松野千冬
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小雨がちらつき始めた通りを、少し足早に歩いていく。
約束の時間まではまだ余裕がある。
それでも、自然と歩調が速くなる。
濡れたアスファルトに街灯の光がにじみ、冷えた空気が頬をかすめた。
路地を折れた先に、小さなペットショップの灯りが見えてきた。
ガラス越しに覗き込むと、店内で片付けをする背中が見えた。
シャツの袖を捲り上げ、ケージの掃除をしている。
ドアに手をかけると、ベルがチリンと小さく鳴った。
カウンターの奥から顔を上げた千冬と目が合った。
一瞬、目を見開いたが、すぐに柔らかな表情に戻った。
「おう、早かったな。外、降ってきたか?」
「うん、ちょっとだけね。まだ傘がいらないくらいだけど」
「そっか。とりあえず、こっち入れよ」
千冬に促され、カウンターの横から奥のスペースへ入った。
使い込まれた丸椅子を引いて腰掛けると、千冬はすぐに温かいマグカップを差し出してくれた。
湯気とともに、甘い香りがふわりと立ち上った。
「ありがと」
「いいよ。ちょうどオレも休憩しようと思ってたところだから」
そう言って、千冬も自分の分を片手に隣の椅子へ腰を下ろした。
少し長めの前髪をかき上げる仕草は昔と変わらないのに、どこか大人びて見える。
ここ数か月、まともに顔を合わせる時間が取れなかった。
連絡は取り合っていたけれど、こうして直接向き合うのは久しぶりだった。
「仕事、忙しそうだな」
「千冬こそ、店の方は落ち着いた?」
「まあな。なんだかんだバタバタしてたけど」
「そっか」
久しぶりすぎるせいか、どの距離感で話せばいいのか、少し迷ってしまった。
千冬も、探るように言葉を選びながら話していた。
マグカップの縁を指でなぞりながら、千冬がぽつりと呟いた。
「……なぁ」
「ん? なに?」
「オマエ、最近なんか遠慮してねぇか?」
思いがけない指摘に、心臓が跳ねた。
「え? 遠慮なんてしてないよ」
「返事も短いし、誘っても無理しないでばっか」
「それは……千冬が仕事で大変そうだったから。邪魔したくなかったし」
膝の上で指をギュッと握りしめた。
千冬の負担になりたくないという気持ちは本当だった。
けれど、それが逆に壁を作っていたのかもしれない。
千冬は深く息を吐くと、カップを近くのテーブルに置いた。
それからゆっくりと立ち上がり、すぐ目の前まで歩み寄ってきた。
「邪魔なわけねぇだろ」
低い声が、頭上から降ってきた。
見上げると、千冬が困ったように眉を下げてこちらを見つめていた。
「オレ、めちゃくちゃ会いたかったんだけど」
「それは……その……」
急に千冬が言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を泳がせた。
耳の先端がほんのり赤くなっている。
「……わりぃ、責めるような言い方した」
「ううん、私も……ちゃんと言わなかったから」
「いや、オレも素直に言えばよかった」
千冬は一度言葉を切り、少し頭をかいた。
それから視線を戻し、目の前でゆっくりと屈んだ。
視線が重なると、千冬の手のひらが頬に優しく触れた。
指先から伝わる体温が、冷えていた肌をじんわりと温めていった。
「■■■」
久しぶりに名前を呼ばれて、胸の奥がキュッと締め付けられた。
「素直になれなくてごめん」
「ううん……私こそ、ごめん」
「オマエもさ、もっと我儘言ってくれていいのに」
「千冬に迷惑かなって勝手に思い込んでた」
「迷惑なわけねぇだろ。バカ」
クシャッと頭を撫でられ、そのまま引き寄せるように強く抱きしめられた。
肩口に顔を埋められ、千冬の腕の力強さと体温を肌で感じた。
「会いたい時は会いたいって言えよ」
「うん」
「オレもちゃんと伝えるから」
耳元で聞こえる低い声が心地よくて、自然と背中に手を回していた。
しっかりと抱き返すと、千冬の身体が少し跳ねたような気がしたけれど、すぐにさらに強く力を込められた。
「約束な」
「うん、約束」
積もっていた不安も、ぎこちなかった空気も、千冬の体温に溶けて消えていった。
雨音さえ遠くなるくらい、二人の間だけ時間が緩んでいた。
「……お店、お客さん来ちゃう」
「クローズの看板出してるから平気」
「……そっか」
「だからもうちょい、このままでいさせて」
答える代わりに、千冬の背に回した腕にきゅっと力を込めた。
頭上で、満足そうに息を漏らす気配がした。
重なる温もりに身を委ねると、離れていた時間さえ惜しく思えた。
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