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薄暗い部屋に雨音が降り積もるように満ちていた。
窓ガラスを伝う水滴が細い筋をいくつも描いては、また新しい水滴に呑み込まれていく。
湿気を含んだ空気は肌にじっとりとまとわりついて、時間の流れまで少し重たくしているようだった。
畳まれた布団の端に腰を下ろし、膝を抱え込んだまま、ぼんやりと窓の外を眺める。
灰色に霞んだ景色には見るべきものは何もない。
それでも視線を逸らせずにいたのは、背後から聞こえる音がひどく心地よかったからかもしれない。
少し離れたところで、彼は膝の上にノートパソコンを広げていた。
一定の間隔で刻まれる打鍵音が、雨音の合間にそっと入り込んで、ふたつの音が不思議なほど自然に重なっている。
やがて、その音がふっと途切れた。
振り向くと、画面の明かりに縁取られた彼の横顔が、ゆっくりとこちらを向いていた。
「なんだよ、さっきから溜息ばっかついて」
不意にかけられた声に、自分が何度も息を吐いていたことを知る。
胸の奥に溜まったものが、無意識のうちに零れていたらしい。
「……なんでもない」
視線を膝に落として答えると、返ってきたのは短い沈黙だった。
雨音だけが、変わらず窓の向こうで続いている。
「言いたいことあんなら言えよ」
乱暴な言い方なのに、声に棘はなかった。
ノートパソコンの蓋が静かに閉じられて、彼がこちらを向く気配がする。
答えようとして口を開いては閉じた。
言葉にすればきっと簡単な形になってしまうのに、その形に収めてしまうのが怖かった。
窓の外では雨粒がガラスを伝って落ちていく。
ひとつ、またひとつ。
止まってくれればいいのに、と思った。
「……大人になりたくないなって考えてた」
言葉は、雨音にまぎれて消えそうなほど細かった。自分でも驚くほどの小ささだった。
時間はこちらの都合などお構いなしに流れて、周りの景色だけが少しずつ形を変えていく。
自分だけが取り残されていくような気がして、胸の奥が重くなった。
ココは視線を落としたまま、呆れたように息を漏らして笑った。
馬鹿にするような響きではない。
けれど、慰める気もないらしい。
「くだらねぇ。オレは早く大人になりてぇけどな」
「なんで? 大人は大変なことばかりだよ」
「ガキのままじゃ、守れるもんも守れねぇだろ」
淡々とした口調だった。
冗談めかした気配は少しもなく、窓の外へ向けられた横顔には、ほんの一瞬だけ、ここにはないどこか遠くを見ているような色が浮かんでいた。
「……ココは、ちゃんと先を見てるんだね」
「別に普通だろ」
「普通じゃない人ほど、そう言うんだよ」
思っていたより、強い声が出た。
「……何が言いたいんだよ」
苛立ちの混じった声が返ってくる。
けれど、こちらを見据える瞳の奥には揺らがない硬さがあった。
その危うさが見ていられなかった。
これ以上言葉を重ねても、届かない気がした。
「……手」
そう呟いて、そっと掌を差し出す。
ココは虚を突かれたように、一度だけ瞬きをした。
それから眉をひそめ、差し出された手をじっと見つめた。
半ば強引に、彼の手を引き寄せた。
指の隙間へ自分の指を滑り込ませて絡めると、冷たい指先がためらいがちに触れ合い、そこから体温が伝わってくる。
ココの手は自分の手とはまるで違う、男の子らしい手だった。
「……頼りなくてごめんね」
目を合わせられないまま、そう口にした。
一人で抱え込ませてしまうのは、きっと自分がまだ、頼れる相手になれていないからだ。
それ以上は言葉にできず、代わりに絡めた指をぎゅっと握りしめる。
ココの視線が繋がれた手元に落ちた。
その気になれば簡単にほどけるはずなのに、彼の手は力を抜いたまま、ただそこにあった。
「……何、言ってんだよ」
「わたしがこんなんだから、力になれないんだなって」
返事はすぐに返ってこなかった。
眉間にしわを寄せたまま、視線だけをそっと逸らす。
「……勝手なこと言ってろ」
吐き捨てるような言い方だった。
けれどその直後、絡めた指がほんの少しだけ強く握り返された。
気づかなければ見逃してしまいそうなほどの、小さな力だった。
それでも今は、十分だった。
雨脚はいつの間にか弱まっていた。
窓ガラスを叩く音が細くなり、水滴の落ちる間隔が、少しずつ間延びしていく。
どちらも口を開かないまま、しばらく時間が過ぎた。
繋いだ手だけが、ふたりのあいだで静かに温度を持っている。
冷たかったはずの指先は、いつの間にか自分の体温と見分けがつかなくなっていた。
「……オマエさ」
先に沈黙を破ったのはココのほうだった。
視線は窓の外に向けられたまま、声だけが低く落ちてくる。
「大人になりたくねぇなら、ならなくていいだろ」
あまりに素っ気ない言い方で、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「え……」
「オレは先に行く。オマエが来たくなったら来りゃいいし、来たくなけりゃ、そこで勝手にやってろ」
投げやりな口調だった。
けれど握られた手は、さっきよりもずっと確かな力でこちらを繋ぎ止めている。
時間は止まってくれない。
それは、これからも変わらない。
変わっていく景色のなかで、自分だけが立ち尽くしている気がして、怖かった。
けれど、その先にもう誰かが立っていて、ここへ手を伸ばしてくれているのなら、置いていかれるという言葉の意味は少しだけ違って聞こえた。
「……ありがとう、ココ」
「礼なんかいらねぇよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、ココはそれきり黙り込んだ。
耳の縁が、ほんのりと赤く染まっているのが見える。
見なかったふりをして、ただ繋いだ手に力を込めた。
窓の外では、雨雲の切れ間から薄い光が差し込みはじめていた。
濡れた景色が、ゆっくりと明るさを取り戻していく。
雨は、じきに止むだろう。
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