくつも並んでいた。
昨日の昼に届いていたリマインダーは、ほかの通知に埋もれて、すっかり見落としていた。
通知欄をスクロールすると、乾くんの名前が目に入った。
昨夜、23時48分。「起きてるか」。
その3分後に、もう一件。「やっぱ、なんでもねぇ」。
指が止まる。
足も止まった。
「……あ」
半歩先を歩いていた乾くんも、ぴたりと止まった。
「……思い出したか」
「……乾くんの、誕生日」
沈黙が落ちた。
風が街路樹の葉を揺らす音だけが、ふたりのあいだを通り抜けていく。
乾くんが、ゆっくりとこちらを向いた。
眉尻は下がっているのに、唇は意地を張るように、きゅっと結ばれている。
視線が私の顔から手の中のスマホへ、一度だけ落ちた。
「遅ぇよ」
低い声が、夜気の中に落ちた。
「ちが、忘れてたわけじゃ……」
「忘れてたんだろ」
「……ごめんなさい、忘れてました」
声は冷たかった。
語尾だけが、ほんの少し尖っていた。
私は言いかけた言葉を飲み込んで、頭を下げた。
「……ごめん、本当にごめんなさい」
「……オマエにとっては、その程度のことなんだろ」
「違う! そんなことない!」
「何が違うんだよ」
乾くんは視線を足元のアスファルトに落とし、ポケットに両手を突っ込んだ。
肩が、少しだけ内側へ丸まっている。
「オレは、ずっと待ってたのに」
風に紛れて、消えそうな声だった。
それでも、はっきりと耳に届いた。
「ごめんなさい……」
「■■■が一番最初に祝ってくれると思ってた。勝手に期待して、勝手に待ってたオレが馬鹿みたいだ」
ポケットの中で拳を握ったらしい。
上着の布が、内側から張った。
折れ込んだままの襟が、肩の上で風に揺れている。
顔を上げないまま、小さく鼻を鳴らした。
「……ごめんね」
私は顔を上げて、乾くんの目を見た。
「本当にごめんなさい」
乾くんが、ようやくこちらを向いた。
視線がぶつかる。
今度は逸らされなかった。
「あの、これから挽回のチャンスをもらえたりしませんか……」
しばらく眉を寄せていたが、やがて息を吐いて横を向いた。
「……一緒にケーキ食いたかった」
「今から買ってくる!」
「もう店開いてねぇよ」
「じゃあ、ほかに乾くんの食べたいもの、なんでも奢るから!」
乾くんはポケットから片手を出して、後頭部をわしゃわしゃとかいた。
視線が足元で一度、二度と行き場を探す。
それから、低く言った。
「……じゃあ、■■■の料理が食いたい」
◇
ケーキ屋のシャッターは、やはりもう下りていた。
そこで、帰り道のスーパーに寄ることにした。
カゴを取ろうとした私の手より先に、乾くんの手が持ち手を掴んだ。
何も言わずに、そのまま売り場へ歩き出す。
玉ねぎの前で私が小さいほうに手を伸ばすと、乾くんが無言で大きいほうを一つ取って、カゴに入れた。
そのまま売り場を進んでいると、ふいに乾くんの足が止まった。
隣を見ると、値引きシールの貼られたショートケーキをじっと見つめている。
透明なケースには、二つのケーキが並んでいた。
「ケーキも買う?」
声をかけると、乾くんは一度こちらを見てから頷いた。
「……買う」
そう答えて、乾くんはケーキのパックを手に取ってカゴに入れた。
レジ袋は、私が手を伸ばすより先に乾くんが持ち上げた。
空いたほうの手が、帰り道のあいだ何度か私の手に触れた。
そのたびに指先がかすめても、乾くんは手を離そうとしなかった。
私の部屋に着くと、乾くんはキッチンカウンターの椅子に腰を下ろした。
片肘をつき、スマホの画面をスクロールしている。
親指は、ときどき止まった。
玉ねぎを刻み、挽肉をこねて、成形したハンバーグをフライパンに並べた。
じゅう、と肉の焼ける音が部屋に広がる。
その音がするたびに、スマホの画面に向いていた乾くんの視線がこちらへ向いた。
すぐにスマホへ戻るものの、また肉の焼ける音に顔を上げる。
