乾青宗
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半開きの窓から、雨上がりの湿った風がカーテンを揺らして入り込んでくる。
濡れたアスファルトの匂いがほのかに漂い、風に押されたカーテンの裾がわずかに揺れる。
ソファの端に腰掛けた青宗は、膝の上に置いた愛車の部品を真剣な顔つきで見つめていた。
作業に没頭している時の横顔は、いつ見ても近寄りがたいほど整っていて、見ているだけで息が詰まりそうになる。
自分の部屋なのに妙に落ち着かず、ソファの反対の端でソワソワしたまま、ローテーブルの上のコップを持ち上げた。
冷えた麦茶を喉に流し込むと、氷がカラリと崩れる。
「……ねえ」
声をかけると、パーツを拭く手がふっと止まった。
「それ、いつまで磨くの」
「気が済むまで」
青宗は短く答えて、また金属の表面に視線を戻した。
あまりにも素っ気ない返事に、思わず小さく肩をすくめる。
昔からこういうヤツだとは分かっているけれど、もう少し構ってくれてもいいのにと思ってしまう。
「何だよ」
「別に。何でもない」
「嘘つけ。顔に出てんぞ」
眉をひそめて、まじまじとこちらの顔を見てくる。
隠し事が苦手なのは自分でも分かっているけれど、そう直球で指摘されると気恥ずかしさが先に立って、目を合わせていられない。
背中を丸め、コップの結露を指でなぞって視線をごまかした。
「……せっかく一緒にいるのに、ちょっと寂しいなって思っただけ」
「オレが喋らねえからか」
「……まあ、そう。作業に夢中だったし」
「悪かったよ」
そう言いながら、青宗は座り直してすっと距離を詰めてきた。
膝と膝がかすかに触れ合う位置まで寄ってくると、触れたところからじんわりと熱が伝わってきた。
「で? 構ってほしかったのか」
「……別に、そんなんじゃないし」
「はいはい。そういうことにしといてやるよ」
ニヤリと口角を上げたその顔が、年相応の男の子らしく見えて、ドキッとしてしまうのが悔しい。
思わず目を逸らすと、頭の上にぽんと大きな手が乗せられた。
髪を乱暴に撫で回されて、慌ててその手を払いのける。
「ちょっと、崩れるってば」
「いいだろ、部屋にいるだけなんだから」
「そういう問題じゃないの。せっかく、ちゃんとしてたのに」
「ちゃんと?」
「……誰かさんと会うから、ちょっと頑張ったの」
「……」
「……なんか言ってよ」
返ってきたのは、沈黙だけだった。
青宗は自分の膝に置いた手をしばらく見つめてから、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
呆れたような、けれど柔らかい眼差しに、払いのけた手を宙に浮かせたまま動けなくなった。
「なに……」
「……オマエ、いつもそうだよな」
「……どういう意味」
「せっかく頑張っても、オレが動くまで動かねえだろ」
「……それは」
「図星だろ」
「……青宗が、いつも先に動くからじゃん」
「オレのせいかよ」
「そうじゃないけど……」
「たまにはさ、オマエからキスでもしてみろよ」
低く抑えられた声が、部屋の静けさにすっと溶けていく。
あまりにも平然と言い放たれた言葉に、耳が熱くなるのを感じた。
冗談を言っている様子でもなく、甘い雰囲気を作ろうとしているわけでもない。
ただの思いつきのように言われたからこそ、余計に動揺が広がる。
「……え?」
「聞こえてただろ」
「聞こえたけど、なんで急に」
「急じゃねえよ。ずっと待ってた」
少しだけ首を傾げて、こちらの反応を窺うようにじっと見ている。
目を合わせていられなくて視線を落とすと、Tシャツの胸元が息を吸うたびにわずかに上下していた。
「待ってたって……」
「オレからばっかりすんの、なんか悔しいだろ」
「……そんなこと、気にしてたんだ」
「気にするだろ、普通」
ぶっきらぼうに言い捨てる口調とは裏腹に、ちらりと見上げた耳たぶが赤くなっているのを見逃さなかった。
けれど、いざ自分からしろと言われると、どうしていいのか分からなくなる。
自分から踏み出す一歩の高さに、指先がかすかに震える。
顔を上げると、黙ってこちらを見ている青宗と目が合った。
「……そんな顔で待たないでよ」
「どんな顔だよ」
「……分かってるくせに」
「いいから、早くしろ」
平然を装って言い放つ青宗を、軽く睨む。
けれど、その視線は揺らがず、こちらが動き出すのをじっと待っている。
膝の上に置かれた手のひらが、おいでと言うようにゆっくりと開かれた。
部屋を包む沈黙が、だんだんと重たくなっていく。
窓の外は雨上がりの静けさで、遠くを走るバイクのエンジン音が小さく響いていた。
部屋の中には、壁掛け時計の秒針が刻むカチカチという音だけが残されている。
目の前の瞳は、変わらずこちらを見つめている。
青宗が耳を赤くして待っている姿を見てしまった以上、このまま引き下がるのは負けた気がする。
「……目、閉じてよ」
「何でだよ」
「見られてたら、絶対にできないから」
「今更、見られたくらいで何だよ」
「いいから閉じて。閉じないなら、しない」
不満そうに小さく舌打ちをして、渋々といった顔でゆっくり瞼を閉じた。
長くて綺麗なまつ毛が、頬の上に影を落とす。
いつも以上に整った顔立ちが際立って、かえって緊張が増してしまった。
意を決して、少しだけ体を乗り出す。
近づくほどに、体温が伝わってくる気がして胸が騒ぐ。
ゆっくりと顔を寄せていく間も自分の心臓の音がうるさすぎて、頭が真っ白になりそうだった。
鼻先が触れるか触れないかという距離まで近づいた時、青宗の唇がわずかに動いた。
「まだかよ」
「……喋らないで」
「早く来いよ、■■■」
名前を呼ばれた瞬間、頭の中が真っ白になった。
焦った拍子に、勢い任せに唇を押し当てる。
触れるだけの、拙いキスだった。
コツンと歯が当たりそうになって慌てて顔を引こうとしたけれど、すかさず後頭部に手が回される。
「……っ」
引き戻されるまま、今度はしっかりと唇が重ねられる。
目を閉じてと言ったはずなのに、青宗の瞼はいつの間にか開いていて、至近距離でばっちり目が合ってしまった。
「……嘘つき。目、開けてるじゃん」
「途中からだからノーカンだろ」
「なにそれ、ズルい」
「オマエの顔見れるなら、ズルくてもいい」
「……そんなの、見なくていいから」
「下手くそだったな」
「下手って言わないでよ」
「でも、悪くなかった」
そう言って、頭をぽんぽんと叩かれる。
払いのけたいのに、その手つきが思いのほか優しくて、今度は動けなかった。
恥ずかしさをごまかすように、俯いたまま小さく呟く。
「……もう絶対にしない」
「いいよ。オレからするから」
低く笑う声がして、言い返そうと開いた唇を、指先がそっと押さえる。
そのまま顎をすくい上げられて、逃げる間もなく唇が重なった。
さっきの触れるだけのキスとは違う。
ゆっくりと角度を変えて深く重ねられ、息の仕方も忘れてしまう。
抗議するつもりで持ち上げた手は、いつの間にかTシャツの裾を握りしめていた。
半開きの窓から、雨上がりの湿った風がカーテンを揺らして入り込んでくる。
けれど、頬の熱はしばらく引きそうになかった。
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