それを何度も繰り返していた。
焼き上がりを待っている間に、背後で椅子の脚が床を擦った。
振り向くと、乾くんが食器棚を開けて皿を二枚出していた。
大きいほうを、私のすぐ横の台に置く。
「……ここでいいか」
「うん、ありがとう」
作業場ではあんなに離れていたのに、今はすぐ隣にいる。
乾くんは何も言わないまま、椅子へ戻っていった。
「形、ちょっと崩れちゃった」
皿に盛ったハンバーグを、乾くんの前に置いた。
形は少し歪で、竹串を刺した跡から肉汁がにじんでいる。
それでも焼き色は悪くなかった。
箸を差し出すと、乾くんは無言で受け取った。
ハンバーグの端に箸の先を入れて、ひと口大に割る。
切り口から、白い湯気が立ち上った。
肉汁が皿の縁へ流れていく。
割った一片を口に運び、ゆっくりと噛んだ。
そのあいだ、部屋にはレンジフードの低い音だけが響いていた。
「……どう?」
「……普通」
「そっか、ごめんね」
「……でも、まずくはない」
そう言って、乾くんはふた口目を切り分けた。
さっきまで丸まっていた肩が、いつのまにか下がっている。
箸を運ぶ手は一度も止まらなかった。
「乾くん」
「なんだよ」
箸を持つ手が、皿の上で止まった。
「一日遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう」
口の中のものを飲み込んでから、乾くんは小さく咳払いをした。
「……ほんと、遅ぇよ」
「うん、本当にごめんね」
「……もう一回」
「え?」
「おめでとうって、もう一回」
私は少し笑って、言い直した。
「お誕生日おめでとう、乾くん」
「……もう一回」
「お誕生日おめでとう」
三度目で乾くんは箸を置いた。
かたんと箸が皿に触れて、乾いた音を立てた。
「……あと一個だけ、頼んでもいいか」
「うん、もちろん!」
カウンター越しに身を乗り出すと、椅子が引かれ床を擦った。
乾くんが立ち上がり、カウンターを回り込んでくる。
調理スペースに立っていた私との距離が、あっという間になくなった。
手に持っていたフライ返しがフライパンの縁に当たって、小さく鳴った。
「え、乾く――」
名前の最後まで、言えなかった。
大きな手が、私の後頭部に回った。
指が髪の根元に差し込まれ、引き寄せられる。
視界が金髪と近すぎる輪郭でいっぱいになった。
唇に温かいものが重なった。
唇が触れたまま、ほんの数秒。
深く重ねることもなく、ただ静かに触れ合うだけのキスだった。
ゆっくりと顔が離れると、乾くんの目元がわずかに揺れた。
乾くんはすぐに横を向いた。
その頬は、耳の先まで赤くなっていた。
片手で前髪を払って、なんとか耳を隠そうとしていた。
「……許してもらえた?」
「……半分」
「じゃあ、残りの半分は?」
「食べ終わった後、たっぷりもらう」
思わず顔が熱くなった。
何をするつもりなのか聞き返せず、俯いてしまう。
乾くんは視線を逸らしたまま、私の手首をそっと掴んだ。
力は、ほとんど入っていなかった。
それなのに、指の腹が触れたところで、脈が一度大きく跳ねた。
「……埋め合わせ、してくれるんだろ?」
「……うん」
「期待していいよな?」
小さな声でそう言って、乾くんの親指が私の手首をそっと撫でた。
くすぐったいような感触に、胸の奥が落ち着かなくなる。
何か言おうとしても、うまい言葉が見つからなかった。
やがて、乾くんは名残惜しそうに手を離した。
皿の上のハンバーグは少し冷めかけている。
乾くんは何も言わずに箸を持ち直し、さっきよりも早いペースでハンバーグを食べ進めた。
「……来年は、忘れんなよ」
「うん。絶対に忘れない」
そう答えると、乾くんはようやく小さく笑った。
「……ケーキはあとでな」
そう言って、乾くんは私の手を引いた。
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